サリカ法
女性の王位を認めないゲルマンの古法だ。ドイツ諸国に女王が現れないのはサリカ法のせいだ。フランク王国に由来するので、実はフランスもこれを遵守していた。単に女性の土地相続を認めないものだったが、拡大解釈されたものといわれている。
英国王がハノーファー国王をかねていた時代。男子を得ないまま崩御したウイルヘルム4世のあと、英国では女性が即位した。これがヴィクトリア女王だ。ところが、彼女がハノーファー国王になることはサリカ法を遵守するドイツでは許されていない。だからウイルヘルムの弟が国王になった。
彼の子ゲオルク5世の治世、1866年に普墺戦争が起こった。字面だけを読めば、プロイセンとオーストリアの戦いに見えるが、実際にはドイツの領邦が参戦した。ドイツ連邦内の内輪もめだったのだ。バイエルンを始め多くがオーストリアについた。ゲオルク5世のハノーファー王国もオーストリア側。
プロイセン王ウイルヘルム1世が、ハプスブルクの威光にビビッた訳ではなかろうが、宣戦布告後、先にオーストリアに仕掛けることを禁じた関係で、プロイセンは敵対する領邦の攻略を優先した。ハノーファー王国は開戦からわずか2日で陥落。ハノーファー軍は抵抗をまったくせずに王を奉じてバイエルンにむけて脱出したが、やがて追いつかれて敗北。王はウィーンに亡命した。
プロイセン宰相ビスマルクは、ドイツ連邦内の主導権をオーストリアから奪い取る目的の戦争に、英仏露が介入してこないように万全の手を打った。ロシアはクリミア戦争で中立を守った貸しがあったし、フランスにはライン西岸の割譲をえさにナポレオン3世に不介入を約させた。大英帝国の関心はアジア、アフリカ、新大陸にあって、プロイセンに興味はないと見抜いていたと言われているのだが、もしハノーファー王国が英国と同君王国という関係のままだったら、事情は変わっていたと思われる。少なくとも英国が介入する可能性はあったかもしれない。
ブラームスの親友ヨアヒムは、ブラームスと知り合った頃、ハノーファー宮廷コンサートマスターだった。つまりこのゲオルク5世に雇われていたということだ。1853年4月ブラームスがヨアヒムを訪ねたのがハノーファーだ。ブラームスの才能を喜んだヨアヒムのとりなしで、同年4月と12月にブラームスはゲオルク5世の前でピアノ演奏を披露している。
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