シュリーフェン
アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵。1891年に就任した参謀総長。モルトケの次の次にあたる。就任年をよく見てほしい。ビスマルクが既に退任した後だ。同盟関係を縦横にからませて、列強のどこもが、迂闊に戦争に踏み切れないというビスマルク体制が早くもほころびを見せ始める時期。ロシアとの同盟が更新されず、案の定露仏同盟が成立する。ドイツ帝国は東西両側に仮想敵国を抱える状況に至る。ビスマルクやモルトケが恐れ続けた二面作戦不可避の状況にあってどうしたら勝てるかを熟慮して考案されたのが、世に名高いシュリーフェンプランだ。生みの親シュリーフェン伯爵の名前にちなむ。
これによれば、さっさとフランスを叩き、その後に大軍を鉄道によって東部に転戦させるという発想。短期間でフランスを叩くにはあらかじめベルギー国境に大軍を横長に並べ、それらをパリに向かって一斉に進軍させる。パリを落としたら左に急旋回し、ライン川展開中のフランス陸軍主力を後方から襲撃する。この間およそ1ヵ月半と見積もった。後世の歴史家の間でさまざまな議論が起きているが省略。第一次大戦冒頭のベルギー侵攻は、シュリーフェンプランが下敷きになっている。
シュリーフェンプランの肝は、動員に要する時間の差。用意ドンで動員にかかった場合、ドイツはロシアより49日早く動員出来ると見込み、その間にフランスを叩いて、戦線を東に転じると言う発想なのだが高くついた。
サラエボ事件である。セルビアの首都でオーストリア皇太子が暗殺された。3週間後にオーストリアが宣戦布告したが、セルビア側につくロシアは、動員するぞという姿勢を見せてオーストリアを威嚇する。ビビッたのがむしろドイツ。シュリーフェンプランはロシアとの動員速度差が生命線だ。用意ドンから動員完了までの時間差が命なのに、用意ドンの前に先にロシアが動員を始める雲行きになったからだ。オーストリアとセルビア・ロシアの争いなのに、シュリーフェンプラン通りにあさっての中立国ベルギーに侵攻して第一次世界大戦を引き起こしてしまう。
最後にシュリーフェンは1833年2月28日の生まれ。ブラームスと同い年だと指摘する無理目なオチ。
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