ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 噴水代 | トップページ | 暗殺の濡れ衣 »

2012年7月 1日 (日)

侍従武官デュルクハイム

1886年6月10日未明バイエルン王ルートヴィヒ2世は、自らが心血を注いで造営したノイシュヴァンシュタイン城にいた。そこに精神病という鑑定をバックに王を逮捕するための委員会が乗り込んでくる。精神病をでっち上げられた末事実上のクーデターだった。首謀者ははっきりしないが、ルートヴィヒ2世の退位に伴い、後継王が直ちに即位したところを見ると入念な根回しがあったと見て間違いない。

王に付き従うのは侍従武官のデュルクハイム。ミュンヘンの政府や宮廷は皆結託していて信用出来ない状況で、彼は王を守ろうと奮闘する。夜が明けるとミュンヘンでは王の退位と病気が公表された。デュルクハイムは城を脱出した。ミュンヘンに戻り市民の前に姿を見せろと説得しつつ、国外に援助要請の電報を打つ。そのあて先の中にオーストリア皇帝夫妻そしてビスマルクがいた。

オーストリア后妃は母の従兄弟だからかもしれないが、ビスマルクは不可解だ。ウィルヘルム1世宛てで無いところが切ない。ルートヴィヒ2世から見ればプロイセン王家は母の実家なのだが、幼少の頃から母との折り合いを欠いていたのが微妙に影響している。頼られたビスマルクはバイエルンへの内政干渉を配慮しつつ「ミュンヘンに赴いて国民の前に出よ」と返信するが結局12日早朝に拘束される。オーストリア皇妃シシィも救いの手を差し伸べたとも言われているが、公式には何もないことになっている。

後日ビスマルクはバイエルンの後継王ルイトポルトにこのやり方を批判している。

« 噴水代 | トップページ | 暗殺の濡れ衣 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 侍従武官デュルクハイム:

« 噴水代 | トップページ | 暗殺の濡れ衣 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