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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2012年6月30日 (土)

噴水代

バイエルン王ルートヴィヒ2世はフランス嫌いではなかった。庶民感情やビスマルクの剛腕に屈して普仏戦争ではプロイセンについたが、内心はプロイセン嫌いだった。だからという訳でもなかろうが、合計3回フランスを訪問している。フランス人たちも王のプロイセン嫌いを知っていたのだろう。

1874年8月21日から27日までの訪問の際に興味深いエピソードがある。そもそもこの日程が意図的だ。彼の誕生日8月25日が含まれている。そして皮肉なことにバイエルン王のフランス訪問にはビスマルクの許可が必要だったのだ。パリ・ベルサイユ宮殿で誕生日を迎えた彼を祝うため、ベルサイユ宮殿の噴水を特別に上げさせていた。そこいらのチンケは噴水とは違って大掛かりなものだったらしく、その費用が5万フランにも達してパリの世論が紛糾した。「そんなものはビスマルクに払わせろ」という具合だ。

2012年6月29日 (金)

バイエルン王の普仏戦争

普仏戦争の天王山ゼダンの戦いがプロイセンの圧勝に終わったとき、バイエルン王ルートヴィヒ2世は側近に「かわいそうなフランス」とつぶやいたという。フランスはもちろん、オーストリアやプロイセンからも独立を保つことを目指しルイ14世を尊敬する王の言葉としては自然とも感じるが後に精神病認定される原因の一つになった。バイエルン王国は、対仏戦不可避の空気の中で世論はプロイセンとの共同に傾くが、ルートヴィヒ2世は戦勝後プロイセンによるバイエルンの扱いを憂慮していた。ゼダンの勝利を祝う日に彼はミュンヘンの街にプロイセンの国旗を掲げることを禁じようとしたほどだ。

彼の母マリーはプロイセン王家ホーエンツォレルン家の出身。その母が統一ドイツの皇帝について話を持ちかけようとしたとき、ルートヴィヒ2世は実の母に対して「今プロイセンの王女と謁見する気になれない」と言って会うことを拒否した。この母子はずっと関係が悪かったから「どうせ実家のウィルヘルム1世が即位するという話だろう」と考えたに違いない。ルートヴィヒ2世のプロイセン嫌いの根底にはプロイセン出身の母との確執があった。このエピソードは王が狂っていない証拠とも思える。

狂っていない証拠をもう一つ。ルートヴィヒ2世は、「この次の戦争がドイツを壊すだろう」といった。プロイセンへの対抗意識を忘れ対仏戦勝利に酔いしれる世論の中にあっては浮き上がったコメントだが、それこそがビスマルクの思う壺であると気づいていてこその発言。ドイツが普仏戦争を最後に対外戦争に勝てていない歴史を見れば、この発言はむしろ慧眼と呼ぶべきものだ。

2012年6月28日 (木)

後援券

ドイツ帝国成立後、急ピッチで造営が進んだバイロイト祝祭劇場だが、例によって毎度お決まりの資金難に直面する。ルートヴィヒ2世からの巨額融資をもってしても埋まらぬ呆れた資金難に対してワーグナーは金策に走る。

それが本日話題の後援券。1枚900マルクおよそ45万円の券を1000枚売りに出した。案の定半分しか売れずに焦ったワーグナーは、買ってくれそうな人々に趣意書を送る。これを購入することでのメリットが不明なのでなんともいえないが、半分売れただけでも御の字だと思うがいかがだろう。ワーグナーが趣意書を送った人の中に、鉄血宰相ビスマルクがいた。一旦ドイツ帝国が成立してしまえば、ワーグナーなんぞに用はないビスマルクは当然これを無視する。

現代ドイツでバイロイトが稼ぐ外貨を考えると、高いのか安いのか判らなくなってくる。

2012年6月27日 (水)

バイロイト音楽祭

ワーグナー楽劇を演目として毎年夏にバイロイトで開かれる。記念すべき第1回は1876年8月13日から開かれた。ハンス・リヒターの指揮で「ニーベルングの指環」全曲が初演された。もはや国家的一大事の様相を呈する。バイエルン王ルートヴィヒ2世、ドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世の他、ブラジル皇帝さえ含む華麗な国賓の他、音楽家ではチャイコフスキー、ブルックナー、リストらが顔をそろえた。

ブラームスは来ない。もちろん招待もされていない。

もう一人来なかった人物がいる。ビスマルクだ。ブラームスと違って招待を受けながらそれに応じなかった。ドイツ統一の前夜、バイエルン王ルートヴィヒ2世への工作のために、人を介してワーグナーに接近を図ったというビスマルクだが、ドイツ帝国が狙い通り成立してしまった後となっては、ワーグナーに用は無いとばかりに欠席をかました。ドイツ帝国成立の際に「皇帝行進曲」を献じた熱狂も、ビスマルクのこの仕打ちにより完全に冷めたと見られている。

さてさて集まったメンバーの華麗さに比して、収支は無惨だったという。15万マルクもの赤字を発生させた。およそ7500万円という赤字額はさすがのスケールだ。ブラームスの交響曲に払われた原稿料に換算して10曲分である。

第一交響曲の初演は同じ年の11月4日だ。

2012年6月26日 (火)

ワーグナー代

ブラームスは王侯貴族の庇護を離れ、作曲だけであるいは一部演奏や教授で飯が食えた最初の作曲家だったとしばしば指摘される。それでいて結構な額の遺産を残したともいう。一方ワーグナーの桁外れの金銭感覚についてはしばしば語られている。豪勢な話を一つ。

