誕生を祝う記事
森鴎外の独逸日記の記述にはビスマルクが現れる。1885年4月1日の記事だ。
「4月1日、ビスマルク侯の生誕なり。家々宴を張りて相祝す」
簡潔な表現だが、貴重。この記事はドレスデンで書かれている。ドレスデンの庶民がドイツ帝国宰相の誕生日を祝っているということだ。皆が祝っているニュアンス。ドレスデンはザクセン王国の首都。普墺戦争の折にはオーストリア側についたために、プロイセンから攻撃されて首都を占領された経緯がある。戦後処理でオーストリア側についた北ドイツ諸邦は、王家廃絶という過酷な扱いを受けたのだが、ザクセンはフランスの横槍によって廃絶を免れた。ビスマルクは敵だったハズなのだが、ドイツ帝国成立から十数年を経たこの時点で、家々でビスマルクの誕生日を祝う雰囲気になっていたということだ。
ほかに誕生日関連のネタといえば1886年1月19日にドレスデンにて恩師ロートが誕生パーティを開いてくれた。鴎外の誕生日は1862年2月17日のハズ。これには納得のからくりがある。鴎外の生誕は旧暦で申せば1月19日だった。イコール新暦の2月17日なのだが、鴎外は自らの誕生日を「1月19日」と周囲に申告していた可能性がある。旧暦1月19日生まれの鴎外の誕生パーティを新暦1月19日に開いている。
誕生日関連ではさらにディープなネタがある。同年4月23日には「国王の誕生日を祝って旗がたてられた」という記述がある。丁寧に注が振られていて、この国王がウィルヘルム1世を指すとなっているが大疑問だ。ウィルヘルム1世の誕生日は3月22日だ。これはザクセンのアルブレヒト王の誕生日の誤りだ。鴎外は「国王の誕生日」としか言っていないのに、注釈者が余計なことをした感じ。悪気はあるまいが人騒がせ。その癖、先の新旧暦のドサクサについては注釈が沈黙しているのは不親切な気がする。
さてさてよく考えると凄いことだ。独逸日記には1884年3月22日の記述がない。22日から27日まで記述の空白になっている。つまりドイツ帝国皇帝の誕生日については言及が無い。街が祝賀ムードになっていれば鴎外はそれに言及したものと思われる。ドレスデン庶民は皇帝の誕生日はスルリと流して、ビスマルクとアルブレヒト王の誕生日を祝った可能性が高い。
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