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2012年7月31日 (火)

ビスマルクの墓所

オットー・フォン・ビスマルク「鉄血宰相」とあだ名されるドイツ帝国成立の立役者である。ブラームスに先んじてハンブルク名誉市民に選定されているが、ブラームス自身も彼を崇拝していた。ドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世が薨去し、後をついだウィルヘルム2世とウマが合わず解任されてハンブルク郊外に隠居した。1898年7月30日に没して同地に埋葬されている。

その隠居の地がフリードリヒスルーという。ドイツ語では「Friedrichsruh」と綴る。語尾の「ruh」は「休息」くらいの意味で、第一交響曲初演の地として名高い「カールスルーエ」(Karlsruhe)と同じ意味。さしずめ「フリードリヒの休息」くらいの意味だ。FALK社製20万分の1ドイツ道路地図の巻末索引には載っていない。とてもよく似た「フリードリヒスルーエ」(Friedrichsruhe)は載っているがハンブルクの東100kmの距離があるので近郊と呼ぶには無理がある。穴が開くほど地図を見直してとうとう見つけた。ハンブルク中心街から東に25km、「Aumuhle」(uはウムラウト)という集落の中に「Friedrichsruh」があった。駅前に「Bismarckmuseum」と書いてあるからここで間違いあるまい。

ドイツ帝国創立の勲功により東西10km南北8kmの広大なザクセンの森が丸ごと下賜された。フリードリヒスルーはその中心集落だが、ビスマルク邸の周囲2kmには家が無かったという。駅も無人駅で、普通列車さえほとんど通過した。大戦中には熾烈を極めたハンブルク爆撃ではあったが、ビスマルク侯の墓所は被害を免れた。何らかの意図も感じられる。

2012年7月30日 (月)

鉄血忌

今日7月30日はビスマルクの命日。1898年7月30日に83年の生涯を閉じた。もちろん「鉄血忌」は私の造語。

去る7月11日に「ブラームスの辞書」刊行7周年と、ブログ開設2600日が同じ日になったと喜んだ記事に次いで、恒例のお盆ネタが6本発信され、休む間もなく娘たちのためにリストネタを奮発した。その19日の間ビスマルクネタはわずか2本にとどまり事実上の夏休みとなった。本日の記事は夏休み明けを高らかに宣言する意味も含んでいる。

次女の高校オーケストラを追っかけてドイツに出かけた後、頭の中がますますドイツ漬けになった。実際にドイツの土を踏んでみてますます気合が入った。普通の大河ドラマだったら主人公の死去でエンディングなのだと思うが今日はむしろ折り返し点で、この後次女の高校オケネタを少しずつ混ぜながら、ビスマルクネタが続く。

2012年7月29日 (日)

リストに挑む乙女たちに

この程度の本数でリスト特集とはおこがましい上に、現在ビスマルク特集真只中ということもあって遠慮気味。高校オケ現役生活最後の一年でリストに取り組むことになった36代の乙女たちに、ブログ「ブラームスの辞書」からのエール代わり。記事の備蓄が1500本を越えているのにリスト関連の記事はたったこれだけ。それもブラームス目線からの薀蓄ネタばかりで、演奏の役になんか立ちそうもないのを承知で、居ても立ってもいられず発信。

悲惨なのはボロディン。備蓄記事にはネタは皆無。付け焼刃で調べてもお里が知れるだけなので、潔く諦めた。よくよく考えてみると、昨年35代が挑んだファリャやショスタコーヴィチも、備蓄記事が無いという点ではボロディンと変わることはない。むしろ6本も備蓄していたリストが例外なのだ。次女のオケの課題曲が、そうそう私の好みの作曲家になるはずがない。万が一ブラームスにでもなっていたら、この先半年の記事公開のプランを白紙見直しする必要に迫られるところだった。

  1. 2012年07月20日 リストのソナタ
  2. 2012年07月21日 シューマン最後の日々
  3. 2012年07月23日 濡れ衣
  4. 2012年07月24日 リストという男
  5. 2012年07月25日 出版の仲介
  6. 2012年07月26日 捜索願い
  7. 2012年07月28日 レプレリュード
  8. 2012年07月29日 本日のこの記事。

2012年7月28日 (土)

レプレリュード

リストの交響詩。同ジャンルの代表作でもある。ここから作品解説やお勧めCDネタに走らぬは毎度毎度のお約束。

7月19日の記事「リストのソナタ」で、突然リストネタを乱入させ、その後今日までリストネタを連ねた。次女たち高校オケ36代がリストの「レプレリュード」に挑むことになった。今年のお盆の主役の一人ビューローがリストの娘婿であることから、記事「私事都合」を橋渡し役に利用して急遽リストネタを連ねた。既に書き溜めておいた記事でリストに言及した記事を繰り上げて公開した。その間ビスマルク特集は中断。

リストと言えばブラームスとは音楽的立場を異にするというのが定説。だからブログ「ブラームスの辞書」としては、どうしてもあちら側の人扱いなのだが、逆に言うといいチャンス。こういうことでもないと積極的にリストを話題にすることもない。

2012年7月27日 (金)

ヴァイオリン協奏曲寿

本日は母の77歳の誕生日だ。だから「ヴァイオリン協奏曲寿」である。喜寿じゃなくてあくまでもヴァイオリン協奏曲寿。

私は幼稚園に入る前、両親が働いていたせいで、父方の祖母に預けられていた。だからおばあちゃん子だ。妻を亡くした後、残された3人の子供の面倒を祖母が見ることについて全く抵抗がなかった。母の子煩悩ぶりを知っているせいもある。

しかし、今になってよく考えると、幼い私の面倒を見た時、祖母はまだ50代だった。その祖母は73歳で他界したことを考えると、子供たちの祖母つまり私の母の気力は驚異的だ。悠々自適の生活に入っていても不思議ではないが、今もバリバリの主婦だ。早くに妻を亡くした私と子供たちの理不尽を、一身に背負ってなお、我が家の太陽であり続けている。

家族全員が元気で明るく過ごせていることでしか感謝を表明する術がない。

2012年7月26日 (木)

捜索願い

人や動物あるいは物を探してもらうお願いのことだ。重要度、お急ぎ度、深刻度はさまざまだろうが警察にお願いするとなると深刻だ。

現在1番とされるト長調ヴァイオリンソナタに先行するイ短調ヴァイオリンソナタのことはこれまでにも言及してきた。レーメニとの演奏旅行のレパートリーだった。ワイマールにリスト邸を訪ねた折りに2人で演奏したこともどうやら確実だ。1872年にはピアノのパート譜が見当たらないことが、ワジレフスキーとディートリヒの会話から仄めかされている。

