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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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2012年8月31日 (金)

モルトケ演説

岩倉使節団の報告書ともいうべき、「米欧回覧実記」には1874年2月のモルトケの議会演説が引用されている。歓迎レセプションでのビスマルクの演説が記述されるのは当たり前だが、1873年9月には帰国しているというのに、帰国後半年も過ぎたモルトケの演説内容が要約されているのは異例だ。

モルトケの演説を要約する。

  1. 国家たるもの、単に倹約につとめ租税を減ずることに汲々とするな。
  2. 歳入は国の急務にあて、常に国家の威勢を海外に発するよう務めよ。
  3. 法律、秩序、自由などは国内を治めるには良いが、海外を治めるのは兵力と心得よ。
  4. 万国公法を遵守するのは小国のすることで、大国は国力に物を言わせる。
  5. 昨今の情勢は平和維持が難しい。一旦隣国と事あらば迷わず攻めよ。
  6. ただし、それは単に勝利への渇望とせず、平和を欲すればこそであると諸国に示せ。
  7. ドイツこそが欧州平安の守護者であることを広く知らしめよ。
  8. その実力を維持するための軍備である。

ビスマルクの演説をさらに細かく読み下したという感じ。だからわざわざ回覧実記に引用したのだ。欧州の中央に鎮座するドイツの強大な兵力が、抑止力になるというのだ。その軍事力を背景にビスマルクは外交に邁進する。対露友好を柱に、フランスの孤立を図り、間接的に独英同盟を構築したことにより、結果として1871年以降第一次大戦までの平和を生み出した。

日本はこれをドイツに代わってアジアで実現しようとしたようにも見える。

2012年8月30日 (木)

万国公法

厳密に申して2系統の意味がある。

一つは「国際法」の古い言い回し。今ひとつは1860年代に翻訳された国際法の手引き書のタイトル。この書物を指す場合と国際法そのものを指す場合がある。最初は中国語版が刊行されたが、遅くとも1870年までに日本にもたらされた。開国間もない日本は、この書物を通して国際法とは何かを学んだ。国際社会の一員になるために必死で学んだと思っていい。

国際法上の正規な手続きをとって条約改正を目指した。岩倉使節団の目的は条約改正の先触れだったが、米英仏の反応は鈍い。のらりくらりをかまされたり、断られたりだ。どうもおかしいと乗り込んだドイツで、種明かしが待っていた。

ビスマルクは使節団に演説する。「列強は国際法が自国の利にならないと悟れば遠慮なく踏みにじる」と。日本の求める条約改正は、列強の既得権の返還だから、国際法の手続きを踏んでいても、やすやすとは応じないと。「最後は力でっせ」という訳だ。

目から鱗の使節団は、途端にドイツのビスマルク・モルトケに心酔する。一行の帰国した3年後、朝鮮と江華条約を締結する。武力を背景にした不平等条約だ。締結の直前には、清国に対して朝鮮半島への介入排除を約させている。李鴻章と交渉に当たった森有礼は、アジア諸国が団結して欧米に対抗しようという李鴻章に対して、「万国公法、又無用なり」と言い放つ。ビスマルクの受け売りだ。

2012年8月29日 (水)

遭遇の可能性

1873年の夏、ブラームスはクララやヨアヒムとちょっとしたいさかいを起こしていたせいで、いつものバーデンバーデンを避暑地に選ばなかった。代わりに滞在したのがトゥツィングだ。ミュンヘンの南シュタルンベルク湖畔の街。避暑のためにウィーンを出た時期に明確に言及する書物が見当たらない。5月のどこかとまでしかわからない。

岩倉使節団の行程を調べていて興味深いことに気づいた。1873年5月7日にミュンヘンを出て、インスブルック、ヴェローナを経てフィレンツェに向かったとある。さらに調べるとミュンヘンを発つのは7日の夜だ。夜行列車を使いインスブルックには8日の朝に着いたらしい。使節団が列車で越えたのが、名高いブレンナー峠だ。さらに列車はドイツ最高峰ツークシュピッツェ北麓をかすめたに決まっているが、残念ながら真夜中。

ブラームスの避暑地トゥツィングは、まさにミュンヘンからインスブルックに向かう列車の経由地だ。ブラームスが40歳の誕生日を避暑地で迎えたなら、その夜に岩倉使節団が枕元をかすめて通ったということになる。

その夏、ハ短調とイ短調の弦楽四重奏曲、それから「ハイドンの主題による変奏曲」が、トゥツィングで作曲されたと目されている。

2012年8月28日 (火)

ビスマルクと岩倉使節団

1873年3月11日岩倉使節団はドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世に謁見した。一行はその翌日3月12日にビスマルクやモルトケと会っている。さらに3月15日にはビスマルク主催の宴に招かれている。そこでビスマルクは有名なスピーチをした。

「列強は自国の国益に反するときには国際法を守らない」という主旨の演説。「それを防ぐのはもっぱら軍事力だ」と説く。これには一同驚かされると同時に納得だ。国際法を学んで条約改正を目指しているのに、ビスマルクが「国際法なんぼのもんじゃ」と切捨てるのだから、目から鱗をはがされて、耳に水をかけられた感じ。

もとより英米仏の先進性に驚いたばかりの使節団だったから、勃興間もないプロイセンの方が手本として身近と感じ始めた。大久保、木戸、伊藤の3名はビスマルクへの傾倒を隠さない。

