デンマーク戦争
古い独和辞典の巻末付録にお宝があった。
実はそこに1806年神聖ローマ帝国解体時の勢力地図が載っていた。これによるとブラームスの故郷ハンブルクはデンマーク領に接しているように描かれている。リューベックとハンブルクを結ぶ線がデンマークとの国境になっている。不思議に思って調べてみた。
当時そのあたりにはホルスタインとシュレスヴィヒという2つの公国があった。どちらもデンマーク王家の親戚が支配しているから実質的にデンマークだったという訳で、先の勢力図では大胆に簡素化して描かれていたということだ。この地の領有をめぐって1848年と1864年の2度にわたってデンマーク王国とプロイセンが戦った。結果プロイセンが勝ち、これら2つの公国はプロイセンとオーストリア帝国の共同統治下におかれることになった。
その2年後に今度は勝った側の内輪もめが起きる。普墺戦争だ。これに勝ったプロイセンは両公国の支配からオーストリアを締め出すことに成功した。現在のシュレスヴィヒホルシュタイン州である。
この2公国がプロイセンの支配になった2年後1868年3月25日ブラームスはコペンハーゲンでの演奏会の折、コペンハーゲンの立派な博物館を称賛して「これがドイツにあったら」と口を滑らす。両国の微妙な情勢を読めないブラームスの舌禍事件であった。ブログやツイッターなら炎上だ。
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