ブラームスがこの紛失に気付いたのはリスト邸を辞去して間もなくだったと思われる。ブラームス本人はリスト邸で紛失したと考えていたようだ。その証拠にこの楽譜を捜してくれるよう手紙でリストに依頼しているのだ。ということはつまりこのソナタがリスト邸で演奏された証拠だ。演奏していなかったら、そこで紛失したとは考えないだろう。

リストはブラームスからの「捜索願い」を受けて、快く捜したと思われる。何と自分のところばかりでなくレーメニにまで声をかけて捜したようだ。真剣に捜してくれたことが判る。もし居眠り事件があったら、ブラームスも簡単に捜索願いを出しにくかったと思うし、受けたリストの迅速な対応も不自然だ。結局楽譜は出てこなかったらしいが、世間で言われているほどのギクシャクした関係ではなかったと推測する理由の一つだ。

イ短調ヴァイオリンソナタは、ライプチヒのゼンフ社にop5として手渡されている。1853年11月だ。ここで手渡した楽譜は、記憶を元に復元した楽譜だったと思われる。せっかく復元して渡したのに、最終的には現行のヘ短調ピアノソナタに差し替えられて陽の目を見なかった。このソナタ、レーメニやシューマンに評価されていただけにもったいない話だ。

2012年7月25日 (水)

出版の仲介

ロベルト・シューマンは、若きブラームスを楽壇に紹介したことと並んで、有力出版社にブラームスを紹介したことはよく知られている。ライプチヒのブライトコップフ社だ。

あまり知られていないが、ブライトコップフ社にブラームスを紹介しようと試みた人物がもう一人いる。最近ブログで話題にしているフランツ・リストその人だ。

演奏旅行のパートナー・ヴァイオリニストのレーメニとの決裂を報告したヨアヒム宛の手紙でブラームス本人がそのことに言及している。このままでは故郷には帰れないから、リスト先生からブライトコップフ社に手紙を書いてもらうのに期待するかというニュアンスだ。リストは「なんならブライトコップフを紹介してもいいよ」くらいの口約束はしていたのだと思う。

作品の演奏中に居眠りした挙句に、早々にワイマールを辞したという話が、どうも浮いてしまうエピソードである。

2012年7月24日 (火)

リストという男

ブラームスがはじめて訪れたリスト邸で、リストが自作を演奏する間に居眠りをしたというエピソードに疑問を差し挟んだ。その後の2人の無邪気な対応が不自然だと。

確かにブラームスはリストの作品を評価していなかったし、リストもブラームスの作品をレパートリーに加えた形跡が無い。けれどもブラームスがブレークして以降、2人は時代を代表する作曲家同士、大人のつきあいをしていたと見る方が自然だ。

1882年2月2日、ウィーンでブラームスのピアノ協奏曲第2番の演奏会があった。独奏者にビューローを据えたこの演奏会をリストが聴きに来ていた。ビューローはリストの弟子だから、お呼び立てしたのかもしれない。休憩時間に2人は談笑し、リストがこの協奏曲の楽譜を所望したという。ブラームスは印刷したての楽譜をリストに贈った。

リストのピアノ独奏で聴いてみたいような気もする。

2012年7月23日 (月)

濡れ衣

あらぬ疑いをかけられることだ。「濡れ衣を着せられる」と言い回される。一方で「火のないところに煙は立たぬ」という諺もあるから、冷静な判断が求められる。

1853年6月ワイマールのリスト邸を訪問したブラームスは、場の雰囲気になじめず、ピアノ演奏は辞退した挙げ句に、足早にその場を辞去したとされている。リストが自作を演奏している最中に、ブラームスが居眠りしたという有名なエピソードがある。リストが気分を害したとも伝えられている。

本当だろうか。

リスト邸を辞して後、1853年10月にはデュッセルドルフにロベルト・シューマンを訪ねたブラームスのその後のブレークぶりは名高い。シューマンは早急に出版の手続きを進めた。ブラームスは出版社との打ち合わせも兼ねて11月にはライプチヒを訪れている。このときたまたまライプチヒを訪れていたリストを訪問しているのだ。ちなみにベルリオーズも一緒だったらしい。居眠りのエピソードから半年も経っていない。この訪問は無神経とも思えるし、当のリストがケロリと訪問を受け入れたというのも変だ。

そもそもいわゆる居眠りのエピソードの出所は、ウイリアム・メイスン。ところが、彼は実際にブラームスが居眠りしているのを見た訳ではないようだ。ネタの出所は当時のブラームスの相棒、ヴァイオリニストのエドゥワルド・レーメニだ。

ブラームスはここでレーメニとのコンビを解消しゲッティンゲンにヨアヒムを訪ねたことは有名だ。つまりレーメニとは決裂したのだ。居眠りの話はレーメニの腹立ち紛れの出任せかもしれない。このレーメニとは後日ハンガリア舞曲の著作権をめぐって裁判沙汰も起こしている。「彼には嘘が多かった」というブラームスの回想は、あながち誇張ではなく、この居眠りのエピソードをも含んでいたのではなかろうか。

本当は「これにてお暇させていただきます」と挨拶くらいしてワイマールを去ったのかもしれない。失礼な去り方をしていたら、半年以内に表敬訪問なんぞ出来まい。

居眠りは濡れ衣。

2012年7月22日 (日)

美術館にて

昨日県立美術館で特別コンサート。昨年はここで初めてファリャを聞かせてもらった。

  1. カルメン組曲より「闘牛士」
  2. さんぽ
  3. マスカーニ歌劇「カヴァレリアルスティカーナ」より間奏曲
  4. ディズニーメドレー
  5. ボロディン 交響曲第2番より第4楽章
  • 楽しいステージ。「さんぽ」に乗せて繰り広げられた楽器紹介がすこぶる楽しかった。娘がセカンドのトップの位置にいるのがまだ不思議な感じ。ラストで聴かせてもらったボロディンが大切。娘たち36代が挑む難関。はるか先のようであっという間の来年5月のスペシャルコンサートにむけた長いアプローチの起点。意欲があちこちでぴちぴちと弾けていた。
  • 私たちの36代。

    2012年7月21日 (土)

