ワーグナー代
ブラームスは王侯貴族の庇護を離れ、作曲だけであるいは一部演奏や教授で飯が食えた最初の作曲家だったとしばしば指摘される。それでいて結構な額の遺産を残したともいう。一方ワーグナーの桁外れの金銭感覚についてはしばしば語られている。豪勢な話を一つ。
ワーグナーを援助したバイエルン王ルートヴィヒ2世が、ワーグナーに与えた金銭的援助の記録がバイエルン王国に残っていた。本日はそれを列挙する。
- 1864年 年俸4000グルテン(8000マルク) 5月4日王との謁見時から。
- 1864年 20000グルテン(40000マルク) 5月4日時点での借金の肩代わりと引越し代。
- 1865年 年俸5000グルテン(10000マルク) ワーグナーの要求により増額。
- 1865年 ボーナス30000グルテン。(60000マルク)
- 1865年 ボーナス40000グルテン。(80000マルク)
- 1866年 年俸6000グルテン(12000マルク)1882年まで続く。
- 1874年 ボーナス216152マルク。ドイツ帝国成立でマルクに変わる。
- 1878年 100000マルク バイロイト音楽祭向け融資の名目。
このほか、家賃、家具代、上演費は王室もちだったが金額がわからない。話を判りやすくするためにマルクに換算して上記赤文字の金額を足す。これだけで51万6152マルクだ。こうした単純合計だけではいけない。上記6番の6000グルテンが17年続くので16倍した192000マルクを加えねばならない。
70万8152マルク。現代の円への換算は難しいが1マルクはおよそ500円だから、3億5407万6000円になる。19年間におよそ3億5千万円で1年あたり1864万円。王とワーグナーが会った1864年に値が一致するというスペシャルな奇遇付きである。現代のスポーツ選手の高年俸に慣れてしまった感覚からはさほど高いと感じないのだが、当時としては破格である。参考までに申せばバイエルン王国の国家予算がつかめないのだが、1866年のプロイセンの国家予算は5億マルクだった。普墺戦争後ビスマルクに下賜された功労金が120万マルクだった。
ブラームスの交響曲1曲の原稿料がおよそ750万円だ。
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