ビスマルクも驚いた。政府首脳がごっそり1年10ヶ月も国を離れていいのかと。実際使節団は首脳という表現があてはまる。日本には太政大臣三条実美が居るものの、「留守政府」と呼ばれていたほどだ。危急の際の連絡についてはあらかじめ定めがあったが、手紙は2ヶ月かかるし、急な帰国もままならないからビスマルクの心配もうなずける。

年表を取り出すといい。その留守政府は「地租改正」「学制改革」「徴兵令」など重要な案件を次々と実行した。初めての鉄道開通もこの期間に属する。千葉県習志野市で明治天皇をお迎えしての大演習もこの間だ。西郷隆盛も現地にいたらしい。

言わんこっちゃない。使節団と留守政府の微妙な意見のズレも発生し、これが遠く征韓論論争に発展したという指摘もある。

ビスマルクの直感は鋭いのだ。

2012年8月27日 (月)

岩倉使節団

明治維新間もない日本が、欧米諸国の実情を視察するために派遣した。団長は右大臣岩倉具視。以下、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など錚々たるメンバーを含む46名と、随員留学生など総勢107名だ。彼らの目的は以下の通り。

  • 国書の拝呈
  • 条約改正の予備交渉
  • 各国事情の視察

1871年12月23日に横浜を出港。1873年9月13日に帰国するまでおよそ1年10ヶ月の洋行だ。第一の目的である国書は以下の通りに手渡された。

  1. 1872年01月25日 アメリカ グラント大統領
  2. 1872年12月05日 イギリス ヴィクトリア女王
  3. 1872年12月26日 フランス ティエール大統領
  4. 1873年02月18日 ベルギー レオポルド2世
  5. 1873年02月25日 オランダ ウイルヘルム3世
  6. 1873年03月11日 ドイツ ウィルヘルム1世
  7. 1873年04月03日 ロシア アレクサンドル2世
  8. 1973年04月19日 デンマーク クリスチャン9世
  9. 1873年04月25日 スウェーデン オスカル2世
  10. 1873年05月13日 イタリア エマヌエレ2世
  11. 1873年06月08日 オーストリア フランツ・ヨーゼフ1世
  12. 1873年06月21日 スイス セレゾール大統領

欧州の列強と米国を網羅している。一行はとりわけ英仏米の先進性に驚いた。条約改正が一筋縄では行かないことを実感したという。

惜しい。1872年秋から1873年春にかけてブラームスはウィーンにいた。楽友協会の芸術監督として忙しい毎日を送っていたから、岩倉使節団とのニアミスは起きていない。さらに一行がウイーンに来た6月には既に夏の避暑に出かけた後だから、鉢合わせの可能性はゼロだ。

2012年8月26日 (日)

商業文化祭

昨日次女のオケが地域の文化祭に出演。

  1. カルメンより「闘牛士」
  2. さんぽ
  3. カヴァレリアルスティカーナより間奏曲
  4. ボロディン:交響曲第2番より3、4楽章
  5. ディズニープリンセスメドレー
  6. ラデツキー行進曲

かれこれ一時間のプログラム。「さんぽ」で繰り広げられる楽器紹介が楽しい。7月の美術館コンサートとほぼ同じプログラムだが、ボロディンが夏の合宿を経て充実した感じ。このまま10月のコンクールを目指すという。それにしても相変らずなのが「カヴァレリ」、暑さを忘れさせる癒し効果。加えてキリリ、キビキビとした立ち居振る舞いが清涼感をかもし出す。

2012年8月25日 (土)

昇格組

まずは黙って以下の都市名をご覧いだだく。

  • フランクフルト
  • デュッセルドルフ
  • フュルト

これだけで何のことかわかる人はおそらくサッカー好き。ブンデスリーガ2部から今年昇格して1部で戦うチーム、つまり昇格組だ。

今年3月から4月にかけで、次女の所属するオーケストラの欧州公演を追いかけて、長男とともにドイツにわたった。上記3都市全てそのときに訪問した街になっている。フランクフルトとデュッセルドルフはかなり大きな都市だから、ドイツへの観光客が訪れても何等不思議ではない。3番目のフュルトは、相当マニアックだ。

ニュルンベルクの隣町で、ドイツ最初の鉄道がニュルンベルクとの間に敷かれたことで有名なのだが、観光客がホイホイ訪ねる街ではない。私と長男は寝る時間を削って、ツアーの予定にない行動をしていた。ドイツの新幹線に乗ってレーゲンスブルクに出かけたりと忙しかった。本日話題のフュルトへは、日程の最終日に地下鉄で訪問した。およそ15分の小旅行だ。ドイツ初の鉄道の終着駅だからというのが目的だったのだが、まさかそこのサッカークラブが今年昇格を果たすとは思っていなかった。地下鉄で15分程度なので、東京で言えば品川くらい。昇格した今年はニュルンベルクとのダービーも実現する。

5月に昇格組3チームが決定したとき、長男と顔を見合わせて偶然を喜んだ。良い話ばかりではない。世界遺産大聖堂の見学をそそくさと切り上げてまでタオルマフラーを買い求めた、ケルンは敢え無く降格してしまっていた。

さてケルンが降格した2部に、今年3部から昇格したチームの中にレーゲンスブルクがいる。ここもまた長男と訪れた街。代理店のセッティングになかったのに、半日の自由時間に無理やり訪問した街だけに、2部昇格は嬉しい。