ワーグナーを援助したバイエルン王ルートヴィヒ2世が、ワーグナーに与えた金銭的援助の記録がバイエルン王国に残っていた。本日はそれを列挙する。

  1. 1864年 年俸4000グルテン(8000マルク) 5月4日王との謁見時から。
  2. 1864年 20000グルテン(40000マルク) 5月4日時点での借金の肩代わりと引越し代。
  3. 1865年 年俸5000グルテン(10000マルク) ワーグナーの要求により増額。
  4. 1865年 ボーナス30000グルテン。(60000マルク
  5. 1865年 ボーナス40000グルテン。(80000マルク
  6. 1866年 年俸6000グルテン(12000マルク)1882年まで続く。
  7. 1874年 ボーナス216152マルク。ドイツ帝国成立でマルクに変わる。
  8. 1878年 100000マルク バイロイト音楽祭向け融資の名目。

このほか、家賃、家具代、上演費は王室もちだったが金額がわからない。話を判りやすくするためにマルクに換算して上記赤文字の金額を足す。これだけで51万6152マルクだ。こうした単純合計だけではいけない。上記6番の6000グルテンが17年続くので16倍した192000マルクを加えねばならない。

70万8152マルク。現代の円への換算は難しいが1マルクはおよそ500円だから、3億5407万6000円になる。19年間におよそ3億5千万円で1年あたり1864万円。王とワーグナーが会った1864年に値が一致するというスペシャルな奇遇付きである。現代のスポーツ選手の高年俸に慣れてしまった感覚からはさほど高いと感じないのだが、当時としては破格である。参考までに申せばバイエルン王国の国家予算がつかめないのだが、1866年のプロイセンの国家予算は5億マルクだった。普墺戦争後ビスマルクに下賜された功労金が120万マルクだった。

ブラームスの交響曲1曲の原稿料がおよそ750万円だ。

2012年6月25日 (月)

ビスマルクとルートヴィヒ2世

ワーグナーを通じてバイエルン王ルートヴィヒ2世に工作を仕掛けたビスマルクは、1度だけルートヴィヒ2世と会っている。1863年8月17日18日両日プロイセン王のミュンヘン訪問に同行したとき、その歓迎の晩餐で隣り合わせの席になった。場所はミュンヘン郊外のニュンヘンブルク城。ルートヴィヒ2世の生まれた城であり、ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮だ。ビスマルクの宰相就任のおよそ1年後、国王ウィルヘルム1世の信頼厚い臣下としての列席である。

このとき17歳のルートヴィヒ2世の様子をビスマルクは事細かに日記に書いている。病気がちな父王の代理という大役を任された若き皇太子は、「心ここにあらず」という風情だったと記している。会話があるにはあったが、儀礼的な範囲にとどまったことを残念がっている。それでも利発さとセンスが感じられたとある。

2人の会見はこの一度だけだ。それでもルートヴィヒ2世は後年ビスマルクがバイエルンの保養地バート・キッシゲンを訪問するたびに、王室の専用馬車を差し回したという。

2012年6月24日 (日)

ビスマルクとワーグナー

あくまでもプロイセン主導によるドイツ統一を目指すビスマルクにとって、普墺戦争勝利によって、オーストリアを枠外に置くことに成功した後の課題はバイエルン王国だった。バイエルン王国の協力無しにドイツの統一はあり得ぬとまで思い込む。

普墺戦争開戦前夜、ビスマルクはバイエルンがオーストリア側に付かないようルートヴィヒ2世を説得してくれというメッセージを何とワーグナーに送る。ビスマルクのゲッティンゲン大学時代の学友で、ワーグナーとも懇意にしていたフランソワ・ヴィレに親書を託した。ちょうどワーグナーがルートヴィヒ2世に「天下三分の計」を献策していた時期だ。ルートヴィヒ2世がワーグナーの意見に耳を傾けるという関係を知っての奇策。

ワーグナーはこの要請を拒否する。表向きの理由は「ルートヴィヒは気紛れで自分の言うことなど聞かない」というものだったが、普墺戦争の結果を予見していた節がある。普墺戦争がプロイセンの圧勝に終わった後、バイエルン王国内の親オーストリア派は一掃され、国論がプロイセンとの共闘已む無しに傾くのと平行して、ワーグナーは次第にビスマルクに傾倒して行く。カトリックの牙城であるバイエルンとプロテスタントのプロイセンの連携に走らせたものとは、ただただフランスの脅威だった。

これはフランスの脅威を煽るビスマルクの巧妙な宣伝作戦によるところが多い。

かくして普仏戦争開戦前夜にはミュンヘンで「ワルキューレ」が初演され、戦後のドイツ帝国の発足に当たり、ワーグナーは喜びを隠していない。

2012年6月23日 (土)

入城料

ドイツ・ロマンティック街道のハイライトは、何と言ってもノイシュヴァンシュタイン城だ。1886年6月12日バイエルン王ルートヴィヒ2世は、自らが心血を注いで造営したこの城で、逮捕された。精神病をでっち上げられた末事実上のクーデターだった。首謀者ははっきりしないが、ルートヴィヒ2世の退位に伴い、後継王が直ちに即位したところを見ると入念な根回しがあったと見て間違いない。逮捕されて城を出るとき、城には人を近づけぬようにと申し伝えた。

謎に満ちた王の死はその翌日。シュタルンベルク湖畔で侍医グッデンとともに水死体で発見される。

王の命令にもかかわらず。ノイシュヴァンシュタイン城は王の死後わずか6週間後から一般公開が始まった。王室が抱える莫大な負債の返済がその理由だ。そのときの入城料が3マルクと判明している。現在日本のお金で1500円だ。なんだかリーズナブルで笑える。当時の下級労働者の年収が1000マルクだから、庶民にも何とかなる金額。

ちなみに現在の同城への入城料は9ユーロ。およそ1000円だ。

2012年6月22日 (金)

