ビスマルクと岩倉使節団
1873年3月11日岩倉使節団はドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世に謁見した。一行はその翌日3月12日にビスマルクやモルトケと会っている。さらに3月15日にはビスマルク主催の宴に招かれている。そこでビスマルクは有名なスピーチをした。
「列強は自国の国益に反するときには国際法を守らない」という主旨の演説。「それを防ぐのはもっぱら軍事力だ」と説く。これには一同驚かされると同時に納得だ。国際法を学んで条約改正を目指しているのに、ビスマルクが「国際法なんぼのもんじゃ」と切捨てるのだから、目から鱗をはがされて、耳に水をかけられた感じ。
もとより英米仏の先進性に驚いたばかりの使節団だったから、勃興間もないプロイセンの方が手本として身近と感じ始めた。大久保、木戸、伊藤の3名はビスマルクへの傾倒を隠さない。
ビスマルクも驚いた。政府首脳がごっそり1年10ヶ月も国を離れていいのかと。実際使節団は首脳という表現があてはまる。日本には太政大臣三条実美が居るものの、「留守政府」と呼ばれていたほどだ。危急の際の連絡についてはあらかじめ定めがあったが、手紙は2ヶ月かかるし、急な帰国もままならないからビスマルクの心配もうなずける。
年表を取り出すといい。その留守政府は「地租改正」「学制改革」「徴兵令」など重要な案件を次々と実行した。初めての鉄道開通もこの期間に属する。千葉県習志野市で明治天皇をお迎えしての大演習もこの間だ。西郷隆盛も現地にいたらしい。
言わんこっちゃない。使節団と留守政府の微妙な意見のズレも発生し、これが遠く征韓論論争に発展したという指摘もある。
ビスマルクの直感は鋭いのだ。
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