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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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2012年9月30日 (日)

クリミア戦争

オスマン帝国の弱化につけこんで南下政策を推進するロシアと、これを阻止せんとする英仏連合の戦い。黒海のクリミア半島が主戦場になったことに由来するネーミングだ。日本ではナイチンゲールの話とともに言及されることが多い。

結果は英仏連合の勝利。戦いの趨勢が決まった頃に連合国側として参戦したオーストリアに、ロシアが嫌悪感を示したことは当たり前だが、あまりの節操の無さに英仏両国での評判もガタ落ちした。これに対してプロイセンは断固中立を守った。フランスはロシア本土に派兵するために、フランス軍のプロイセン通過を要求したが、当然のごとくこれをはねつけて、ロシアに恩を売った。

開戦は1854年3月27日で、収束が1856年3月30日。よく見て欲しい。シューマン入院のおよそ3週間後に始まって、同地で没する3ヶ月前に終結したということだ。シューマン最後の闘病生活はクリミア戦争とほぼ重なっている。プロイセンは中立を守ったとはいえ、英仏露墺にトルコがしのぎを削った戦争だったのだが、シューマン夫妻やブラームスの伝記だけをいくら熱心に読んでも、クリミア戦争の実感は伴いにくい。

2012年9月29日 (土)

日本赤十字社

1888年の会津磐梯山の噴火において、日本赤十字社が為した救護活動は、世界初の平時救護と言われている。元々戦場における負傷兵たちの悲惨な扱いに接したデュナンの発想は、負傷兵隊の扱いの改善にあった。赤十字の根底にはそれがある。戦場における敵味方を問わぬ救護こそが真髄と言える。だから宣戦布告を伴わない戦争だったので、活動しなかったという奇妙な屁理屈も現れたと言う。ブラームスの生きた時代、あるいは少し前のナポレオンの時代は、戦争がその質を変化させた時代だ。国力対国力の総力戦になってゆく。火器の発達により将兵たちは過酷な環境にさらされ易くなる。戦時救護こそが活動の中心に据えられた理由はそこにある。

日本赤十字社1886年に国際赤十字に加盟した。翌年1887年には第4回総会に代表を送り込んだ。その翌年火山災害に対しての救護活動だったということだ。第4回総会の代表は日本陸軍で森鴎外の上司にあたる石黒某という人物。石黒はちょうどドイツ留学中だった部下・鴎外に通訳として同行を命ずる。

独逸日記で詳しく言及されるこの総会の様子は、同日記中のヤマ場。鴎外の大活躍によって日本代表は面目を保つ。極東から初参加の日本もなかなかやるわいという空気になった。

この第4回総会の会場はカールスルーエ。ブラームス愛好家には第一交響曲初演の地としてなじみがある。およそ一週間の会期中、本会議の合間をみて鴎外はバーデンバーデンに足を伸ばす。クララの別荘があったリヒテンタールに近い。当時バーデンバーデンは欧州に名の知られた大保養地だから、そばまで来たからついでに訪問するのは自然だ。

2012年9月28日 (金)

低温と長雨

ブラームスがクラカタウ山の大噴火を知っていたかもしれないと書いた。ブラームスの伝記にその痕跡が残っていやせぬかと真剣に探したが、どうやら有力候補を見つけた。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻88ページ。トゥーンに滞在中のブラームスが、低温と長雨にたたられた退屈しのぎに、ベルンのヴィトマン邸を訪れる機会が増えたとある。この夏の低温を話題にしたヴィトマンとブラームスのいくつかのやり取りが証言されている。

それは1887年の夏。1883年8月に大噴火したクラカタウの影響で、その後1888年まで世界中で異常低温が観測されたという事実と符合する。

2012年9月27日 (木)

炎涼の変

森鴎外「独逸日記」1886年7月12日の記述に出てくる表現。場所はミュンヘン。

6月が大変暑かったのに、ここ数日寒い日が続いているとし、大学の試験室では暖炉に火がいれられたとある。それでも気温摂氏18度だったという。ここ数日の「炎涼の変」は、稀な事態だと、地元民が語り合っていると書かれている。日本人の鴎外が、ドイツの夏を経験し、「朝晩は冷える」とか「雨が来ると冷える」などと申すなら驚くにはあたらないが、地元民が「今年は変」と語り合っていたというのだから信用できる。