フュルトもレーゲンスブルクも日本人選手は所属していないけれど、何となく応援したくなる。ドイツ・ブンデスリーガいよいよ開幕。

2012年8月24日 (金)

ボルシア

「Borussia」と綴る。プロイセンPreussenを擬人化した女性名詞だ。元々はプロイセンのラテン語形。

地図の上ではすっかり見かけなくなった「プロシア」だが、この言葉は意外なところに散見される。サッカーだ。旧プロシア王国内のサッカークラブが「ボルシア」という言葉をチーム名に冠していることがある。

その代表格が名門ボルシア・ドルトムントである。プロイセンのドルトムントくらいの意味合いになる。

2012年8月23日 (木)

プロイセンの3トップ

サッカーの世界ではおなじみのフォーメーション用語。敵ゴールに近い位置に何人の選手を配置するかということを端的にあらわしている。3トップはフォワード3人ということだ。FW一人なら1トップだし、2人なら2トップである。4人以上は見かけない。どれがいいとは一概には言えない。監督の個性、選手の個性、相手との相性、チームの置かれた状況などにより左右される。

昨日の記事「師団長のための独和辞典」を思い出して欲しい。連隊以下の組織は、4つに細分化されることで成り立っている。これはプロイセン軍の伝統だ。兵を4分割して戦うことを意味する。それらは左翼、中堅、右翼、予備となって戦いに望む。だから3トップだ。

ところがフランスを調べて驚いた。フランスは4分割ではなくて3分割だ。3個小隊が中隊になり、3個中隊が大隊になる。連隊は大隊3個から構成される。それらが中堅を欠く両翼に、予備隊を構成するということだ。要するにフランスは2トップである。

プロイセンの軍制は、ナポレオンに蹂躙された苦い経験から編み出された。「どうすればナポレオンに勝てるか」「どうすれば負けずにすむか」を練りに練って考案された仕組みだという。人数を減じたユニットでフランスの両翼を各個撃破する戦術に対応して3トップがひねり出されたと解し得る。このあたりのいたちごっこはサッカーと同じだ。

少年時代からブリキの兵隊人形遊びに興じ、成人してからも大切にとってあったブラームスは、兵隊人形の隊形を3トップにしていた公算が高い。

2012年8月22日 (水)

師団長のための独和辞典

ビスマルクを中心に据えてドイツ史の周辺を徘徊していると、戦争の話題が何かと多くなる。師団、軍団、旅団、連隊の意味について触れておく。時代により国により差があるのでプロイセン陸軍の歩兵についての意味合いを述べる。

<部隊>

  1. 軍 数個軍団の集合
  2. 軍団 Armeekorps 2個師団。これに砲兵、騎兵、通信兵、予備兵なども加える。
  3. 師団 Division。2個旅団。ここに工兵、衛生兵、主計も加わりおよそ12000名。Divisionは音楽用語にもなっている。おおむね中将以上が指揮する。
  4. 旅団 Brigade 2個連隊。少将以上が率いる。
  5. 連隊 Regiment 4個大隊。少佐以上が率いる。
  6. 大隊 Batallion 4個中隊。大尉が率いる。
  7. 中隊 Kompanie 4個小隊。中尉が率いる。コンパと語源は同じか。
  8. 小隊 Zug 少尉に率いられるおよそ40名の兵士。

<階級>

  1. 元帥 Feldmarschall
  2. 上級大将 Erzgeneral
  3. 大将 General
  4. 中将 Generalleutnant
  5. 少将 Generalmajor
  6. 大佐 Oberst
  7. 中佐 Oberstleutnant
  8. 少佐 Major
  9. 大尉 Hauptmann
  10. 中尉 Oberleutnant
  11. 少尉 Leutnant

  • 日本語の大中小に相当する語が含まれているわけではない。日本語はシンプルだが、ドイツにもそれ相応の理由があるのだと思う。
  • 2012年8月21日 (火)

    4階級特進

    ビスマルクのプロイセン陸軍内での位階は、最終的には「元帥位を有する上級大将」だった話を既にしておいた。23歳のビスマルクは1828年から1年間兵役に就いた。このとき少尉に任じられていた。その後退役して故郷に戻って農園を経営していた。その後軍隊に所属していたことはないが、政界進出後1861年までに大尉になっていた。

    1866年7月普墺戦争での抜群の功績を称えた国王はビスマルクを、マグデブルク郷衛軍の第7騎兵連隊長に任じた。もちろん実戦で采配を振るうことはない名誉職。位階は少将だ。大尉で昇進は止まっていたから、少佐、中佐、大佐を一気に飛び越えての少将だ。前年にはザクセン・ラウエンブルク伯爵に叙せられていたのに、さらに4階級特進をもって報いるほどの功績だったということだ。

    ビスマルクの国会での演説はタキシードだったのだが、これ以降軍服での登院が多くなる。

    2012年8月20日 (月)

    元帥

    ドイツ語で「Feldmarschal」と綴る。ドイツ帝国陸軍最高位だ。上級大将の中から選任される決まりになっているが、原則として戦時にあって敵要塞を陥落させるなどの目覚しい勲功が伴うことが条件になっている。有名なのはモルトケ将軍だが、何とオーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にもドイツ帝国元帥の位が授与されている。

