濡れ衣
あらぬ疑いをかけられることだ。「濡れ衣を着せられる」と言い回される。一方で「火のないところに煙は立たぬ」という諺もあるから、冷静な判断が求められる。
1853年6月ワイマールのリスト邸を訪問したブラームスは、場の雰囲気になじめず、ピアノ演奏は辞退した挙げ句に、足早にその場を辞去したとされている。リストが自作を演奏している最中に、ブラームスが居眠りしたという有名なエピソードがある。リストが気分を害したとも伝えられている。
本当だろうか。
リスト邸を辞して後、1853年10月にはデュッセルドルフにロベルト・シューマンを訪ねたブラームスのその後のブレークぶりは名高い。シューマンは早急に出版の手続きを進めた。ブラームスは出版社との打ち合わせも兼ねて11月にはライプチヒを訪れている。このときたまたまライプチヒを訪れていたリストを訪問しているのだ。ちなみにベルリオーズも一緒だったらしい。居眠りのエピソードから半年も経っていない。この訪問は無神経とも思えるし、当のリストがケロリと訪問を受け入れたというのも変だ。
そもそもいわゆる居眠りのエピソードの出所は、ウイリアム・メイスン。ところが、彼は実際にブラームスが居眠りしているのを見た訳ではないようだ。ネタの出所は当時のブラームスの相棒、ヴァイオリニストのエドゥワルド・レーメニだ。
ブラームスはここでレーメニとのコンビを解消しゲッティンゲンにヨアヒムを訪ねたことは有名だ。つまりレーメニとは決裂したのだ。居眠りの話はレーメニの腹立ち紛れの出任せかもしれない。このレーメニとは後日ハンガリア舞曲の著作権をめぐって裁判沙汰も起こしている。「彼には嘘が多かった」というブラームスの回想は、あながち誇張ではなく、この居眠りのエピソードをも含んでいたのではなかろうか。
本当は「これにてお暇させていただきます」と挨拶くらいしてワイマールを去ったのかもしれない。失礼な去り方をしていたら、半年以内に表敬訪問なんぞ出来まい。
居眠りは濡れ衣。
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