プロイセンの落日
昨日「ドイツ統一」の記事を発信したばかりだというのにこんなタイトルの記事を書かねばならないこと自体が切ない。ドイツ帝国がプロイセンの主導で成立したことは明らかで、どんなへそ曲がりもプロイセン抜きでドイツ統一が達成できたとは言わないだろう。プロイセン王がドイツ皇帝になり、プロイセン宰相がドイツ帝国宰相を兼務したのだ。
ブラームスは天王山たる普仏戦争に志願したいとまで思い、その勝利により統一ドイツの誕生とウイルヘルム1世の即位を喜んだ。
宰相ビスマルクはウイルヘルム1世とは分かり合えていたし、バイエルンなどの有力国に出し抜かれる心配もしていなかったが、どうも議会とは折り合いを欠いた。プロイセンではなくドイツ帝国議会だ。反カトリックや反社会主義の政策を推し進める一方で、社会保障制度やインフラの整備を行ったが、それはもうプロイセンではなくドイツの内政だった。
そして1890年のビスマルク失脚によってさらに加速する。ビスマルクはプロイセン宰相であることが第一で、ドイツ宰相を兼務していたのだが、ビスマルク以降ドイツ宰相がプロイセン宰相を兼務するようになる。何よりもプロイセン出身でないものがドイツ宰相に就任することも起きてくる。
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