    ビスマルクは政治家外交官だから、軍の位階には無関係かと思うとそうでもなくて、1890年に宰相を退任する際、長年の勲功に対して「元帥位を有する上級大将」という地位を授与された。要塞陥落などの戦時の手柄はないから元帥という訳には参らぬものの、それに準じた待遇をするということだ。

    2012年8月19日 (日)

    右翼

    本隊の右側に配置される部隊のこと。本来軍事用語なのだが、様々な場面で使われる。

    部隊の進行方向から見て右側という概念なのだが、野球では逆になっている。右翼手は守備側から見た左側に置かれる。攻撃側から見ての右だ。近代野球では、三塁送球のニーズから左翼手よりはポテンシャルが高いと目される。

    アメリカンフットボールの守備陣。攻撃側と対峙する最前線のラインマンのうち、右側の端に強力なパスラッシャーをおく。敵側パス攻撃の肝クォーターバックの死角から殺到出来る位置に最強の刺客を配置する狙いだ。クォーターバックが右投げであることが前提の措置で、これまた右翼優先。

    シュリーフェンプランの考案者、シュリーフェン伯爵の最期の言葉を思い出すといい。「我に強力な右翼を与えよ」だった。伝説的な逸話で事実かどうかにはなお用心が必要だが、これがまことしやかに伝えられているのには理由がある。シュリーフェンプランは1ヵ月半でフランスを屈服させることが主眼になっている。ベルギー国境に横長に配置した部隊が、パリを目指して一斉に行軍する。パリを陥落させた後、急転してライン川を目指すという代物。ルクセンブルクを中心に反時計回りにフランス領内を蹂躙するという主旨からして、大外に配置する部隊の移動距離が最大となる。横長配置の最北端つまり全軍の右翼がこれに耐える部隊であることが求められる。

    クラウゼヴィッツの名著「戦争論」の中にも右翼が現れる。18世紀前半まで戦場に移動中、騎兵たちは歩兵の右翼に付き従うと書かれている。この右翼のことが「名誉ある位置」と形容されているのだ。理由が書かれていないのが残念だ。そういえば「最右翼」といえばしばしば第一人者を意味するほめ言葉だった。

    ここにきてオーケストラを思い出す。オーケストラの右翼最前線は第一ヴァイオリンだ。オーケストラの楽器配置は、地域により時代により少しずつ違うのだが、第一ヴァイオリンの位置だけは共通している。右翼を名誉ある位置とする行軍の伝統がオーケストラの配置に影響を与えたなどということはあるまいな。コンサートマスターはいつもオケの右翼に陣取る。

    2012年8月18日 (土)

    小モルトケ

    鉄血宰相ビスマルクの片腕だった参謀総長モルトケの甥。伯父と区別するために「小モルトケ」と呼ばれている。第一次世界大戦開戦時の参謀総長だ。大戦冒頭のマルヌの会戦で用兵を誤ったために、短期結着が出来なかったと言われている。短期でおさめてサクサク講和という構想が崩れたことがドイツの敗因とされているから、伯父程には評価されていない。実際には、ロシアの動員速度を低く見積もっていた時点で、シュリーフェンプランは、遅かれ早かれ破綻していたというのが最近の学説。

    お家の存続が今よりずっと重要だった時代、男の子に恵まれなかった場合のお世継ぎの有力候補は「甥」だった。ナポレオン3世や豊臣秀秋などがすぐに思い浮かぶ。ローマ教皇などの聖職者は独身が原則だから、甥は最有力なのだが、伯父や叔父よりも世間の評価が低い場合が多くて気の毒だ。

    小モルトケは我がブログ的には大歓迎。彼はバッハやメンデルスゾーンを愛好し、自らチェロを弾いたという。戦争なんか下手でもいいではないか。

    2012年8月17日 (金)

    シュリーフェン

    アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵。1891年に就任した参謀総長。モルトケの次の次にあたる。就任年をよく見てほしい。ビスマルクが既に退任した後だ。同盟関係を縦横にからませて、列強のどこもが、迂闊に戦争に踏み切れないというビスマルク体制が早くもほころびを見せ始める時期。ロシアとの同盟が更新されず、案の定露仏同盟が成立する。ドイツ帝国は東西両側に仮想敵国を抱える状況に至る。ビスマルクやモルトケが恐れ続けた二面作戦不可避の状況にあってどうしたら勝てるかを熟慮して考案されたのが、世に名高いシュリーフェンプランだ。生みの親シュリーフェン伯爵の名前にちなむ。

    これによれば、さっさとフランスを叩き、その後に大軍を鉄道によって東部に転戦させるという発想。短期間でフランスを叩くにはあらかじめベルギー国境に大軍を横長に並べ、それらをパリに向かって一斉に進軍させる。パリを落としたら左に急旋回し、ライン川展開中のフランス陸軍主力を後方から襲撃する。この間およそ1ヵ月半と見積もった。後世の歴史家の間でさまざまな議論が起きているが省略。第一次大戦冒頭のベルギー侵攻は、シュリーフェンプランが下敷きになっている。

    シュリーフェンプランの肝は、動員に要する時間の差。用意ドンで動員にかかった場合、ドイツはロシアより49日早く動員出来ると見込み、その間にフランスを叩いて、戦線を東に転じると言う発想なのだが高くついた。