話の流れは既に明らか。この異常気象は1883年8月27日のインドネシア・クラカタウの大噴火と関連がありはしないか。

日本では噴火翌年の夏が冷夏だった記録がある。その他独逸日記の1885年9月13日の記述によると、日本からの手紙が隅田川の水害に言及していることがわかる。この水害は同年7月1日から2日にかけて発生したもので、千住橋や吾妻橋が流されたという。噴火に伴う異常気象に見えなくもない。

2012年9月26日 (水)

クラカタウ

記事「大噴火」でブラームス存命中の噴火を列挙した。このうちインドネシアのクラカタウ火山の噴火は、ブラームスも知っていた可能性が高い。19世紀後半のこの時期は、世界の通信網が飛躍的に発展し、現代に連なる通信社が産声を上げた時代。ましてインドネシアは列強ひしめくアジア、オランダ東インド会社の足元での大噴火だった。近くを航行中の船舶も多く、まとまった情報が残っている。噴火がニュースとして世界を駆け巡った最初のケースだといわれている。

1883年。ブラームスは恒例の夏の避暑にヴィースバーデンを選ぶ。そのヴィースバーデンにブラームスが到着した5月20日に、インドネシアのクラカタウ火山が最初の噴火を始めた。大噴火はその年の8月27日午前10時2分にやってきた。噴煙は最高27000mに達し、琵琶湖を半分埋め立てるくらいの土砂が噴出した。地球の反対側のコロンビアで19時間後に衝撃波を観測した他、15日かけて地球を7周した。32時間後に津波がフランスの海岸に到達したという記録もある。直後に発生した津波の被害も含めた犠牲者はおよそ3万7千人。

翌年1884年秋以降世界中で記録的な低温が観測された。空気中のチリが原因でその後3年間、世界中の夕焼けが美しくなったという説もある。

2012年9月25日 (火)

新しいナンバー

9月11日の記事「さらば愛車」で、10年半連れ添ったマイカーを手放したと書いた。心の準備無き突然の別れだったからしばらくショックだった。結局新たに購入することにした車が一昨日納品された。子どもたちが小さかった頃に比べれば家族のドライブというニーズは皆無だが、その代わり駅への送迎というバカにならないニーズが発生している。その10分ほどのコミュニケーションを大切にしたいということもあって、購入に踏み切った。

10年半前にクルマを買ったときには、無かった楽しみもついてきた。

  1. iPodの接続端子がついていること。10年半前はまだだめだった。私のiPodを持込めば車内でブラームス聴き放題になる。
  2. とうとうETCを装備。

そしてそして本題。車両登録ナンバーが任意で選べる。昔は有料だったが今は無料。任意の4ケタの数字がほぼ選べると思っていい。私が申告したナンバーも選択可能ということで願いがかなった。ナンバープレートを撮影してアップしたいくらいの喜びだが、ぐっとこらえた。このはしゃぎっぷりを見れば読者諸賢には想像がつくことと思う。

2012年9月24日 (月)

オーケストラの輪切り

昨日、次女の高校オケが福祉施設で演奏会を開いた。敬老の集いにアンサンブルをお届けというニュアンス。いつもと少し違うのはその内容。オーケストラの15のパートが持ち時間3分で、アンサンブルを披露した。普段「さんぽ」に乗せて楽器紹介をしているのだが、本日はさらに深くおのおのの楽器たちに目を凝らすという趣向。

聴衆は車椅子のお年寄りばかり50人くらいおられたかもしれない。次女たち高校生がそれぞれに趣向を凝らしたあっという間の1時間。最初緊張していたお年よりたちが時と共にリラックスして行くのがわかる。拍手の厚みが次第に増してゆく。

先頭は9名のチェリストによるアンサンブル。弾く方も聴く方も緊張気味。トロンボーン・チューバの「グリーンスリーヴス」の芳醇な和音で気分もほぐれてきた。コントラバス5本による「花」が、とても良かった。親しみ深い旋律の後ろで凝った伴奏をしている。大きな楽器を軽々と操る姿、胸熱だ。