    シューマン最後の日々

    フランツ・リストのピアノソナタロ短調がロベルト・シューマンに献呈されたことは、昨日話題にした。クララは嫌悪感を日記にぶちまけているとも書いた。当時シューマン一家のために献身していたブラームスが、さっそくリストのソナタをクララに弾いて聴かせた。

    後になってブラームスは献呈された本人つまりロベルトの反応を証言している。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻118ページのホイベルガーの証言だ。1894年12月1日の会話の中で、エンデニヒに入院中のロベルト・シューマンの様子が語られている。献呈されてたロ短調ソナタをじっくり見て喜んでいたというブラームスの証言が語られている。クララが、入院中のエピソードの公開を拒んだとも付け加えている。

    クララが作品に示した反応を、シューマンは知らされていたのだろうか。それが出来るのはブラームスしかいないが、ブラームスの証言は残っていない。

    2012年7月20日 (金)

    リストのソナタ

    一昨日の記事「私事都合」で、ビューローネタに触れた。そこでピアニストとしてのビューローがフランツ・リストの弟子であると書いた。だから今日はそのリストネタ。

    何の断りもなくただ「リストのソナタ」と言えば1853年に書かれたピアノソナタロ短調を指すと思って間違いない。

    実はロベルト・シューマンに献呈されている。1854年5月25日にシューマン邸に届いたらしい。この日のクララの日記で言及されている。ロベルト・シューマンへの献呈と申しても、ライン川への投身後ただちにエンデニヒの病院に収容されたから、献呈相手のシューマンは既に不在であった。

    このときのクララの日記は、作品への嫌悪を隠さずにぶちまけている。あまりにストレートなので内容は省略する。作品についての愚痴は別として「ブラームスがさっそく弾いて聴かせてくれた」と書かれている。ブログ「ブラームスの辞書」としては、ブラームスが演奏したリストのソナタの方が気になる。クララは作品のまずさの指摘に余念がない感じで、ブラームスの演奏の出来映えには言及がない。

    さらに、「それでも礼ぐらいは言わねばならないと思うと大儀で仕方がない」とこぼしている。

    当時、シューマン一家の一大事と聞いてはせ参じたブラームスは、シューマン邸に頻繁に出入りし、家計簿の記入さえ任されていたくらいだから、礼状の代筆くらいは朝飯前だったと思われる。

    2012年7月19日 (木)

    お盆のファンタジー14

    どうも今年は滞在が長い。ブラームスとビューローは私をさしおいて次女を捕まえては何やら話をしている。高校オケとはいえパートリーダーの次女と話がしたいらしい。学校のスケジュールもすっかりお見通しで、試験の邪魔をしてはいけないと配慮したようだ。そういえば二人が来たのは試験最終日の翌日だった。「じっくり話をしたいからな」とドヤ顔のブラームス。次女は本当に2人とよく話し込んでいた。布団を敷かずに朝までということもあった。そのくせ何の話をしたのか訊いてもはぐらかすばかりだ。

    しつこく食い下がる私をさえぎるように「演奏会の翌日ニュルンベルク市庁舎で生徒たちが歌ったのはなんという曲だ?」という驚きの質問。「あなたはニュルンベルク市庁舎にも来ていたのか?」とこちらが訊き返す番。「ビューローがスプリンクラーの落とし前を付けに市庁に行くといって譲らないから、仕方なくついて行った。とブラームス。「あってはならぬトラブルだからな」とどや顔のビューロー。「責任者出せ」くらいの勢いだったのだが、気がつけば生徒たちも来ていたので、そのままホールについて行ったというのが真相らしい。

    「あれは招待のお礼をするための表敬訪問だ」と私。「だから、あそこで歌った曲は何かと訊いているんだ」とブラームス。「あれは子どもたちの属する学校の校歌だ。昨日娘が説明しただろう」と私。古くから歌われている学校歌で、公式行事の席上では必ず演奏されることや、「ふるさと」と同じ作者だという話をもう一度繰り返した。

    感動したとブラームス。由緒ある旧市庁舎ホールで、思いがけず聴いたのだが、シンプルで清らかな演奏に背筋が伸びたとビューロー。日本の学校において校歌は特別な意味がある。あの場合最大級のお礼の意味があると伝えた。アカペラだというのに、「音取りもしないのか」とブラームス。「いえいえ、音叉でこっそり確認していました」と次女。「ちっとも気づかなかった」とビューローが舌を巻く。

    実はあの校歌は親たちにとってもサプライズで、不意に聴かされた親たちは新たな涙にくれたものだ。高い天井にこだまする静謐な響き、2コーラス目では2部に分かれてハモるところが、前日の演奏並みの感動だった。

    あの演奏を聴いて「スプリンクラーの落とし前」のことなんかコロリと忘れてしまったと告白するビューローであった。

    昨夜二人は、やっと帰って行った。

    2012年7月18日 (水)

    私事都合

    1870年7月15日の朝刊でエムス電報事件が広く人々の知るところとなった。このあたりの欧州情勢は日々緊迫の度を加えるというもので、毎日が事件の連続という形になっている。

    バイエルンがプロイセンへの加担を公式に決定するがのが16日だ。18日がフランスの対プロイセン宣戦布告。21日にはルートヴィヒ2世が参戦決定について市民から歓呼を受けたと、ミュンヘンにいたスメタナが書いている。ワルキューレの上演のために音楽家がミュンヘンに集まっていたということだ。

    音楽家で思い出した。リストの娘コジマと結婚したハンスフォンビューローは、当初ワーグナー寄りの姿勢だったが、妻コジマがワーグナーの子を宿すなど理不尽な目にあって、やがてはブラームスに接近した。ビューローとコジマの離婚が正式に決定したのが7月18日だった。宣戦布告の日に離婚成立とは出来過ぎか。

    2012年7月17日 (火)

    お盆のファンタジー13

    「ふるさと」をめぐってさんざん盛り上がったあと、ブラームスがおどけた表情で「ふるさとの後、3曲目のアンコールが一番気に入った」と次女に語りかけた。今年はあんまり長居なので、すっかり打ち解けた次女は、これがブラームス独特のジョークだと悟ったらしく、間をおかずに「はい。私たちも一番練習に時間をかけました」とニヤリと笑って応酬した。