    サラエボ事件である。セルビアの首都でオーストリア皇太子が暗殺された。3週間後にオーストリアが宣戦布告したが、セルビア側につくロシアは、動員するぞという姿勢を見せてオーストリアを威嚇する。ビビッたのがむしろドイツ。シュリーフェンプランはロシアとの動員速度差が生命線だ。用意ドンから動員完了までの時間差が命なのに、用意ドンの前に先にロシアが動員を始める雲行きになったからだ。オーストリアとセルビア・ロシアの争いなのに、シュリーフェンプラン通りにあさっての中立国ベルギーに侵攻して第一次世界大戦を引き起こしてしまう。

    最後にシュリーフェンは1833年2月28日の生まれ。ブラームスと同い年だと指摘する無理目なオチ。

    2012年8月16日 (木)

    私営国際連盟

    ドイツ帝国成立後のビスマルクの功績はそれまでの手柄に比べてここ日本では話題になりにくい。派手な戦争に替わって外交の駆け引きでドイツ帝国の安全保障を模索したからだ。ビスマルクの脳裏にあったのは、いつも「対フランス」という発想。全ての行動がこれで一貫している。手始めが、普墺戦争で戦ったばかりの相手オーストリアとの同盟だ。1877年のこと。以下ビスマルク主導で成立した同盟の数々を列挙する。

    1. 独墺同盟
    2. 三帝協商(独、墺、露)もはやフランスはドイツを挟撃出来ない。
    3. 三国同盟(独、墺、伊)フランスはこれでイタリアにも手出しが出来ない。
    4. 地中海協定(英、伊)スエズ運河の領有をめぐる英仏の対立から。
    5. 東方協定(英、墺、伊、西)地中海を事実上掌握。
    6. 伊西協定(伊、西)フランスを東西から挟む。
    7. 拡大伊協定(独、墺、伊、西)上記6を拡充。
    8. 友好援助協定(独、墺、ルーマニア)バルカンの火薬庫を塩漬けに。
    9. 拡大独墺同盟(独、墺、ルーマニア、セルビア)上記8の拡充。

    すぐにわかるのは「フランスの仲間はずれ状態」だ。フランスが身動き出来ないばかりか、その他の当事国同士も紛争が起きない仕組みである。さらにスエズ運河の領有をめぐる英仏の確執を利用して、たくみに英国を巻き込んでいるので犬猿の仲の英露が間接的に同盟状態になる。そして事実上の独英同盟が成立していることにもなる。

    1871年の普仏戦争を最後に1914年の第一次世界大戦まで欧州中枢部では戦争が起きない。これら全部ビスマルクが表裏で列強を操った外交の賜物で、この状態を「ビスマルク体制」と呼ぶ。およそ50年におよぶ平和「私営国際連盟」である。

    後期ロマン派とは、こうしたつかの間の平和の中で絢爛たる花を咲かせることになった。

    2012年8月15日 (水)

    直間比率

    全税収における直接税と間接税の比率のこと。日本の場合はおよそ7対3で直接税優勢。直接税とりわけ所得税は納税者の経済力に応じた課税が出来るので、直接税の比率が課税の公平性の目安になると考えられている。

    19世紀のドイツに話を戻す。普仏戦争勝利で成立したドイツ帝国の税制はシンプル。直接税は連邦を構成する領邦の国庫に入り、間接税は帝国政府の国庫に入る。たとえばブラームスがウィーンに進出する前、所得税はハンブルク市の金庫に入るが、彼がタバコを買えばそれはドイツ帝国の金庫にはいるとでも説明したいところだが、当時は所得税がなかったという資料もあり微妙。法人税はあったらしい。

    むかし最大の間接税は関税だったが、例の関税同盟によって関税が廃止されたから、間接税収入は25%減った。だから帝国政府より、地方領邦の方が安定ししていた。帝国はあの手この手で間接税の創設に走るが、さまざまな抵抗にあう。帝国成立後のビスマルクの腐心はこのあたりにあった。帝国議会とはいえ各領邦の代表は間接税の創設や引き上げには抵抗するからだ。帝国財源の不足分は各領邦からの中央交付税で支えられていた。今の地方交付税とは金の流れが逆だ。

    直間比率は、現代でこそ課税公平性の指標とされているが、当時のドイツは中央集権度をはかる尺度だった。

    税金の話題とはいかにもタイムリーだが、ウィーンに居たブラームスはどういう課税のされ方だったのか調べているのになかなか判明しない。

    2012年8月14日 (火)

    議会との折り合い

    1862年、宰相に就任してからの10年間、ビスマルクは大きな戦争に3連勝した。当初敵対した議会も、ビスマルクになびき大与党が発達した。だから皇帝の信頼もあって、微妙な駆け引きと豪腕を使い分けながらも、悠々と議会と折り合った。

    ところが、1871年のドイツ帝国成立以降、大きな国際紛争がなくなったことで、議会運営は難しくなって行く。プロイセン宰相とドイツ帝国宰相との兼務は微妙なズレを生んで行く。

    1886年だから引退の4年前のことだ。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻の79ページで、友人のヴィトマンは、ビスマルクの粗探しをする議会にブラームスが文句タラタラだったと証言する。政治的事件に対するブラームスの視点はいつも、「ドイツ国民の利益になるかどうか」だったともいう。

    ビスマルクの断固たる支持者ブラームスである。

    2012年8月13日 (月)

