普墺戦争
プロシアとオーストリアの戦争。1866年6月15日にプロシアの宣戦布告により開戦し、8月23日にはプロシアの勝利で終結した。欧州の情勢はなかなか複雑で、大雑把な理解にたどり着くにももう少々の説明が要る。
ナポレオン戦争の後始末として生まれたドイツ連邦の内輪揉めと見ることも出来るらしい。ドイツ連邦の盟主はオーストリアだ。この戦争はそのオーストリアと他の連邦加盟国の戦いという図式になっているからだ。産業革命に遅れまいと近代化を図るプロイセンが、その過程でオーストリアの位置づけと扱いを決着させた戦いと評価されている。この敗戦の結果オーストリアは、域内に多数のドイツ系住民を擁しながら、ドイツ統一推進の枠外に置かれることとなった。
1866年開戦という事実を凝視する中から疑問もわき上がる。
1862年にウィーンに進出し1863年にはジンクアカデミーの指揮者を引き受けたブラームスは、そのころウィーン定住を決めていた。申すまでも無くブラームスはハンブルクの出身だが、そのハンブルクは一都市でありながら高い自治を認められた自由都市だった。先に述べたドイツ連邦においても、その議会で議決権を認められた存在だ。ということはつまり普墺戦争においてはオーストリアと敵対関係にあったということだ。
オーストリア側から見れば敵国人が首都にいるということだ。白い目で見られたりはしなかったのだろうか。
当時オーストリア域内には相当な数のドイツ系住民がいた。この人たちをいちいち敵国人扱いしていたらキリが無いというのが真相だろうと思う。何よりも戦争は7週間で終わったから、実際の影響はほぼなかったと思われる。ちなみに「美しく青きドナウ」はこの戦争で落ち込む市民を励ます意図があったらしい。後年ブラームスは、シュトラウスの娘の求めに応じてサインをした際に、冒頭の一節を書き「遺憾ながらヨハネス・ブラームスの作にあらず」としたためたというエピソードが知られている。普墺戦争のことを深刻に受け止めていたとは思えない。
1871年フランスとの普仏戦争については、ブラームスの伝記でも頻繁に言及されるが、普墺戦争については、あまり話題にならない。
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