造営費

バイエルン王ルートヴィヒ2世は、時代の流れを省みず孤独に閉じこもったまま、ワーグナーに巨額の援助をしたというのが通説。これに劣らず築城にも興味とお金を注いでいた。ノイシュヴァンシュタイン城を含む3つの城の造営にかけた費用が3600万マルクといわれている。議会が承認した王室費の中からの出費だ。王から見れば「国が認めた俺の金」だというロジック。後日精神病認定される理由の一つになっている。

当時の感覚はもちろん尊重されるべきなのだが、現在の感覚で眺めると王にも一理あるような気がする。当時欧州を揺るがした普仏戦争。バイエルン王国も取り決めに従ってプロイセンについてフランスと戦ったのだが、この戦争でのバイエルン王国の戦費は5600万マルクだったという。およそ1年の戦争で5600万マルクを使った。城の造営費3600万マルクのおよそ1.5倍。加えて普仏戦争ではドイツ側で13万人、フランス側で28万人が戦死した。「城の造営では一人も兵を失っていない」とルートヴィヒ2世は言うに違いない。王は城の造営に従事する労働者のために保険制度も採用している。

とても狂った王の所業と断ずる気にはなれない。そしてその3つの城が現代ドイツでどれほどの外貨を稼いでいるかを見るとき、これを先見の明とさえ呼びたくなる。

2012年6月21日 (木)

ノイシュヴァンシュタイン城

ロマンティック街道の終点に鎮座するドイツ観光の超目玉。バイエルン王ルートヴィッヒ2世によって建てられた。1869年に建設が始まり、完成は1886年であった。軍事目的というよりも「趣味のお城」に近い。その証拠に正式名称は「Schloss Neuschwanstein」という。「ブルク」ではなくて「シュロス」になっている。

普仏戦争が1870年に始まリ翌年に終わっていることを思い出すまでも無く、19世紀後半のこの時期におよそ軍事的には無意味だったとされているのだが、建設費だけは莫大で国の負担は大変なものだった。

一方、ドイツ帝国の成立に腐心するプロイセンは、バイエルン王国の協力を欲していた。ウイルヘルム1世のドイツ帝国皇帝への即位を、「ドイツ諸邦の推挙によるもの」という体裁を整えるためにバイエルン王ルートヴィヒ2世の書簡を必要としていたのだ。いわゆる「皇帝推戴冠親書」である。バイエルン王にとってプロイセン主導のドイツ統一なんぞ内心面白くないに決まっているから、この説得には時間がかかった。

バイエルン王国に対しかなりの自治を認める扱いが事実上決め手となった。書簡の発信と引き換えに1800万マルクが支払われたという話もあるにはあるのだが、実際はもっと複雑。書簡発信への同意は、持参金の決定より前だったらしいのだ。王が造営費用欲しさに妥協したという説は成り立たなくななる。

やれやれ、ともあれこの大金がノイシュヴァンシュタイン城の建設費用に当てられたとされている。プロイセンからの資金援助で完成したのは事実らしいが、ウイルヘルム1世の即位の式典には、ルートヴィッヒ2世本人は歯痛を理由に代理を立てて出席せず、ビスマルクを悔しがらせた。

現代この城が獲得する外貨を考えると法外な費用とばかりも言えまい。

2012年6月20日 (水)

2人の息子

日露戦争中の激戦地・旅順203高地。過酷な戦闘の後に日本軍が陥れたのだが、攻めた日本の損害は甚大だった。司令官だった乃木将軍の子息も戦死している。

普仏戦争はプロイセンにとっての結果の輝かしさに隠れてしまっているものの個々の会戦は激戦だった。1870年8月16日のメツ西郊の会戦はその代表だ。プロイセン近衛騎兵師団は仏カンロベール軍団と交戦し、多数の死傷者を出した。このプロイセン近衛騎兵師団の中に、ビスマルクの息子2人がいた。20歳の長男と18歳の次男が負傷した。

セダンの戦いでナポレオン3世が捕虜になったことがあまりにも有名だし、実際プロイセンとフランスは10回まみえてフランスの勝利は1度だけという有様だから、一言で申せばプロイセンの圧勝なのだが、ミクロに見ればその限りではない。

ブラームスはこの年、フランス国境に近いバーデンバーデンへの避暑を中止している。

2012年6月19日 (火)

アルデンヌの森

欧州の地図をご用意いただく。ベルリンとパリに定規をあてて直線を引く。その直線はライン川を越えると間もなくベルギー領に入る。ルクセンブルクの北端をかすめるようにしてフランスに抜けるはずだ。フランスに抜けたあたりに存在するのが、ゼダンの街である。

その街で普仏戦争の雌雄を決する戦いがあった。早くからこの地を最終決戦の場と見極めて周到な準備をしてきたプロイセンの圧勝。ナポレオン3世が捕虜になるという失態があった。先ほど引いた直線はプロイセン軍がパリに殺到するための最短経路に相当するということだ。ところがこの直線がベルギーを通過するあたり一帯、一部ドイツやフランスを含むこの地域は標高400m程の丘陵が連なる森林地帯「アルデンヌの森」だ。独仏衝突の際には必ずポイントとなるいわゆる軍事上の要衝である。フランスにとっては苦い教訓を含む土地。

時は流れて第二次大戦末期。先ほど引いた線を逆に辿って、パリからベルリンを目指す連合軍。またもやこの森が脚光を浴びる。劣勢を一気に挽回すべくドイツ軍は機甲師団で真冬厳冬のアルデンヌの森を突破し一気にブリュッセルを目指す。「ラインの護り作戦」という。いわゆる「バルジ大作戦」である。

2012年6月18日 (月)