    先般聴いたCDのラスト、アンコール2曲目の「ふるさと」の演奏に続く長い喝采の後に、サプライズがあった。拍手がサーっと引き、だれもがアンコール曲だと思った次の瞬間、タクト一閃とともにオケ全員が「Ein Zwei Drei,aufwiedersehen」と唱和して全員が手を振り始めたのだ。日本語でなら「1,2,3、ごきげんよう」くらいの意味。意表を付かれた聴衆の大爆笑がおきた。だれもが心から笑ってのスタンディングオベーションがそれに続いた。

    「あれは一体誰のアイデア」とブラームス。「もちろん指揮者です」「彼はいつもそういういたずらを考えています」「5月の演奏会ではファリャのラストで全員が立ち上がるというサプライズを決行しました。」「そういういたずらほど熱心に綿密に練習しますが、家に帰って親に絶対話すなという口止めも忘れません。」「だからあの日のスプリンクラーもまた彼の演出かと思った人もいます」次女がいきいきと説明する。

    「あれには私も笑わせてもらった」とはビューロー。「こいつは楽団員に厳しく接するばかりで、ユーモアとか余裕が感じられない」とはブラームスのビューロー評。「楽団員どころか聴衆にも説教を始めるからな。ちっとはこちらの先生を見習ってもらいたいもんだ」

    「あんたのゴツイ作品の前後にユーモアのサプライズなんか挟めるものか」「毎度毎度振らされるこっちの身にもなってみろ」と反撃のビューロー。どうやら仲間割れが始まった。

    2012年7月16日 (月)

    お盆のファンタジー12

    どうもCDを聴いてからというもの、ブラームスとビューローはしきりにひそひそ話をしていていた。昨晩になってブラームスは「ニュルンベルク2曲目のアンコール曲はいったい何と言う曲か?」と尋ねてきた。「ふるさとという歌で、大抵の日本人は知っている」と答えると、ビューローが「テキストの大意は?」と畳み掛ける。「幼い頃走り回った野山を懐かしむ歌」「同時に両親や友人を懐かしむ歌」「立身出世を遂げた後戻って来たいと願う歌」と要約すると2人とも深々とうなずく。

    「1914年頃の作品で、高野辰之作詞、岡野貞一作曲と言われています」と次女が付け加える。ブラームスは目を丸くして「よく勉強しているね」とほめる。「私たちの学校の校歌もこの二人の作品です」と自慢げな次女だ。当日はオケのメンバーがかわるがわる合唱するバージョンですとさらに補足。ブラームスは真顔になって「楽譜はあるの?」と尋ねる。「はい」と答えた次女はブラームスが「見せてくれ」と言い終わる前に嬉しそうに自室に上がってゆく。とって返した次女はセカンドヴァイオリンのパート譜とスコアを差し出す。案の定ブラームスはスコアを手にとって、またビューローとひそひそ。

    やがてブラームスは遠くを見つめるような表情で、「あのニュルンベルクのコンサートで、初めて聞くドイツのご婦人たちが何人も涙を流していた」「初めて聴く曲なのに心に染みた」「一度聴けば忘れないシンプルで格調高いメロディ、端正な形式、絵に描いたような有節歌曲、どれをとってもローレライや菩提樹に匹敵する」とつぶやいた。

    「ふるさとを主題に何か変奏曲でも」と私。娘たちのオケに「ふるさとの主題による変奏曲ヘ長調op123でもお願いしますよ」と、軽口をたたいたが、ブラームスは少し考えてから「いやいや、それは僭越だ」と大真面目。「むしろ、簡単で気の利いた和音を付けた歌曲か、声部の少ない女声合唱くらいがいいだろう」と答える。モラヴィア二重唱の中に入っていても全く違和感がありませんねとはビューローの感想だ。

    次女が思い余ったように「その楽譜差し上げます」と申し出た。ブラームスは少し間を置いて次女をまじまじと見つめながら「楽譜は大事にしなければ。簡単に人にあげてはいけないよ」と諭す。

    いつもおとなしい次女が、キッパリと反論を試みる。「志を果たして」という3コーラス目のテキストは、まさに私たちの気持ちそのままでした。長い間準備してきたドイツ公演の最後の演目だとみな知っていたからとりわけ心をこめました。そして「いつの日にか帰らん」と続いて、間もなくの帰国を暗示しているかのようです。スタンディングオベーションのお代わりには本当に涙が出ました。

    だからやっぱり差し上げます」と一歩も譲らない次女。ブラームスはまた遠くを見つめる目になって「ああ伝わったとも」「古くから歌い継がれていた曲は、必ずオーラを持っているものだ」と自分に言い聞かせるようにつぶやく。

    ブラームスは少し間をおいて「何かお礼をさしあげなきゃね」と次女の手を握った。

    2012年7月15日 (日)

    エムス電報事件

    そもそもの始まりはスペイン。1868年マドリードで起きた軍事クーデターにより、女王イザベル2世が追放された。新王朝を作るために候補者を探すことになった。白羽の矢が立ったのが、ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のレオポルド王子。早い話がプロシアのウイルヘルム1世にとっては本家筋の従兄弟。

    案の定フランスは大反発。そりゃあそうで、スペインにプロイセンの親戚王朝が出来たらまずいに決まっている。ウイルヘルム1世は「やぶさかではない」くらいのノリだったが、フランスは断固反対。ビスマルクの陰謀だと新聞が書きたてる。

    保養地エムスに滞在中のウイルヘルム1世に対して、レオポルド王子がスペイン王にならないよう圧力をかけてほしいと要請する。結果としてレオポルド王子の即位は見送られたのだが、よせばいいのに「今後スペイン王座に触手を伸ばさぬ確約」を求めて会見を要請した。ウイルヘルム1世はいい加減うっとおしくなって、会見を拒否した。一連の経過はビスマルクに電報で知らされたのだが、ビスマルクはこの電報を適当にカットし「会見を拒否した」部分だけをマスコミにリークした。

    独仏どちらの国民が読んでも「無礼」と感じる内容に修正したということだ。朝刊紙「北ドイツ日報」掲載が7月14日の話。フランスの夕刊紙が当日すぐに過激に反応し、ビスマルクがほくそ笑んだ。これで独仏両国に戦争気分が盛り上がった。プロイセンはフランス国内の空気を読んで、宣戦布告を待たずに動員に着手した。

    4日後の7月18日にフランスがプロイセンに宣戦布告する。戦争準備が整っていたプロイセンが、戦争を仕掛けられるという体裁をとるに至ったことになる。まさにこれこそビスマルクの思う壺。バイエルンなど南部諸邦がこれによりプロイセン側につくことが確定したからだ。