    三権分立

    中学の公民で習う。「司法」「行政」「立法」を別の独立した機関に委ねるという国の仕組みのことだ。ドイツ統一に際して諸国君主の権限を温存する際に、これら三権に加えて、一部徴税権と独自憲法を諸国に認めた。普墺戦争で味方についた諸国はこうした扱いを受けた。

    一方でビスマルクが諸国から帝国に取り上げた権利もある。「経済」「軍事」「外交」だ。このあたりの切り分けが神業に近い。経済面でプロイセンの圧倒的有利は誰の目にも明らかで、オーストリアはおろかフランスを抜き去り英国に迫ろうかという勢いだ。軍事外交をプロイセンに委ねるということは、ビスマルクとモルトケの傘の下に入るということだ。おいしい話に違いない。

    帝国と諸国に切り分けられた機能もある。徴税権だ。これは直接税を諸国が取り、間接税を帝国が取ることで決着した。

    概ね円満に進んだ切り分けの中で、唯一長く紛糾した案件が「鉄道」だ。軍事上の観点からも鉄道の整備を急務とする帝国は敷設運営の全権を諸国から取り上げようと欲した。この点についてのみ諸国は頑強なる抵抗をした。さすがのビスマルクも結局はあきらめ、帝国鉄道化はプロイセン内に限定されることとなった。「司法」「行政」「立法」並みに諸国側に残ったと言える。

    いざ戦争という時に協力さえしてくれればいいよとモルトケあたりが入れ知恵したかもしれない。不思議なことは、帝国に抵抗した諸国が敷設する鉄道が、わずかな例外を除いて全て標準軌だったことだ。電化をしていない鉄道にとって、軌道幅さえ合えば相互乗り入れは容易い。

    2012年8月12日 (日)

    カル・リプケン

    ビスマルク特集真っ只中に、いかにも浮き上がったタイトルだが、彼は連続試合出場のメジャーリーグ記録保持者。ボルチモア・オリオールズ一筋の鉄人。その記録は2632試合だ。

    本日の記事をアップしたことによりブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日の開設以来2632日連続記事更新となった。2011年3月30日にルー・ゲーリッグの「2130」を抜き、同年6月22日には元広島カープの衣笠祥雄選手の持つ日本記録「2215」に追いついた。本日めでたくメジャーリーグ記録に並ぶ。

    おバカな息抜き。

    2012年8月11日 (土)

    カノッサの屈辱

    世界史を選択する受験生にとって基本中の基本。1077年神聖ローマ帝国ハインリヒ4世が、カノッサの雪の中裸足で立ち尽くして、ローマ教皇に詫びを入れ、破門を解いてもらった事件。皇帝と教皇の勢力争いの中の一こまだ。

    ビスマルクにとってドイツ帝国成立後、内政に難題を抱えていたが、その一つが文化闘争といわれるカトリックとの対立だった。ピウス9世率いるローマカトリックはドイツ帝国の敵と位置付けられていた。

    カトリックの弾圧は結果としては失敗に近かったがビスマルクは議会で強硬姿勢を改めようとはせず「私はカノッサには行かない」という演説を残した。

    これは「カノッサの屈辱」を踏まえた言い回し。「カノッサに行く」は「ローマ教皇に頭を下げる」という意味がある。一般のドイツ人なら断り無く発せられたとしても即座にピンと来る。こういう比喩を使わせたら右に出るものがいなかったという。

    2012年8月10日 (金)

    中央党

    ドイツ帝国成立後、ビスマルクがカトリック教会と対立した話題は既に出た。ローマ教皇ピウス9世率いるカトリックを、帝国の敵と位置づけて激しく弾圧した。「教皇は絶対に過ちを犯さない」など極端な考えのピウス9世は自由主義や民主主義、科学など一切を否定した。

    この争いのこと文化闘争と呼んでいる。ビスマルクの弾圧も苛烈で、プロイセン国内の修道院が解散させられたために、いくつかのワイン醸造所が人手にわたった。聖職者は「哲学」「歴史」「ドイツ文学」について文化試験をパスするように義務付けた。

    極端な政策を実行すれば敵も現れる。ドイツ帝国憲法に少数派となるカトリックの権利を保障することを求める中央党が発足した。1870年のことだ。普墺戦争でお取りつぶしにあったハノーファー王国出身のウインドホルストが党首を務める。「反帝国」「反プロイセン」「反統一」を掲げ、ビスマルクと真っ向から対立する。

    中央党の議席数を目安にする限り、文化闘争におけるビスマルクの旗色は悪い。ピウス9世の崩御によって幕引きされる文化闘争だが、中央党はいつもビスマルクの野党であり続けた。

    中央党は現在ドイツの与党CDUキリスト教民主同盟の前身らしい。

    2012年8月 9日 (木)

    サントゥッツァ

    マスカーニの歌劇「カヴァレリアルスティカーナ」は一幕もののオペラ。2組のカップルが織り成す愛憎劇。「よせばいいのに」が2つと「案の定」と「後の祭」が各1個で構成される。1890年5月17日ローマで初演。

    よせばいいのにいまや亭主持ちの昔の女にちょっかいを出す男。これまたよせばいいのにそれを女の亭主に告げ口する女。案の定男が復讐に走る。告げ口をした当人が教会で懺悔するものの後の祭。オペラのラストで人が死ぬというカルメンのパターン。イタリアはシチリア島での実話が元になったらしい。