初心者が多いと聞いていたファゴットは格別だった。あまり知られていない作曲家の知られていない曲をファゴット3人でアンサンブルだが、この楽器の特性が手際よく紹介される内容で、聴き応えがあった。どうかなあと思っていたら、最前列の方から「ありがとう」と声がかかる。やはり伝わっているんだと感心。トランペット、クラリネット、オーボエ、フルートなどアンサンブルの質の高さはさすが。ホルン5人によるビートルズ「ミッシェル」も、コクがあってよかった。そして料理番組のメロディをアレンジしたパーカッションで最高潮に達した。ボウルやシャモジ、包丁とまな板を楽器がわりに用いたコミカルな演奏。エプロンをつけて入場しただけで「かわいい」という声がかかっていた。

次女たちセカンドヴァイオリンは、そのバカ受けのパーカッションの後だから心配したが、杞憂だった。次女堂々たる弾きっぷり。なんだか嬉しくて直視できなかった。「キラキラ星の主題による変奏曲」というチョイスもよかった。何と言っても参加団体の中では唯一の暗譜演奏に痺れた。聴衆のお年寄りたちへのというよりは、オケの仲間へのまたとないアピールとも映った。

どのパートも演奏中は濃密なアイコンタクトの応酬が見られた。あわせることの喜びに満ちた演奏の雰囲気はなぜかお年寄りたちに伝わっていたと思う。司会を含む全体の進行は相変らず美しい。そのあたりの手際も鑑賞の対象でさえある。

ラストは、ドイツでもやった「ふるさと」。少々横長のスペースに全員が並んでの演奏。指揮者の合図で皆が歌った。涙を流す人もいた。演奏後思いがけずあちこちから「アンコール」の声がかかる。片方に固まっていた歌唱隊を均等に振り分けて再度「ふるさと」。カードの贈呈、写真撮影など笑顔の時間が続く。

最高齢の方が103歳だった。そして82歳と98歳の方2人が、なんとなんとなんと、次女たちの通う学校のOGだった。濃密な濃密な1時間を過ごし、いよいよモードはコンクールへと切り替わる。またとないエネルギーを注入された貴重な体験。

2012年9月23日 (日)

大噴火

記事「ブラームスと火山」で、ブラームスとイタリアと火山の接点を無理やりクローズアップした。ブラームスが生きていた間、ヨーロッパ以外では、何度か大噴火があった。火柱が上がって観光客が見物したという程度ではなくて、人が死んだりするほどの噴火。

  1. 1845年 コロンビアのネバド・デル・ルイス山。1985年の噴火で2万数千人の死者を出したことでも知られるが、その前の噴火が1845年だった。
  2. 1850年 メキシコのエルチチョン。1982年の大噴火で噴煙が27000mに達し、その後の世界的な低温気候をもたらしたが、その前の噴火が1850年だったという記録がある。
  3. 1851年 カリブのフランス領マルティニク島のプレー。1902年5月7日!!に3万人の犠牲者を出したことで知られるが、その前の噴火が1851年だった。
  4. 1883年 インドネシアのクラカタウ。その後およそ5年世界は低温に見舞われた。
  5. 1888年 福島磐梯山。

カフェで新聞に隈なく目を通したブラームスだから、クラカタウの噴火を知っていた可能性がある。噴煙が成層圏にまで達するような噴火の場合、微細な噴出物はおよそ4週間で世界に拡散するとされ、その後数年気温が下がるから、たとえ噴火を知らなくても冬に寒い思いをしていることは確実だ。

2012年9月22日 (土)

海峡

陸によって狭められた海くらいの定義でよいのだろうか。島国日本にはたくさんある。欧州ではジブラルタル海峡、ダーダネルス海峡、英仏海峡などが名高い。

ブラームスは友人たちのさんざんの招きにも関わらず英国の地に渡ることを拒んだ。あれこれと理由が憶測されている。船に乗るのが嫌だったからという理由がまことしやかに語られていることも多い。昨日の記事「ブラームスと火山」を今一度ご覧いただきたい。ブラームスは最後のイタリア旅行の際シシリア島を訪れているが、このときナポリから船に乗った。ナポリからシチリアのどの港に行くにしても最低400kmある。