    その南部の雄邦バイエルン王国の都はミュンヘンだ。7月14日ブラームスはまさにそのミュンヘンでワーグナーの楽劇おそらく「ラインの黄金」を鑑賞した。さらに17日、フランスの宣戦布告の前日にはこれまたおそらく「ワルキューレ」を見た。ということはつまりエムス電報事件を伝えた新聞をブラームスはミュンヘンで読んだ可能性が高い。「北ドイツ新報」がミュンヘンで手に入るかどうか不明だが、当日の夕刊にフランス各紙が反応したのを見れば遅くも15日の朝刊で知り得たに違いない。

    2012年7月14日 (土)

    お盆のファンタジー11

    夜更かしがたたって遅くに起きてリヴィングに下りてゆくと、ブラームスとビューローが次女を捕まえて話をしている。私が行くと会話を中断させかねないので立ち聞きしてみた。

    ビューロー> それにしてもあの日のショスタコ某っていったい何だ。

    次女> ディミトリー・ショスタコーヴィチの交響曲第5番は20世紀の作品なのでお二人が知らなくても無理はありません。今のロシアの前にソヴィエト連邦という時代があってとても苦労したそうです。

    ブラームス> よく勉強しているね。

    次女> 演奏会やコンクールで取り上げる作曲家については、集中的に勉強します。

    ビューロー> そんなことじゃなくて、いかにも複雑そうなあの曲をあなた方は暗譜しているのか?

    次女> へっ??演奏会本番では楽譜を置いて弾きましたが、何故暗譜だと感じるのですか?

    ビューロー> 実はこっそりステリハを見ていたんだ。リハーサルのときはみな暗譜だったでしょ。楽譜なんか誰も見てないことくらいすぐ判るよ。

    次女> はい。暗譜でした。あの曲をあのテンポで弾くのは、私たちのレベルではとても難しいので、暗譜してあわせることに集中したのです。楽譜を置くのはホンのおまじないです。コンクールでは譜面台も置きませんでした。でも暗譜は最後の手段です。楽譜を見ないで間違えずに弾くことだけに気をとられ過ぎると機械と同じになってしまいます。楽譜通りに間違えずに指が動くところまでは、息をするのと同じレベルでこなすのが理想です。余った注意力を表情やアンサンブルに振り向けたいのですが、口で言うほど簡単ではありません。

    ビューロー> 指揮者が「練習番号105の8小節目から」というような指示をしても、問題なく場所がわかるのですか?

    次女> 慣れるまでは大変でしたが。

    ビューロー> 全員がそんな感じなの?

    次女> はい。初心者ほど暗譜が速いです。

    ブラームス> 今度ビューローに君たちを指揮をさせてはもらえないかね。

    次女> 本当に指揮をなさる方なのですね。一昨日は失礼しました。顧問に話しておきます。

    ブラームス> 顧問って何だ?

    次女> 我々のオーケストラの責任者ですが、事実上の常任指揮者でもあります。同時に私たちの学校で音楽を教える教師でもあります。

    ブラームス> 音楽の先生だったのか。てっきりどこぞのマエストロを呼んだのかと思った。普段からメンバーに接しているというわけだな。

    次女> 私たちにとってはマエストロです。

    ビューロー> その前にショスタコ某について私が勉強せばねならん。スコアはあるかな?

    次女> もちろんここにあります。

    ビューロー> 君は指揮もするのか?

    次女> とんでもない。指揮はしません。

    ビューロー> それでは何故スコアにたくさん書き込みがあるんだ?

    次女> 暗譜してしまったあとの全体合奏練習では、パート譜は見ません。その代わりにイスの下にスコアを置いて、指示や注意をいちいち書き込むのです。自分のパートの暗譜は当然ですが、スコアに頻繁に触れることで、他のパートの事情にも明るくなります。大事なところでは、よそのパートの動きも大体覚えます。

    ブラームス> リハーサルのとき、指揮者がホールの鳴り方を聴くために指揮台を離れたことがあったね。そのとき指揮無しでも演奏が続いていたけど、大丈夫なの?

    次女> はい。テンポの動きが激しい曲ですが、もう長いこと取り組んでいるので、あの曲に関しては指揮無しでも止まることはありません。みなコンミスとパーリーを見てます。それでも困ったらコンバスやティンパニを聴きます。ショスタコーヴィチならではのアッチェレは、体にしみついてしまった感じです。

    ビューロー> そりゃ驚いた。驚かされることだらけだ。

    次女> もし私たちが、ブラームス先生の作品を取り上げることになったら、一度練習を見てもらえませんか。

    ビューロー> 1度でも2度でも飛んでゆくよ。君たちの国では指切りをするのかね。

    大御所2人を相手に臆することなく会話が続く次女であった。

    2012年7月13日 (金)

    お盆のファンタジー10

    届いたばかりのドイツ公演のCDを皆で聴いた。録画は無いのかとブラームス。もう少し遅れると答えると、それは残念と声をそろえる2人。「届いたら送りましょうか?」と次女。あの子どこに送る気だろう。

    やがてブラームスは私に向き直って「どうも君たち日本人はドイツが好きらしいな」と言い出した。「そりゃそうですとも」と私。「思うにドイツには世界一が5つある」というとビューローまでもが身を乗り出してきた。「まず第一にビール」と切り出すと2人とも大きくうなずいている。長女と次女がビールのお代わりをとりに冷蔵庫に向かった。

    「それから2番目に自動車」というと2人とも「はあ?」という表情。彼らの時代にはまだ自動車は一般的ではなかったから無理もない。「うちのクルマはドイツ製だよ」と自慢するのは3月の旅行以来ドイツ贔屓が進む長男。目を丸くするブラームス。

    娘たちが「日本製ですみません」といいながらビールのお代わりを持って入ってきた。かまわず私が「クルマとビールの次はサッカー」というと二人とも同時に首を振る。「女性のサッカーだとドイツは世界一ではない」と口をそろえる。こういうところは妙に律儀だ。

    「4つ目はオケ」「世界最高のオケはいつの時代にもドイツにある」と私。ビューローはさすがに自慢げだ。ブラームスはわざとまじめぶって「でもニュルンベルクのコンサートを聴く限りではU-17だと日本もすばらしいな」と社交辞令だ。「それを聴いて大喝采のドイツの聴衆はやはり世界一でしょう」と次女がおじさん同士の会話に割ってはいる。うら若き乙女の攻撃にたじたじのブラームスだ。

