2人の息子
日露戦争中の激戦地・旅順203高地。過酷な戦闘の後に日本軍が陥れたのだが、攻めた日本の損害は甚大だった。司令官だった乃木将軍の子息も戦死している。
普仏戦争はプロイセンにとっての結果の輝かしさに隠れてしまっているものの個々の会戦は激戦だった。1870年8月16日のメツ西郊の会戦はその代表だ。プロイセン近衛騎兵師団は仏カンロベール軍団と交戦し、多数の死傷者を出した。このプロイセン近衛騎兵師団の中に、ビスマルクの息子2人がいた。20歳の長男と18歳の次男が負傷した。
セダンの戦いでナポレオン3世が捕虜になったことがあまりにも有名だし、実際プロイセンとフランスは10回まみえてフランスの勝利は1度だけという有様だから、一言で申せばプロイセンの圧勝なのだが、ミクロに見ればその限りではない。
ブラームスはこの年、フランス国境に近いバーデンバーデンへの避暑を中止している。
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