赤壁

三国志前半のヤマ場としてマニアには名高い。ところがフランスにも赤壁があった。

1870年7月30日、プロイセン軍は独仏国境に進軍を開始する。ザールブリュッケンの南を流れるザール川沿いに侵攻する。現代の地図を見れば判るが、ザール川沿いの狭い谷あいを鉄道や高速道路がひしめいている。独仏通行の要衝で大軍で攻め入るにはここしかないというポイント。その谷あいの道の南側にスピシュランという標高300mほどの台地がある。頂上にはフランスの砲台があって、眼下の道はもちろん、川を挟んで対岸のザールブリュッケンさえも見下ろす位置。ここに立てこもる1万の兵が、殺到するプロイセン軍20万を阻む。

対岸ドイツ側の丘に大本営を構えたプロイセンは、スピシュランの制圧なくして国境の突破は無いと悟る。その丘の北側斜面は切り立った赤土のガケで、プロイセンの大本営からは赤く見えたので赤壁と名づけられた。赤壁よじのぼりの決死隊が組織され、フランス軍の虚をつく。丸一日の攻防の結果プロイセンが丘を制圧した。勝ったプロイセンの死傷者がフランス側の死傷者を上回ったという。

参謀総長モルトケの対仏戦構想は、プロイセン軍をフランス側に送り込むことが大前提になっていたから、スピシュラン制圧の軍事的意味は大きい。三国志の赤壁にも相当する。

2012年6月17日 (日)

天下三分の計

三国志の逸話で名高い。三顧の礼によって軍師に迎えられた諸葛亮が、劉備に説いた策。華北の魏、江南の呉に対抗して劉備は四川に拠ることで、魏呉蜀の3国鼎立状態を志向せよという考え方だ。3国の中でももっとも強大な魏でさえも単独で天下を統一する力は無かったことに乗じて、四川盆地の天然の要害に依存しながら蜀で身を立てよということだ。

1866年普墺戦争前夜のことだ。バイエルン宮廷を追われスイスに逃れた後もなお、バイエルン王ルートヴィヒ2世と交友があったリヒャルト・ワーグナーは作曲と同様、政治的感覚もすぐれていた。バイエルンを奉じてのドイツ統一を夢見ていたワーグナーは、プロイセンとオーストリアの対立を好機と捉えていた。バイエルンは今こそ、毅然たる態度でオーストリアとプロイセンの仲裁役となり、両者と対等の立場を維持しつつドイツ統一の主役になるべきだとルートヴィヒ2世に書き送る。ワーグナーの狙いは、「オーストリア」「プロイセン」の対立に乗じて「バイエルン」の影響力を維持することだ。まさに「天下三分の計」だ。

ルートヴィヒ2世は、議会を強引に丸め込むほどの影響力は発揮できず、オーストリアとプロイセンの関係悪化のペースについてゆけなかった。何も影響力を行使できないうちに普墺戦争があっという間にプロイセンの圧勝で終わり、天下三分は夢と帰す。

プロイセンのビスマルクは、バイエルン王ルートヴィッヒ2世に対するワーグナーの影響力に注目することになる。

2012年6月16日 (土)

下賜金

1866年普墺戦争に勝利した後、プロイセン衆議院は国王に対し、功労者への下賜金を勧告する。最大の功労者はもちろんビスマルクだ。金額は40万ターラー。1ターラーは3マルクだから、120万マルク。1マルクはおよそ500円とすると6億円だ。庶民の感覚からすれば目もくらむ大金だが、超一流のアスリートの年俸や、移籍金の報道に慣れきった感覚から申せば意外に安い印象。

ところが、これが当時のプロイセンの国家予算の0.25%に相当するとなると一大事だ。現代ドイツの国家予算がおよそ60兆円だから、0,25%は1500億円に相当する。何にしろ国家予算の0.25%を国が個人に下賜するというのは凄いことだ。国会がこれを是とするあたり、やはりビスマルクの功績はかなりなインパクトだったということだ。モルトケ参謀総長はビスマルク半分だったという。

ビスマルクはそれでも「私が分捕った国益に比べれば小さいものだ」と思っていたらしい。

2012年6月15日 (金)

モムゼン

テオドール・モムゼン(Theodor Mommsen1817-1903)は、ドイツの歴史学者。シュレスヴィヒ生まれ。とりわけローマ研究で名高い。著書「ローマ史」により1902年にはノーベル文学賞を受賞している。歴史学者という側面がとりわけ名高くはあるのだが、実は政治家。プロイセンの国会議員を長く務めた。

ブラームスも評価していた。

1866年の普墺戦争勝利の際「歴史の曲がり角を曲がる現場に立ち会う感動を実感している」と書いた。大国オーストリアをわずか7週間で屈服させ、ドイツ連邦の主導権をプロシアの許にもたらした勝利を手放しで喜んでいるのだが、実はこの人ビスマルクとは距離を置いていた。ビスマルク没後、その功罪がさまざまに論じられた中で、「ビスマルクの損失は、その利得よりも限りなく大きい」と述べている。

2012年6月14日 (木)

ドイツレクイエムの位置

あまり政治的な記述には深入りしないブラームスの伝記だが、ドイツレクイエム成立の時期には、そうした記述も現れる。1862年のビスマルクの登場以降、統一への足取りが急速に早まる。ビスマルクは大事な戦いでことごとく勝利して、世論をたくみに誘導する。1871年までの10年はドイツ統一の奔流の中にあった。

だから1868年のドイツレクイエム初演は、統一にむけた民族意識の高揚と結びつけて考えられている。このあたりで歴史的な記述が集中する理由はそこにある。後世の愛好家はその3年後の1871年に普仏戦争に勝利してドイツ帝国が成立したことを知っているから、辻褄だけは合いまくる。しかし初演の時点ではそれは明らかではなかった。むしろその前年1867年7月発足の北ドイツ連邦の方がふさわしい。