    「ところで5番目の世界一はいったい何だ」とブラームス。次女の酌を受けながらビューローが耳をそばだてている。私はわざと大声で「それはあなたです」と答えると、ビューローは親指を立ててOKの仕草だ。ブラームスは耳たぶまで真っ赤にしながらジョッキをあけた。

    2012年7月12日 (木)

    お盆のファンタジー9

    昨夜「今年の迎え火そろそろだね」と母と話していたら、玄関で物音。ブラームスが立っている。「迎え火もまだなのに」と言いかけた私を押しのけて、次女に向かって突進し、いきなり抱きしめた。ドン引き気味に立ちすくむ次女にお構いなしに頭を乱暴に掻きなでる。

    昨年のお盆は、地震商売の話ばかりだったので、次女が高校オケにはいった話をし損ねた。その次女は今年、オケの話をしたくて楽しみにしていたことは間違いないのだが、迎え火前の登場には意表をつかれた。

    5分は続いた手荒いハグのセレモニーの後、呆然とする次女にしみじみと話しかけた。「凄かったね、ニュルンベルクのコンサート」と切り出した。「おいでいただいたのですか」と次女。「もちろんだとも」「デュッセルドルフも聴いてたよ」とブラームス。「デュッセルドルフの聖ヨハネ教会は懐かしかったけど、演奏を聴いて驚いた」「だからとニュルンベルクにはなかなか出かけないのだが、大震災に遭った日本から乙女たちのオケが来ると知り合いをみな誘ったんだ」

    話がいきなり盛り上がったせいでゲストを忘れていた。後ろでモジモジしていた男をブラームスが紹介してくれた。ブラームスの親友ハンス・フォン・ビューローだ。「ニュルンベルクのコンサートで、こいつがあんまり感激したモンだから連れてきた」とブラームス。次女が握手をしながら「指揮もなさるのですか」と話しかけるとブラームスは腹を抱えて笑った。「ジョークのセンスもたいしたもんだ」とブラームスは誉めてくれたが、次女は何故笑われたかわかっていない。「すんません。後でよく説明しておきます」と平謝りの私。

    ところが当のビューローはにこりとも笑わずに「無闇に年齢を訊くのは日本でも失礼なのか?」と私に尋ねてきた。「もちろんですが」と答えたにもかかわらず「ニュルンベルクのコンサートの生徒たちはいったい何歳なのですか」と畳み掛けてきた。次女が「16歳か17歳です」と答えると、ブラームスの方に向き直って両手を広げて首をすくめる動作。次女に向き直ると「大震災の日本から元気をもらったよ」とビューロー。「ありがとうございます」と次女が緊張気味に答える。「私はセカンドヴァイオリンでした」というと今度はブラームスが「ああ、よく見えたよ」と割り込む。

    「演奏の出来はいかがでしたか」と度胸のついた次女が尋ねる。ブラームスとビューローは一瞬顔を見合わせて、ほぼ同時に「ブッルァ~ヴォ」とつぶやいた。やけに巻き舌を強調する言い方だった。「みんな立ち上がっていただろ」とブラームス。次女は「その様子が凄くて本当に感動しました」とポツリ。「ビューローも私ももちろん立ち上がったよ」ビューローは「演奏の水準もだが、スプリンクラーのあり得ない誤作動から、気迫が演奏に乗りうつっていたね」「尋常ならざる雰囲気の中、集中を切らさなかったのはたいしたものだ」「だから思わず年齢を聞いたんだ」とまくし立てる。

    「スプリンクラーの誤作動のとき、みんなどう感じていたの?」とブラームス。「演奏会が続けられるかとても不安でした。正直なところ足がすくんでいました」と神妙な次女。「世界中どこのオケだってスプリンクラーの誤作動なんぞ想定していない」とビューロー。「きょろきょろしないで、指揮者だけを見ているよう心がけました」と珍しく雄弁な次女の対応。「全く想定外のトラブルに対し、微動だにしない様子だけでも一見の価値がある」とブラームスがビューローを押しのけるように割り込む。「ありがとうございます。でも聴衆のみなさんの暖かい応援のおかげです」

    総立ちのスタンディングオベージョンでさえ滅多に起きることではない上に、それを浴びた少女たちはただ涙。涙する乙女たちと、総立ちの聴衆がじっと向かい合ったままの夢のような数十秒間。スプリンクラーのことなんぞみんな忘れていたよと、ビューローは興奮が収まらない様子。

    長いドイツの伝統で、聴衆には「感動したら立つ」というルーチンが出来上がっている。演奏家に対する最上の敬意。これがスタンディングオベージョンなのだが、あの日はもどかしかった。総立ちのスタンディングオベージョンを浴びてステージで涙する少女たちに、それ以上の敬意を示す手段が無かったからだ。あの演奏会がチャリティだったのが幸いだった。これはブラームスの熱弁。はっきり言わないがブラームスも募金に応じたようだ。それもかなりの額。

    「凄い練習量なのだろう?」とビューロー。「部活全体には初心者も多いので大変でした」と次女が答えると、2人とも「はぁあ?」という表情。楽器を始めて1年のメンバーが少なからず混じっているという説明にビューローはおよそ10cmのけぞった。ブラームスがビューローを押しのけながら「そもそも部活ってなんだ?」ともっともな質問。次女は丁寧に答えるのだが二人とも全く飲み込めていない様子。

    当日の録音は無いのかという話になったところで長女がビールを持って入ってきた。

    2012年7月11日 (水)

    刊行7周年

    本日7月11日は書籍「ブラームスの辞書」の刊行記念日。2005年刊行だから7周年である。加えて本日はブログ「ブラームスの辞書」創設から2600日の記念日でもあるから、二重のお祝い。その2600日間記事の抜けが無い。

    ビスマルク特集に次女のオケネタがなだれこんで、記事がダブつくという嬉しい悲鳴の中、こうして記念日ネタを放っている。7年目の刊行記念日と2600日が同じ日になったおかげで、一本の記事ですませることができた。

    2012年7月10日 (火)

    クラウゼヴィッツ

    Karl von Clausewitz(1780-1831)はハレの下級貴族の出身。12歳でプロイセン陸軍に入隊し、シャルンホルストの薫陶を受ける。ナポレオンのロシア遠征を前にロシア軍に投じ参謀を務める。1818年にプロイセンに復職し、ベルリン士官学校の校長になる。この頃から古今の戦史を分析し、ナポレオン戦役への従軍経験を元に思索しながら、それを原稿に書き留める。1813年に没した後遺族の手により順次刊行された。