英仏海峡は最も広いところでもおよそ250kmで、もっとも狭いドーヴァー海峡ともなるとわずか34kmだ。シシリアに渡るのに400kmの船旅を選んだばかりか、船上で大いに楽しんだと証言されていることから、英国に渡らなかった理由に「船嫌い」を想定するのはやや不自然だ。

2012年9月21日 (金)

ブラームスと火山

ドイツには活火山が無い。だからブラームスは活火山を見たことが無いかというとそうでもない。生涯8度の旅行を企てたイタリアは欧州屈指の火山国だ。

まずはブラームスがしばしば訪れたナポリにはポンペイのエピソードで名高いヴェスヴィオ火山がある。1880年には「フニクリフニクラ」で有名な登山電車が開通している。残念ながらブラームスがこれに乗車したという記録に遭遇できていない。この登山電車が破壊された1944年の噴火以降活動を止めているが、ブラームス存命時はれっきとした活火山だった。

ブラームスは1893年最後のイタリア旅行でシチリア島を訪問している。このときの行程はナポリから船だった。シチリア島の北に点在するエオーリエ諸島を縫って進む航路だから、同諸島の中のストロンボリ島にあるストロンボリ火山やヴルカーノ島のヴルカーノ火山を見たことは確実だ。前者ストロンボリ火山は常時小規模な活動を繰り返しており、地中海の灯台の異名がある。後者ヴルカーノ火山は1890年に噴火しており、ブラームスはその記憶もなまなましい時期の旅行ということになる。

さてこのときの旅の目的地シチリア島にはエトナ火山がある。記録に残るだけでも紀元前7世紀から今日まで180回以上の噴火を数え、20世紀以降でも80回を超えている欧州最大の火山だ。1893年ブラームスとイタリアに同行したヴィトマンは、ブラームスがエトナ火山の火柱に感動した様子をハンスリックに書き送っている。

2012年9月20日 (木)

なぜクラシック

野球の世界大会のことを何故「ワールドベースボールクラシック」というのだろう。最後の「クラシック」が判らない。この疑問が昨日の記事のキッカケだった。クラシックの作曲家総出で繰り広げられる草野球の大会というイメージだ。

大好きなブラームスをラストバッターで二塁手にしたところが、味噌である。4番でエースなんかにしてしまっては、デリカシーを疑われかねない。雛祭りの右大臣と同じ発想だ。広大な守備範囲と職人芸が光るいぶし銀の二塁手でフィットする。ベートーヴェンと守る1、2塁間は、通称「くもの巣」で、遊撃手のシューマンと完成させるダブルプレイは芸術の域だ。小フライを追いかけてセンターのワーグナーと交錯するのも見所だし、バッハ投手のピンチには、マウンドに駆け寄る心遣いも必見だ。

さてさて実は今日から本物のWBC予選。ドイツは英国、チェコ、カナダとともに予選2組で総当たり戦を戦う。この中で1位だけが本大会に進むことが出来る。会場はドイツのレーゲンスブルク。がんばれドイツ。

2012年9月19日 (水)

WBCドイツ代表

WBCは野球の世界大会・ワールドベースボールクラシックの略称。紆余曲折はあったものの日本の出場も決まった。

日本はこれに2連覇し、野球の現ワールドチャンピョンだ。ブログ「ブラームスの辞書」では、日本の3連覇を阻止すべく、ドイツが大会に参戦するという極秘情報を独自にキャッチした。以下にスカウティングレポートをお届けする。

  • 1番 ショート ロベルト・シューマン(デュッセルドルフ)
  • 2番 サード フェリクス・メンデルスゾーン(ライピチヒ)
  • 3番 センター リヒャルト・ワーグナー(バイロイト)
  • 4番 ファースト ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ボン)
  • 5番 ライト リヒャルト・シュトラウス(マイニンゲン)
  • 6番 指名打者 ゲオルグ・フィリップ・テレマン(ハンブルク)
  • 7番 レフト カルル・マリア・フォン・ウェーバー(ミュンヘン)
  • 8番 キャッチャー ゲオルグ・ヘンデル(ハレ)
  • 9番 セカンド ヨハネス・ブラームス(ハンブルク)
  • P  ヨハン・セバスチャン・バッハ(ライプチヒ)