後のドイツ帝国の胎動としての北ドイツ連邦の発足により、具体的な統一ドイツの枠組みが、市民に示された意味は大きい。小領邦の主権を温存した連邦の姿を見せることで、その後のドイツの行くべき姿を見本として提示した。このときは連邦に加わらなかった南ドイツは、北ドイツ連邦の始動を見て態度を決めることが出来る。

ただし、当のブラームスはそうした世の中の動きには一線を画す。「ドイツレクイエム」の「ドイツ」には民族的な意味合いは無いと、しばしば漏らしている。「ドイツの」を「人間の」に差し替えてもいいとまで言う。

しかしそこはタイミング。この時期にドイツレクイエムを聴かされた人々が、そこに民族的な意義を見出しても責めることは出来まい。

2012年6月13日 (水)

廃絶王基金

ビスマルク外交を裏から支えた秘密資金。話は1866年に遡る。普墺戦争の戦後処理において、オーストリアへの寛大な待遇については既に触れたが、オーストリア側に味方した領邦にはザクセンを除いてお家断絶と財産没収を含む過酷な処分を敢行した。敗戦領邦から没収した財産をプールして、いざというときに使った。

プロイセンに占領されてウィーンに亡命したハノーファー王ゲオルク5世は、プロイセン憎しのあまり、「今度戦争があったらフランスにつく」と発言して公になった。これがビスマルクの逆鱗に触れて、ハノーファーに残した資産が全て没収されて廃絶王基金になったといわれている。

バイエルン王ルートヴィヒ2世の負債肩代わりに投じた1800万マルクもここから出たといわれている。何と言ってもその存在を知られていないお金。帳簿も無ければ監査もない。支出にあたって国会の議決も必要としない。ビスマルクは鉄血宰相ではあるのだが、工作資金も潤沢だった。敵対する野党の面々は、ビスマルクが私腹を肥やしていないかとかぎまわったが徒労に終わる。膨大な下賜金と土地の所有者でもあるビスマルクの公私混同はあり得ないということだ。

2012年6月12日 (火)

弾きっぷり

昨日の記事で次女たちの第36代がデビュウしたと書いた。今日はその続き。あんたの娘がセカンドトップデビュウだというのに、やけにおとなしいと思った人も多いと思う。今日のために一日とっておいた。

一昨日の演奏会で次女がセカンドヴァイオリンのトップ奏者としてデビュウした。演奏の出来映えもさることながら、次女の弾く様子を食い入るように観察した。昨年1年間の演奏会では、演奏中の次女の位置を確認出来ない場合も多かったから、最初から最後まで次女の様子を確認したのは初めてのこと。

驚いた。

堂々たるもんだった。正直なところ驚いた。4月のニュルンベルク公演は、もちろん5月のスペシャルコンサートと比べても、まったく様子が違っていた。平たく言うと大きく見えた。

3年生が引退するまでセカンドヴァイオリンの4プルト目表が定位置だった。それなりに真面目に練習に取り組んでいたことは知っていたが、一昨日の弾き方は別人だった。地位が人を作ると申しては自惚れが過ぎようが、そうとでも申さねばこの変わりっぷりを説明できない。雑踏の中でのコンサートでもあり、演奏全体の出来映えを云々するのは控えるが賢明だ。4月のドイツ公演や5月のスペコンと比べると、演奏の完成度という点では、ひよこ同然なだのが、私の驚きと喜びはドイツ公演に匹敵する。パーリーに就任すると内定した日から、35代に感情移入する私を尻目に、娘なりに先輩たちを観察し吸収し、自分の立ち位置を見詰め、気持ちを高めていたのだと一目でわかる。トップデビュウの緊張でおずおずと様子見がてらにお茶を濁す素振りとは全く逆。

  1. 表情 演奏中、自信にあふれているが、固くない。怖くない。時折笑み。曲間では終始リラックスの表情。
  2. 視線 うつろな瞬間がまったくない。8割以上はコンマスを注視し、残りを指揮者と楽譜が半々という感じ。楽譜見ていない。楽譜を見ているように感じたのは、実は楽譜ではなくて、楽譜越しにチェロやヴィオラのトップを見ていたかもしれない。
  3. 弓使い 自信ありげ。中途半端な瞬間がない。
  4. コミュニケーション コンマスや指揮者と常にコミュニケーションをとろうという意欲が姿勢に現れていた。
  5. いつもより若干速いテンポのラデツキーにも優雅に対応できていた。
  6. 曲と曲の間に、指揮者用の楽譜を整える役割を負っていた。粛々とてきぱきとこなしていて感心。

4歳から私の趣味で半ば強引にヴァイオリンを習わされ、何度かやめたいと訴えてもやめさせてもらえず、中学のブラバンでトロンボーンを始めたときもヴァイオリンを中断しなかった。姉がやめたときも道連れを許されず、高校も私の薦めに従った結果なのだが、親としてそうした後ろめたさを、カラリと吹き飛ばす弾きっぷり。心から音楽をヴァイオリンを愛し仲間を信じ、残るオケ現役生活を極めようという火のような決意が、静かな立ち居振る舞いの中に感じられた。一昨日の夜は思わずケーキを買い求めてお祝いした。

実は実は・・・・・。

私が娘に感じたような驚くべき変化が、オケ全体あちらこちらのパートで起こっていたということなのだ。でなければカバレリアルスティカーナの音色が説明できまい。

2012年6月11日 (月)

36代デビュウ

県民の日恒例の駅前コンサートで次女たち36代がコンサートデビュウを果たした。思えば昨年は震災で途方にくれたあの場所だったと感慨にふけった

プログラムは以下の通り。14時からと15時からの2回の公演。

  1. ビゼー:歌劇「カルメン」から「闘牛士」
  2. 篤姫のテーマ
  3. 江のテーマ
  4. マスカーニ:歌劇「カヴァレリアルスティカーナ」より「間奏曲」
  5. レハール:メリーウィドウより「ワルツ」
  6. ファリャ:バレエ組曲「三角帽子」より「粉屋の踊り」
  7. ふるさと