    これが名高い「戦争論」だ。

    「戦争とは敵を屈服させることを通じて自己の主張を実現するための暴力行為である」という有名な定義から書き起こし「戦争は政治である」というこれまた有名な結論に至る。今でこそ古典的な地位を獲得しているものの、当時は参謀本部以外では知る人の少ない書物だった。

    ここで論じられた方法論を現実の戦場で検証したのがモルトケであった。モルトケがこの本の通りに戦争をして連戦連勝だったことから、普墺戦争以降あっという間に世界中で読まれるようになり、今や堂々たる古典の位置にある。

    ブラームスは普仏戦争系の書籍をかたっぱしから読破したと証言されているから、クラウゼヴィッツの「戦争論」をも読んでいた可能性は非常に高いと思う。

    2012年7月 9日 (月)

    戦争論

    クラウゼヴィッツの名著「戦争論」の出版は、著者没後の1834年から始まった。執筆は1831年までに行われたが、著者クラウゼヴィッツの急死のため未完の原稿が残った。その執筆の原点は、ナポレオンにある。プロイセンやロシアの将校としてナポレオンと戦った経験が元になっている。

    「どうしたらナポレオンに勝てるか」という視点から掘り下げてている。フランスに攻められたらどうするか、あるいはフランスを攻めるにはどうするかという観点を中心に据えている。列強がひしめきあう中欧にあって、ナポレオンなきあとも依然大国であり続けたフランスが意識の中央に鎮座する。

    プロイセンの立場を浮き掘りにするために、執筆時点における周辺各国とプロイセンの情勢が手際よく分析されている。地理、歴史、民族、政治、経済、人口、産業、軍隊などだ。執筆のタイミングが絶妙だ。つまりそれらの分析はブラームスが生まれるころの欧州の状況を、プロイセン目線で語っているということになる。

    私が戦争論を面白いと感じる原因の一つだ。

    2012年7月 8日 (日)

    戦論

    森鴎外は1884年から1888年にかけて陸軍軍医としてドイツに留学していた。「独逸日記」はまさにその4年間を記録したものだし、彼の作品の中にはその経験が色濃く反映しているものもある。まさにブラームスと同時代の貴重な証言になっている。

    実はもう一つ言及しておきたい点がある。クラウセヴィッツの名著「戦争論」の翻訳を鴎外が手がけていた。そのタイトルが「戦論」だ。1899年6月小倉で1編と2編が訳出されたという。これは当時の大日本帝国陸軍参謀本部の意向だった。日清戦争の5年後で日露戦争の5年前の時期。対露戦争不可避の情勢にあって、軍内の教育目的で翻訳されたものだ。

    日本で一二を争う大文豪が戦争理論書を訳していたことになる。当時随一のドイツ語通に白羽の矢が当たったということだろう。その訳本は日本の主要な師団13箇所以上に配布されて研究の題材になった。

    2012年7月 7日 (土)

    欧州情勢の分析

    鴎外の「独逸日記」にはビスマルクに言及した箇所がもう一つある。1887年2月13日の記事だ。ここは当時欧州列強を取り巻く情勢が鴎外の視点で語られている。ブルガリアをめぐるバルカン半島の情勢は「露墺の間穏ならず」と表現し、フランス陸軍大臣が「暗に独逸の隙を窺う」という。ドイツでは、平時の軍備増強が国会で紛糾し、ビスマルクと中央党ヴィンドホルストの対立から、ビスマルクが国会の解散に打って出た。ローマ法皇においては「加特力(カトリック)教徒がビスマルクの意に従わざることを謀れり」とある。

    ドイツ帝国周辺の欧州の情勢が手際よくまとめられている。

    この文中にドイツ帝国皇帝ウィルヘルム1世に言及がある。「維廉帝」というのがそれだ。独逸日記にはウィルヘルム1世への言及が意外に少ない。この後鴎外帰国寸前に崩御の記事があるばかりである。

    2012年7月 6日 (金)

    誕生を祝う記事

    森鴎外の独逸日記の記述にはビスマルクが現れる。1885年4月1日の記事だ。

    「4月1日、ビスマルク侯の生誕なり。家々宴を張りて相祝す」

    簡潔な表現だが、貴重。この記事はドレスデンで書かれている。ドレスデンの庶民がドイツ帝国宰相の誕生日を祝っているということだ。皆が祝っているニュアンス。ドレスデンはザクセン王国の首都。普墺戦争の折にはオーストリア側についたために、プロイセンから攻撃されて首都を占領された経緯がある。戦後処理でオーストリア側についた北ドイツ諸邦は、王家廃絶という過酷な扱いを受けたのだが、ザクセンはフランスの横槍によって廃絶を免れた。ビスマルクは敵だったハズなのだが、ドイツ帝国成立から十数年を経たこの時点で、家々でビスマルクの誕生日を祝う雰囲気になっていたということだ。

    ほかに誕生日関連のネタといえば1886年1月19日にドレスデンにて恩師ロートが誕生パーティを開いてくれた。鴎外の誕生日は1862年2月17日のハズ。これには納得のからくりがある。鴎外の生誕は旧暦で申せば1月19日だった。イコール新暦の2月17日なのだが、鴎外は自らの誕生日を「1月19日」と周囲に申告していた可能性がある。旧暦1月19日生まれの鴎外の誕生パーティを新暦1月19日に開いている。

    誕生日関連ではさらにディープなネタがある。同年4月23日には「国王の誕生日を祝って旗がたてられた」という記述がある。丁寧に注が振られていて、この国王がウィルヘルム1世を指すとなっているが大疑問だ。ウィルヘルム1世の誕生日は3月22日だ。これはザクセンのアルブレヒト王の誕生日の誤りだ。鴎外は「国王の誕生日」としか言っていないのに、注釈者が余計なことをした感じ。悪気はあるまいが人騒がせ。その癖、先の新旧暦のドサクサについては注釈が沈黙しているのは不親切な気がする。

    さてさてよく考えると凄いことだ。独逸日記には1884年3月22日の記述がない。22日から27日まで記述の空白になっている。つまりドイツ帝国皇帝の誕生日については言及が無い。街が祝賀ムードになっていれば鴎外はそれに言及したものと思われる。ドレスデン庶民は皇帝の誕生日はスルリと流して、ビスマルクとアルブレヒト王の誕生日を祝った可能性が高い。

