ドイツレクイエムの位置
あまり政治的な記述には深入りしないブラームスの伝記だが、ドイツレクイエム成立の時期には、そうした記述も現れる。1862年のビスマルクの登場以降、統一への足取りが急速に早まる。ビスマルクは大事な戦いでことごとく勝利して、世論をたくみに誘導する。1871年までの10年はドイツ統一の奔流の中にあった。
だから1868年のドイツレクイエム初演は、統一にむけた民族意識の高揚と結びつけて考えられている。このあたりで歴史的な記述が集中する理由はそこにある。後世の愛好家はその3年後の1871年に普仏戦争に勝利してドイツ帝国が成立したことを知っているから、辻褄だけは合いまくる。しかし初演の時点ではそれは明らかではなかった。むしろその前年1867年7月発足の北ドイツ連邦の方がふさわしい。
後のドイツ帝国の胎動としての北ドイツ連邦の発足により、具体的な統一ドイツの枠組みが、市民に示された意味は大きい。小領邦の主権を温存した連邦の姿を見せることで、その後のドイツの行くべき姿を見本として提示した。このときは連邦に加わらなかった南ドイツは、北ドイツ連邦の始動を見て態度を決めることが出来る。
ただし、当のブラームスはそうした世の中の動きには一線を画す。「ドイツレクイエム」の「ドイツ」には民族的な意味合いは無いと、しばしば漏らしている。「ドイツの」を「人間の」に差し替えてもいいとまで言う。
しかしそこはタイミング。この時期にドイツレクイエムを聴かされた人々が、そこに民族的な意義を見出しても責めることは出来まい。
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