アンコールにラデツキー行進曲だ。

先般のスペシャルコンサートで35代の3年生が引退し、新たに1年生を加えた新メンバーの旅立ち。5番目のメリーウィドウワルツ以外は全て昨年にもやった曲。特に「粉屋の踊り」は、ドイツニュルンベルク公演で、スプリンクラーが誤作動を起こした瞬間に演奏していた曲だ。3年生47名が大挙して去った後、どうなることかと思ったが、何とかなった。

驚いたのは間奏曲。OGのソプラノ歌手が駆けつけての歌入りバージョンなのだが、伴奏に回った弦の音色が、元のまま。そりゃあ雑踏の中での演奏だからディテールは聞き取りにくいのだが、音の向かう方向は先輩たちからの流れを受け継いでいた。これが伝統というものかと唸った。

娘の部活を満喫する親としては、今日この日の出来映えが基準になる。ここから11ヵ月後のスペシャルコンサートまでに生じる技と心の成長振りが最大の楽しみ。

2012年6月10日 (日)

選挙日程

選挙をいつやるかは勝敗を占うにはバカにできない要素。普墺戦争勝利が、国会運営に行き詰まっていたビスマルクを救った話はよく知られている。議会無視、憲法の不備をつく強引な政局運営を続けたビスマルクだったが、1つの戦闘における勝利で事態が好転した。

その周辺を調べていて興味深い情報に出会った。

1866年7月3日普墺が雌雄を決するケーニヒスグレーツの戦いが起きたその日が、プロイセン下院の投票日だったらしいのだ。野党は106から53への議席を激減させる一方で、与党は35から136に大躍進を果たした。投票日7月3日は規定路線だったと解されるが、ケーニヒスグレーツの戦いは不意に始まったから、一致は偶然だ。

対墺戦に際しモルトケやビスマルクには、根拠のある勝算があったのだろうが、天下分け目の会戦の日が投票日とは驚く。当日の戦況など有権者は知る由も無いから、圧倒的な与党支持は、既に独墺開戦の段階で決していたと考えてよい。天王山を戦った兵士たちは不在者投票だったのだろうか。

そこで獲得した大議席の中、過去5年間の強引な予算措置をまとめて承認させる「事後承諾法案」が可決した。

この選挙、ハンブルク人のブラームスには選挙権がなかったと思われる。

2012年6月 9日 (土)

グループリーグ

サッカーの大きな国際大会では、参加国を一定数ずつに分割し、そのグループ内で総当り戦を行い、成績上位チームが決勝トーナメントに進むというレギュレーションが多い。最初の総当たり戦がグループリーグと呼ばれている。強いチームをシードした上のくじ引きで編成が決まるが、中には強豪チームが偶然集まってしまうことがある。これが「死のグループ」と言われる。くじ運とはいえ悲喜こもごもがつきまとう。

サッカーの欧州選手権がポーランド・ウクライナの共催で開幕した。

欧州列強の争いをグループリーグにたとえよう。以下のようなグループを考える。プロイセンをドイツに読み替えさえすれば欧州選手権で起こり得る組み合わせだ。

  1. フランス
  2. オーストリア
  3. デンマーク
  4. プロイセン

今ならドイツが第一シードだろうが、ビスマルクが宰相に就任した1862年の時点の国力から言えば、仏墺の国力が抜きん出ている。デンマークやプロイセンは格下だ。英国のブックメーカーならずとも、グループリーグ突破の2カ国は仏墺だと予想する。これが世間の見方だ。1864年にプロイセンがデンマークに勝っても、この下馬評は揺るがない。

1866年のプロイセンvsオーストリアは、オーストリアの勝利を疑う人は少数派だったが、ビスマルクとモルトケの強力2トップが機能して、予想外の大差でプロイセンの勝利。これで勢いにのったプロイセンが、フランス戦にも完勝して、グループリーグ3連勝。監督のナポレオン3世が解任され総崩れのフランスはまさかのグループリーグ敗退とも見える。

このグループリーグ3連勝により、成立したドイツは、列強の仲間入りを果たすのだが、その後の大きな2つの戦争で1勝も出来なかった。

2012年6月 8日 (金)

北ドイツ連邦

普墺戦争に勝利したプロイセンが、マイン川以北の領邦に呼びかけて成立した。1867年7月1日の発足。戦勝が1866年8月だから準備におよそ1年かかったということになる。英仏露の列強に遠慮して「連邦」という位置づけにとどまっている。プロイセン国王は「連邦議長」という肩書き。「ドイツ帝国」「皇帝」などという文言が踊るのに比べれば、インパクトはかなり薄まるから、案の定現代日本の歴史の教科書も1871年のドイツ帝国のほうが手厚く扱っている。

普墺戦争でプロイセン側についた領邦は、体制を温存され君主の権限が維持された。軍事外交の権限を除いて大きく自治が認められた。列強に遠慮しつつ、着々と既成事実を積み上げる作戦。せっかくだから、北ドイツ連邦所属の諸国を以下に列挙する。

