ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 岩倉使節団 | トップページ | 遭遇の可能性 »

2012年8月28日 (火)

ビスマルクと岩倉使節団

1873年3月11日岩倉使節団はドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世に謁見した。一行はその翌日3月12日にビスマルクやモルトケと会っている。さらに3月15日にはビスマルク主催の宴に招かれている。そこでビスマルクは有名なスピーチをした。

「列強は自国の国益に反するときには国際法を守らない」という主旨の演説。「それを防ぐのはもっぱら軍事力だ」と説く。これには一同驚かされると同時に納得だ。国際法を学んで条約改正を目指しているのに、ビスマルクが「国際法なんぼのもんじゃ」と切捨てるのだから、目から鱗をはがされて、耳に水をかけられた感じ。

もとより英米仏の先進性に驚いたばかりの使節団だったから、勃興間もないプロイセンの方が手本として身近と感じ始めた。大久保、木戸、伊藤の3名はビスマルクへの傾倒を隠さない。

ビスマルクも驚いた。政府首脳がごっそり1年10ヶ月も国を離れていいのかと。実際使節団は首脳という表現があてはまる。日本には太政大臣三条実美が居るものの、「留守政府」と呼ばれていたほどだ。危急の際の連絡についてはあらかじめ定めがあったが、手紙は2ヶ月かかるし、急な帰国もままならないからビスマルクの心配もうなずける。

年表を取り出すといい。その留守政府は「地租改正」「学制改革」「徴兵令」など重要な案件を次々と実行した。初めての鉄道開通もこの期間に属する。千葉県習志野市で明治天皇をお迎えしての大演習もこの間だ。西郷隆盛も現地にいたらしい。

言わんこっちゃない。使節団と留守政府の微妙な意見のズレも発生し、これが遠く征韓論論争に発展したという指摘もある。

ビスマルクの直感は鋭いのだ。

« 岩倉使節団 | トップページ | 遭遇の可能性 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ビスマルクと岩倉使節団:

« 岩倉使節団 | トップページ | 遭遇の可能性 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