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2012年6月 4日 (月)

転職の理由

ブラームスの親友で当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムは、12歳でライプチヒに赴き、メンデルスゾーンに見出されてそこでデビュー。15歳の時にはメンデルスゾーンに連れられてロンドンを訪問しセンセーションを巻き起こすが、翌年にメンデルスゾーンは他界してしまう。その後の職歴を以下に示す。

  • 1848年 ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。
  • 1850年 ワイマールのコンサートマスター。
  • 1852年 ハノーファー宮廷楽団のコンサートマスター。
  • 1866年 ベルリン王立アカデミー校長。

1852年のワイマールからハノーファーへの転出は、しばしばリストとウマが合わなかったと説明されることがあるけれど、1866年のハノーファーからベルリンへの異動は、あまり理由を詮索されない。リストとウマが合わなかったときだけ言及するのは不公平だ。

1866年は普墺戦争のあった年。このときハノーファー王国はあろうことかオーストリアについて、プロイセンに敵対した。プロイセン大勝を受けた戦後処理で王国断絶となり、王はウィーンへ亡命したので、宮廷楽団の雇い主が居なくなったということだ。

一方ドイツ統一を目指すプロイセンは、首都ベルリンに芸術の最高学府を設立した。校長にと迎えられたのはハノーファーのコンサートマスターで、雇用主を失ったばかりのヨアヒムだったというわけだ。ヨアヒムは一生ベルリンを本拠として過ごすことになる。きっと三顧の礼もあったのだろう。

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