  1. プロイセン王国
  2. ザクセン王国 普墺戦争でオーストリア側についたのに例外的に廃絶を免れた。
  3. メクレンブルク・シュベヴェリン大公国
  4. ザクセン・ヴァイマール・アイゼナハ大公国
  5. メクレンブルク・シュトレーリッツ大公国
  6. オルデンブルク大公国
  7. ヘッセン大公国 マイン川以北の領地のみ北ドイツ連邦。ピアノ五重奏を献呈されたアンナの国。
  8. ブラウンシュヴァイク公国
  9. ザクセン・マイニンゲン公国 ここの宮廷オケをビューローが育てて、第4交響曲を初演。
  10. ザクセン・アルテンブルク公国
  11. ザクセン・コーブルク・ゴーダ公国
  12. アンハルト公国
  13. シュヴァルツブルク・ルードルシュタット侯国
  14. シュヴァルツブルク・ゾンテルスハウゼン侯国
  15. シャウムブルク・リッペ侯国
  16. リッペ侯国 ブラームスが最初に奉職したデテモルト。
  17. ヴァルデック侯邦
  18. ロイス侯国(兄系)
  19. ロイス侯国(弟系)
  20. 自由ハンザ都市リューベック
  21. 自由ハンザ都市ブレーメン 
  22. 自由ハンザ都市ハンブルク もちろんブラームスの故郷。

こうしてみるとブラームスの伝記にもちょくちょく現れる。

2012年6月 7日 (木)

マイニンゲン公国

ブラームスの伝記とりわけ第4交響曲のあたりに、マイニンゲン公ゲオルク2世の名前がたびたび現れる。彼の宮廷オーケストラがビューローの指揮のもと第4交響曲を初演したことはよく知られている。1880年代半ばの話だから、既にドイツ帝国が成立したあと。

ドイツ帝国には皇帝ウイルヘルム1世が君臨するのだが、普墺戦争以前に存在した中小領邦は、そっくり温存されていた。北ドイツ連邦以来の伝統だ。徴税権や文化、教育、農業など主要な分野において自治が認められていた。芸術を愛したマイニンゲン公ゲオルク2世は、ザクセン・マイニンゲン公国の君主だった。

彼らのような小邦でも第一次世界大戦まで生き残ったから、ブラームスの伝記にはこれらの国の名前が頻繁に出現することになる。

2012年6月 6日 (水)

初期

2005年5月30日に開設した我がブログは2033年5月7日をゴールと定めているから、28年と23日の長旅になる。昨日で丸7年と6日だから、ちょうど4分の1が経過したことになる。起承転結で言えば「起」が終わったということだ。もしわがブログが無事にゴール出来たら、今日までの7年あまりの記事は「初期」と位置付けられるだろう。私のブログを後世の愛好家が分析してくれるとすれば、今までの2611本の記事が「初期」と解釈される。

この先に「承」や「転」を用意し、そして最後の7年を「結」として駆け抜けねばならない。もちろん、まだそこまでのカレンダリングは出来ていない。これからのひねり出しにかかっている。

ブラームスのご加護を。

2012年6月 5日 (火)

サリカ法

女性の王位を認めないゲルマンの古法だ。ドイツ諸国に女王が現れないのはサリカ法のせいだ。フランク王国に由来するので、実はフランスもこれを遵守していた。単に女性の土地相続を認めないものだったが、拡大解釈されたものといわれている。

英国王がハノーファー国王をかねていた時代。男子を得ないまま崩御したウイルヘルム4世のあと、英国では女性が即位した。これがヴィクトリア女王だ。ところが、彼女がハノーファー国王になることはサリカ法を遵守するドイツでは許されていない。だからウイルヘルムの弟が国王になった。

彼の子ゲオルク5世の治世、1866年に普墺戦争が起こった。字面だけを読めば、プロイセンとオーストリアの戦いに見えるが、実際にはドイツの領邦が参戦した。ドイツ連邦内の内輪もめだったのだ。バイエルンを始め多くがオーストリアについた。ゲオルク5世のハノーファー王国もオーストリア側。

プロイセン王ウイルヘルム1世が、ハプスブルクの威光にビビッた訳ではなかろうが、宣戦布告後、先にオーストリアに仕掛けることを禁じた関係で、プロイセンは敵対する領邦の攻略を優先した。ハノーファー王国は開戦からわずか2日で陥落。ハノーファー軍は抵抗をまったくせずに王を奉じてバイエルンにむけて脱出したが、やがて追いつかれて敗北。王はウィーンに亡命した。

プロイセン宰相ビスマルクは、ドイツ連邦内の主導権をオーストリアから奪い取る目的の戦争に、英仏露が介入してこないように万全の手を打った。ロシアはクリミア戦争で中立を守った貸しがあったし、フランスにはライン西岸の割譲をえさにナポレオン3世に不介入を約させた。大英帝国の関心はアジア、アフリカ、新大陸にあって、プロイセンに興味はないと見抜いていたと言われているのだが、もしハノーファー王国が英国と同君王国という関係のままだったら、事情は変わっていたと思われる。少なくとも英国が介入する可能性はあったかもしれない。

ブラームスの親友ヨアヒムは、ブラームスと知り合った頃、ハノーファー宮廷コンサートマスターだった。つまりこのゲオルク5世に雇われていたということだ。1853年4月ブラームスがヨアヒムを訪ねたのがハノーファーだ。ブラームスの才能を喜んだヨアヒムのとりなしで、同年4月と12月にブラームスはゲオルク5世の前でピアノ演奏を披露している。

2012年6月 4日 (月)

転職の理由

ブラームスの親友で当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムは、12歳でライプチヒに赴き、メンデルスゾーンに見出されてそこでデビュー。15歳の時にはメンデルスゾーンに連れられてロンドンを訪問しセンセーションを巻き起こすが、翌年にメンデルスゾーンは他界してしまう。その後の職歴を以下に示す。

  • 1848年 ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。
  • 1850年 ワイマールのコンサートマスター。
  • 1852年 ハノーファー宮廷楽団のコンサートマスター。
  • 1866年 ベルリン王立アカデミー校長。