    全一幕の中盤に間奏曲が置かれている。告げ口をした女が教会で懺悔するシーン。全曲でもっとも有名な部分。ソプラノかメゾソプラノが演じるこの女の名がサントゥッツァ。

    先般次女たちのオケの美術館コンサートでも演奏した。先代の35代もドイツで演奏し、届いたばかりのCDを改めて聴くとこれが絶品。次女たち36代も今後この曲に取り組んでゆく。

    娘たちにピッタリの曲。ヴァイオリンの繊細な音色で勝負する曲。彼女たちオケの本領はこういうところにある思わせる十八番。きっとこれから何度も聴ける。

    2012年8月 8日 (水)

    トレーナー

    私が所属していた頃、私の大学オケには、トレーナーがいた。通常の練習や合宿でお世話になった。弦楽器に3名、木管に1名、金管に1名、打楽器に1名だったと思う。常任指揮者のほかにプロの音楽家から定期的に指導を受けた。

    次女の高校オケにも、トレーナーがいる。いるどころではない。各楽器に1人いると申してよい。たとえば弦楽器はヴァイオリンには2名いる他、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのほか、こともあろうにハープにもいらして計6名。木管はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットに各1名で4名。金管楽器はトランペット、ホルン、トロンボーン、チューバに各1名で4名。打楽器には2名おられて、なんと総勢16名になる。

    費用は部費から支払われる。定期的に練習を見てもらうほか、合宿にも交代でおいでいただける。弦楽器で申せばパート練習の指導が中心だが、弦分奏や個人練習にもおつきあいいただくことになる。コンクール前は凄い密度の練習になる。

    我が家の長女6歳と次女4歳が、ヴァイオリンのレッスンを始めたとき私が探した先生が実は、ヴァイオリンのトレーナーだったりする。2008年と2010年には春のドイツ遠征のために、レッスンが1週間抜けることがあった。たくさんの土産話をしてもらいながら、「うちの高校においでよ」と勧められていた。

    次女のドイツ遠征は、こうした縁を積み重ねた頂点にある。

    2012年8月 7日 (火)

    語り草

    注文していた次女たちのドイツ公演のCDを聴いている。7月13日付けの記事「お盆のファンタジー10」の中で、届いたばかりのCDを皆で聞いたことになっているが、本当にその直前に我が家に届いた。画像はまだ届かないというのも事実で、DVDの納品は少し遅れるらしい。

    問題のスプリンクラー騒動のファリャも収録されている。第5曲「粉屋の踊り」の、7小節目からイングリッシュホルンのソロが始まる。全楽器が沈黙する中、イングリッシュホルンのカデンツァとも思える完全なソロの途中で事故は起きた。ソロが始まって4小節目だから冒頭から数えれば10小節目、4分の3拍子の2拍目裏から「シュー」という轟音が、ソロにかぶさってくる。三角帽子全曲の中でも1,2を争う聞かせどころ。イングリッシュホルン奏者にとっては見せ場。そんな中での大アクシデントだったことがモロに録音されている。それでも動揺することなく、14小節目までのソロを吹ききった乙女の胆力に感服せざるを得ない。それから第5曲が終わるまでずっと、けして小さいとは言えないノイズがずっと鳴っているものの、曲はぶれていない。

    第6曲「終幕の踊り」は、本当ではノイズが演奏にかき消されている。演奏後においては、こんどは喝采によってノイズがマスキングされている。当日私が現地で感じたままだった。

    あれから何度も聴いている。ドイツ公演のことばかりではなく、ドイツの出来事を思い出す。プログラムの最初から最後まで、思い出でいっぱい。どんなことがあってもずっと語り継いで行きたい。どんなことがあっても。

    今日から夏の合宿。

    2012年8月 6日 (月)

    内政の課題

    1871年普仏戦争をもってドイツ帝国が成立すると。ドイツをめぐる大きな戦争はひとまず収束する。巧みな外交により列強がお互いに手出しが出来ない状態を意図的に作り上げたからだ。一方ドイツ帝国内部にはさまざまな課題があった。世界史の教科書にはあまり書かれることはないがその後のドイツつまりブラームスの後半生の舞台を体感する意味ではこちらの方が重要だ。

    1. 軍事予算問題 列強の仲間入りを果たし、巧みな外交で欧州を手玉にとるには、精強な軍事力があって初めて現実的になる。そのための経費の捻出だ。「帝国憲法が規定する兵員数を守る限り、軍事予算の制定に国会の承認を必要としない」という法律を成立させた。軍部暴走の遠因を作ったとされている。数少ないビスマルクの失政と評価する向きもある。
    2. 文化闘争 アルプスの南にあって遠隔操作のように小さくない影響力を行使するローマ教皇との対立。時の教皇ピウス9世は極端な保守主義者。自由主義、資本主義、セ自然科学を全て否定するほど。プロテスタントの高位聖職者はドイツ政府が任命するのにカトリックは野放しされており、事実上の内政干渉としてカトリックの弾圧に走る。ピウス9世の崩御まで根本的な関係改善が出来なかった。
    3. 社会主義闘争 ウイルヘルム1世暗殺未遂事件を端緒に、社会民主主義を弾圧に走る。治安維持法を設定し社会主義者を検挙する。評価が割れる施策だが、一方で下級労働者の保護も取り入れる。彼らを与党支持者に取り込む意図は必ずしも成功しなかったが、世界に先駆けて社会保険3法が成立した。「労災保険法」「健康保険法」「老齢年金法」である。

