ニコルスブルク
チェコとオーストリア国境の街。チェコ領ブルノの南およそ50kmにある。ウィーンまでは南南西に70kmの位置にある。現在はチェコ領なのでミクロフと呼ばれている。1866年7月ケーニヒグレーツの戦いに勝利したプロイセン軍は、ウイーンを目指して南下中に、フランスナポレオン3世から早期休戦の提案が出された。プロイセン軍はこの地で進軍を一時中止する。
同地のニコルスブルク城で、提案の受け入れをめぐって皇帝を交えた大論争が起きた。モルトケを含む軍首脳はウィーン入城を主張し、皇帝ウィルヘルム一世までもこれに同意する中、一人ビスマルクだけが断固反対の立場をとる。ビスマルクの反対の理由は以下の通り。
- フランスの提案を拒否すれば、フランス軍のライン地区への侵入もあり得る。
- ウイーンへの入城はオーストリア側に禍根を残す。
皇帝の説得が出来ねば自決までも考えたビスマルクだが、ここで皇帝の息子皇太子のちのフリードリヒ3世が、ビスマルク支持に回って何とか皇帝の説得に成功する。軍部は不満たらたらだったし、世論は弱腰を嘆いたが、フランスの落胆はそれ以上だった。7月26日に成立した「ニコルスブルクの仮条約」は、フランス側に軍事介入の口実が無くなった上に、オーストリアに貸しを作った。
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