1852年のワイマールからハノーファーへの転出は、しばしばリストとウマが合わなかったと説明されることがあるけれど、1866年のハノーファーからベルリンへの異動は、あまり理由を詮索されない。リストとウマが合わなかったときだけ言及するのは不公平だ。

1866年は普墺戦争のあった年。このときハノーファー王国はあろうことかオーストリアについて、プロイセンに敵対した。プロイセン大勝を受けた戦後処理で王国断絶となり、王はウィーンへ亡命したので、宮廷楽団の雇い主が居なくなったということだ。

一方ドイツ統一を目指すプロイセンは、首都ベルリンに芸術の最高学府を設立した。校長にと迎えられたのはハノーファーのコンサートマスターで、雇用主を失ったばかりのヨアヒムだったというわけだ。ヨアヒムは一生ベルリンを本拠として過ごすことになる。きっと三顧の礼もあったのだろう。

  • 2012年6月 3日 (日)

    ヘッセン大公国

    ピアノ五重奏曲ヘ短調op34の初演が普墺戦争のあわただしい中、ライプチヒで行われた話を昨日したばかりだが、この作品にはもう一つ普墺戦争絡みで興味深い話がある。

    ビスマルクは普墺戦争勝利のあかつきに、ドイツ統一に邁進するために、フランス・ナポレオン3世と密約を結んだ。ライン以西の領土割譲をエサにマイン川以北の統一認めさせ、フランスの不介入を確認した。ナポレオン3世はこれに同意したが、内心ビスマルクはこれを信じていないのだが、ライン以西の割譲も口約束のつもりだったらしく、どっちもどっちな感じ。

    ピアノ五重奏曲を献呈したのは、ヘッセン大公国の王女アンナだった。ブラームスはクララを通じて王女と知り合い、御前演奏までしていた。王女から献呈のお礼と下賜されたのが、モーツアルトの交響曲第40番の自筆譜だったことはよく知られている。

    さて、普墺戦争に勝ったプロイセンは、予定通り普墺戦争でオーストリア側についた諸邦の併合を実行に移す。フランスとの約束通りその範囲はマイン川以北に限られた。天下分け目の戦いで、味方する側を間違えると国の消滅は免れないのは関が原の戦いと同じだ。例外は2カ国。プロイセンのすぐ南のザクセンは、フランスからの横槍によって、併合をあきらめた。そしてもう一カ国はアンナのいたヘッセン大公国。ヘッセン大公国はマイン川をまたいで南北に領土を持っていたから、北側だけがプロイセンに併合されて、南側は残った。街でいうとダルムシュタットあたり。

    2012年6月 2日 (土)

    あわただしい初演

    ピアノ五重奏曲へ短調op34の初演は1866年6月22日、場所はライプチヒだ。少々詳しい伝記にはちゃんと載っているのだが、この初演の時期と場所が微妙だ。

    ドイツ連邦内におけるプロイセンとオーストリアの主導権争いに決着をつける普墺戦争が始まったのが1866年6月16日だった。ピアノ五重奏初演の6日前のことだ。初演の場所ライプチヒは当時プロイセン王国の領内ではなく、ザクセン王国の街だ。このザクセン王国は普墺戦争にあってはオーストリア側についているから、プロイセンから見たら敵。

    プロイセン王はオーストリアとの開戦に躊躇した。なぜなら名門ハプスブルク家に弓を引くことになるからだ。ビスマルクに説得されてしぶしぶ開戦に同意したが、「奇襲まかりならぬ」という条件をつけた上に先制攻撃も禁じた。だから、宣戦布告後プロイセンの最初の矛先は、オーストリア管理区域ホルスタイン地区への侵攻だった。さらにオーストリア側についたドイツ領邦への攻撃から始めた。

    プロイセンのすぐ南に接するザクセンは真っ先に侵攻の対象になったのだ。ザクセンの首都ドレスデンの陥落は6月18日。ライプチヒ陥落の詳しいタイミングは不明だが、ドレスデンよりもプロイセンに近いライプチヒの占領はドレスデン陥落より早いことはあっても遅いことはあり得ぬと思われる。

    先の初演日は、ザクセン王国がプロイセンに占領されたタイミングとほぼ同時だった。そのような事態の中、優雅に室内楽のコンサートが開かれていたということなのだが、実はザクセンの占領といってもほとんど戦いは起きなかった。ドイツの小領邦は、単独でプロイセンに勝てるはずもないので、無抵抗だった。都市に入城する際も市街戦は起きていない。市民は意外と冷静だったということだ。

    ピアノ五重奏曲を話題にする資料がこのことに言及するのをあまり見かけない。

    2012年6月 1日 (金)

    外交の達人

    普墺戦争に勝ったビスマルクは、不思議なことにオーストリアに対して領土的要求をしていない。シュレスヴィヒ公国とホルスタイン公国の領土に対する単独支配権こそ認めさせたが、オーストリアの領土を切り取っていない。普仏戦争後のフランスに対する領土要求とは雲泥の差だ。

    オーストリアは人口の3割を占めるドイツ人が支配する国である。ドイツ統一の方向性を決めるための手段として一戦交えたが、その後はやはり同盟国でいてくれねば困るのだ。万が一フランスと同盟でも結ばれたら取り返しのつかぬことになる。

    つまりビスマルクの頭の中は「対フランス」で固まっているのだ。外交手段を駆使してフランスを包囲することが第一の外交方針だった。そのためにはロシアや英国との連携も辞さないという構えだ。何がそうまでして彼を「フランス憎し」に走らせるのか。「槍族」と「短剣族」の遺恨がずっと続いていたのではあるまいか。

    ドイツのそうした路線はビスマルクの失脚で敢え無く崩れ去る。その後ドイツはフランスとの敵対はそのままに、ロシアや英国との関係もこじらせてしまう。

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      はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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