    2012年7月 5日 (木)

    鴎外とブラームス

    森鴎外とブラームスに意外な接点でも見つかれば、ブログ運営的には万々歳なのだが、そうも行かない。森鴎外がドイツに留学していた時期の日記が「独逸日記」なのだが、その時期はブラームスの創作活動の頂点とも言える時期だった。鴎外は以下の通り拠点を移しながら学んだ。

    1. ライプチヒ時代 1884年10月22日から1885年10月11日
    2. ドレスデン時代 1885年10月12日から1886年3月7日
    3. ミュンヘン時代 1886年3月8日から1887年4月15日
    4. ベルリン時代 1887年4月16日から1888年5月21日

    1884年10月22日から1888年5月21日までの留学期間に初演されたブラームスの作品を見るとそれが傑作の森とも称すべき主要器楽作品の密林でもある。

    1. 第4交響曲 1885年10月25日 マイニンゲン
    2. チェロソナタ第2番 1886年11月24日 ウィーン
    3. ヴァイオリンソナタ第2番 1886年12月2日 ウィーン
    4. ピアノ三重奏曲第3番 1886年12月20日 ブダペスト
    5. 二重協奏曲 1887年10月18日ケルン

    鴎外が本拠にした4都市、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンはブラームスも立ち寄ることはあったが生活の本拠ではなかった。二人のニアミスの可能性は限りなく低い。第4交響曲のドレスデン初演は鴎外がこの地を立ち去った3日後だ。二重協奏曲のベルリン初演は、鴎外がベルリンにやってくる2ヶ月前だった。

    鴎外の「独逸日記」は、ブラームスと同時代のドイツを日本の文豪が切り取った貴重な同時代資料だが、逆にブラームスとの接点があまりに無さ過ぎて悲しい。

    2012年7月 4日 (水)

    断鵠山城

    「断鵠山城」で「ノイシュヴァンシュタイン城」のこと。ルートヴィヒ2世の死を悼んで、シュタルンベルク湖を訪れた森鴎外が詠じた漢詩がある。その中に出てくる表現。

    断鵠山城外の雲を望めば

    詩人何事か涙粉々

    窓多少綺麗の客

    波間に故君を葬るを憶えず

    全体の意味はおおよそ以下の通り。

    ノイシュヴァンシュタイン城外の雲を眺めると

    ロマンを知るものなら皆涙を流す

    今シュタウンベルク湖の遊覧船の窓から着飾った客が見えるが

    つい最近ここで国王が亡くなったことなど忘れたかのようだ

    「鵠」は「白鳥」の意味だから「シュヴァン」に通ずる。シュタインを断崖絶壁と意訳して捉えた鴎外の造語だ。

    2012年7月 3日 (火)

    路易二世

    ルートヴィヒ2世の漢字表記だ。森鴎外の「独逸日記」に出現する。鴎外が留学生としてドイツに滞在していた頃、バイエルン王ルートヴィヒ2世が謎の死を遂げる。鴎外はこのニュースをミュンヘンで聞き衝撃を受ける。その後シュタルンベルク湖を何度か訪問し、1887年9月2日にはルートヴィヒ2世を偲んで漢詩を詠じている。

    当年の向背群臣をおどろかす 

    末路の凄愴鬼神を泣かしむ

    功業の千秋は且く問うを休めよ

    多情は偏に是詩人を愛すればなり

    意味はおおよそ以下の通り。

    病を得て国王の最近の言動は側近を驚かせている。

    その末路の凄惨さには鬼神も涙を流すほどだ。

    国王の積年の功罪について問うのはしばらくやめよう。

    築城やワーグナーに入れ込んだのはロマンチストの証である。

    最後の一行は超意訳だ。

    見ての通り、「路易」は「ルートヴィヒ」を正直にトレースしていない。むしろ「ルイ」である。ルートヴィヒはフランス名ルイのドイツ語形だということを鴎外は知っていたに違いない。もしかするとルートヴィヒ2世が、フランス太陽王ルイ14世を尊敬していたことも念頭にあったのではと思わせる。

    2012年7月 2日 (月)

    暗殺の濡れ衣

    1886年6月13日バイエルン王ルートヴィヒ2世がミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖で侍医とともに遺体で発見された。侍医グッデンの死因は王自ら絞殺した可能性が高いというが、凶行直後の王自身の死は謎に満ちている。シュタルンベルク湖の岸から少々沖に入った深さ1mほどの浅瀬。王の胃にも肺にも水は入っておらず、目だった外傷も薬物反応もないから、いろいろと死因が憶測された。

    実際にビスマルクの陰謀であるという説まで取りざたされたらしく、その直後の選挙でビスマルク与党は20議席失っている。

    2012年7月 1日 (日)

    侍従武官デュルクハイム

    1886年6月10日未明バイエルン王ルートヴィヒ2世は、自らが心血を注いで造営したノイシュヴァンシュタイン城にいた。そこに精神病という鑑定をバックに王を逮捕するための委員会が乗り込んでくる。精神病をでっち上げられた末事実上のクーデターだった。首謀者ははっきりしないが、ルートヴィヒ2世の退位に伴い、後継王が直ちに即位したところを見ると入念な根回しがあったと見て間違いない。

    王に付き従うのは侍従武官のデュルクハイム。ミュンヘンの政府や宮廷は皆結託していて信用出来ない状況で、彼は王を守ろうと奮闘する。夜が明けるとミュンヘンでは王の退位と病気が公表された。デュルクハイムは城を脱出した。ミュンヘンに戻り市民の前に姿を見せろと説得しつつ、国外に援助要請の電報を打つ。そのあて先の中にオーストリア皇帝夫妻そしてビスマルクがいた。

    オーストリア后妃は母の従兄弟だからかもしれないが、ビスマルクは不可解だ。ウィルヘルム1世宛てで無いところが切ない。ルートヴィヒ2世から見ればプロイセン王家は母の実家なのだが、幼少の頃から母との折り合いを欠いていたのが微妙に影響している。頼られたビスマルクはバイエルンへの内政干渉を配慮しつつ「ミュンヘンに赴いて国民の前に出よ」と返信するが結局12日早朝に拘束される。オーストリア皇妃シシィも救いの手を差し伸べたとも言われているが、公式には何もないことになっている。

    後日ビスマルクはバイエルンの後継王ルイトポルトにこのやり方を批判している。

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