    2012年8月 5日 (日)

    ポムメルン

    シェーンハウゼンで生まれたビスマルクは、生後1歳のとき、クニープホフに一家で移住する。クニープホフは、現ポーランド領奥ポムメルン地方にある寒村だ。ベルリンの北西およそ200kmの位置。現在の都市でいうとノヴォガルドの近郊だ。

    ポムメルン地方はまたの名をポメラニアという。ポメラニアンという犬の原産地で名高い。現在のドイツとポーランドの国境地帯で、すぐ北側にバルチック海がある。古くから琥珀の産地であったが、厳しい気候でも知られている。オーデル川をはさんだ西側は前ポムメルンと呼ばれる一方で、東側が奥ポムメルンと呼ばれている。ドイツ領になっているのはメクレンベルクフォルポムメルンという州になっている。「フォル」ポムメルンは「Vor」で、これが前を意味する。

    プロイセンの首都ベルリンに近い方が前で、より遠い方が奥という位置関係になっている。日本にも都との位置関係で「前」「後」あるいは「前」「奥」という連立地名になっているケースを頻繁に見かける。たとえば東北地方には「陸前」と「陸奥」があり、その間に「陸中」が挟まれている。

    2012年8月 4日 (土)

    シューンハウゼン

    ビスマルクの本名は長い。Otto Eduard Leopord von Bismarck-Schonhausen と綴る。末尾に現れる「Schonhausen」の「o」はウムラウトする。実はこれが地名である。「美しいふるさと」くらいの意味。ベルリンの真西およそ100kmの位置にシュテンダール(Stendal)という街がある。この街の東側およそ10kmをエルベ川が南から北に流れている。ブラームスの故郷ハンブルクから見るとおよそ250km上流に相当する地点となるが、まさにその東岸にシューンハウゼンの街がある。そこがビスマルクの故郷だ。現代の道路地図で見る限りかなり小さな街。

    以前記事で、ユンカーはエルベ川東岸に見られる大土地所有の貴族だと書いた。ビスマルク家もユンカーなので、その故郷はエルベ川より東に決まっているのだが、ギリギリだった。

    ビスマルクは1845年に家督を継いでから農場を経営した。シューンハウゼンの位置は絶妙な位置だ。ハーヴェル川を使えばベルリンとも水運でつながっている。4年間の農場経営ののち1849年に下院に初当選をはたす。

    2012年8月 3日 (金)

    プロイセンの落日

    昨日「ドイツ統一」の記事を発信したばかりだというのにこんなタイトルの記事を書かねばならないこと自体が切ない。ドイツ帝国がプロイセンの主導で成立したことは明らかで、どんなへそ曲がりもプロイセン抜きでドイツ統一が達成できたとは言わないだろう。プロイセン王がドイツ皇帝になり、プロイセン宰相がドイツ帝国宰相を兼務したのだ。

    ブラームスは天王山たる普仏戦争に志願したいとまで思い、その勝利により統一ドイツの誕生とウイルヘルム1世の即位を喜んだ。

    宰相ビスマルクはウイルヘルム1世とは分かり合えていたし、バイエルンなどの有力国に出し抜かれる心配もしていなかったが、どうも議会とは折り合いを欠いた。プロイセンではなくドイツ帝国議会だ。反カトリックや反社会主義の政策を推し進める一方で、社会保障制度やインフラの整備を行ったが、それはもうプロイセンではなくドイツの内政だった。

    そして1890年のビスマルク失脚によってさらに加速する。ビスマルクはプロイセン宰相であることが第一で、ドイツ宰相を兼務していたのだが、ビスマルク以降ドイツ宰相がプロイセン宰相を兼務するようになる。何よりもプロイセン出身でないものがドイツ宰相に就任することも起きてくる。

    2012年8月 2日 (木)

    鏡の間

    1871年普仏戦争に勝利したプロイセンは過激なことに、ウイルヘルム1世のドイツ皇帝への即位式典を、パリ・ベルサイユ宮殿で挙行する。会場になったのが鏡の間だ。フランス人にとっては屈辱的だ。普墺戦争の敗者オーストリアに対する寛大な措置とは雲泥の差である。アルザス・ロレーヌ地方の併合と共に大きな遺恨となる。

    時はめぐり1918年第一次世界大戦の講和条約が、パリ・ベルサイユ宮殿で締結された。世に言うベルサイユ条約だ。締結された会場がまたしても鏡の間だった。これは歴史の偶然ではなく、明らかな仕返しだ。

    このときドイツに課された賠償金は、当時のドイツのGDPの20年分とも言われる大金だ。この過酷な戦後処理が第二次世界大戦の原因とも指摘されている。

    2012年8月 1日 (水)

    国葬じゃない

    個人の葬儀を国の名前で取りおこなうことか。ドヴォルザークの葬儀は国葬だった。ところが長男ヘルベルトが喪主を務めたビスマルクの葬儀は皇帝の参列もあった上に、万単位の人が弔問に訪れたのだが、国葬ではなかった。国葬を申し入れた宮廷に対し遺族が丁重に辞退したとされている。大人の事情もあったと見る。

    墓碑に刻まれた言葉。

    「我が皇帝ウィルヘルム1世に忠実なドイツ帝国の臣」

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      はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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