<守備>

父が投げ母が受けるといった感じの息のあったバッテリーだ。バッハ投手は球種、スタミナ、スピードを兼ね備えた本格派だ。ショート・シューマンとセカンド・ブラームスの併殺コンビは一見の価値がある。外野はオペラ組で固めた鉄壁の布陣だ。

<攻撃>

ワーグナー、ベートーヴェン、Rシュトラウスのクリーンナップは強力だ。出塁率のいい1,2番との連携で、爆発的な得点力を生み出す。弱点は左打者不在か。

2012年9月18日 (火)

「tranquillo」異聞

欧州各国のサッカーリーグが開幕するこの時期、長男は決まって選手名鑑を買い求めて、隅々まで熱心に目を通す。不意に私に質問をしてきた。「スイス人なのに名前がイタリアっぽい選手がいるけど?」という内容。

「スイスは、ロマンシュ語、ドイツ語、フランス語、イタリア語が公用語になっているから、イタリアっぽい名前の人がいても不思議じゃない」と答えて一件落着だったのだが、たとえばどんな名前と聞いた私に指し示した名前を見て、今度は私がぎょっとした。

<トランキッロ・バルネッタ>Tranquillo Barnetta

  • チーム名 ドイツブンデスリーガのシャルケ
  • スイス代表 ディフェンダー
  • 背番号27

カタカナで「トランキッロ」と書かれると判らないが、元のスペルを見て愕然とした。音楽用語の「Tranquillo」そのままだ。音楽用語では「静まって」と解される。ブラームスもしょっちゅう使っていた。音楽用語がそのまま人名に転用されている例は大変珍しい。

2012年9月17日 (月)

「tranquillo」考

イタリア語としての辞書的な意味ならば、「静かな」「おだやかな」「安らかな」「落ち着いた」「おとなしい」となる。問題はブラームス本人が、イタリア語としてのこうしたニュアンスにどこまで知悉していたかという点にある。既にドイツに定着していた音楽用語としてのニュアンスを優先し、イタリア語本来のありようを顧みなかった可能性は常に心にとどめておかねばなるまい。

ブラームスはトップ系で18箇所、パート系で36箇所合計54箇所で「taranquillo」入りの用語を使用している。このうちトップ系7箇所、パート系9箇所が「tranquillo」の単独使用である。

用例を見渡してまず気付くのは、これら54例のうちヴァイオリンソナタ第2番第2楽章冒頭を唯一の例外として、楽曲の冒頭には出現しないことだ。必ず楽曲の途中に置かれて、激してしまった音楽を冷ます機能として使われているとの推定が成り立つ。実際ダイナミクス記号との共存を調べると「mf」「poco f」との共存が各一例ずつある他は、p系との共存に特化している。mpとの共存も見当たらない。「fp」との共存一例を唯一の例外としてfやffとの共存を拒否している。

しかしながら一方で奇妙な現象も観察される。「taranquillo」の出現の直前とのダイナミクスの変化を調べると、予想に反してダイナミクスが減じられていないケースが多いのだ。これは必ずしも「激してしまった音楽の沈静」とは、ダイナミクスダウンとは直結しないことを意味する。

「tranquillo」における「静かに」とはダイナミクスだけを直接指図しているとは言えないということになる。ダイナミクスの増減であれば「crescendo」や「diminuendo」で事足りるのだから、わざわざ「taranquillo」を設置するにはそれ相応の意図があるのだ。「強い弱い」「大きい小さい」ではない何かを伝えたいと解したい。楽曲の冒頭には置かれないことと合わせて表情の変化や場面の転換を含む「静かさ」と考える。

2012年9月16日 (日)

文化祭コンサート

次女の通う高校の文化祭。オーケストラのコンサートがあった。

毎度毎度文化ホールにいっぱいの聴衆の前で演奏を披露した。ハチャトゥリアン作曲「仮面舞踏会」の「ワルツ」が初のお披露目だった。ちょっと上品過ぎた感じ。もっとおどろおどろしい雰囲気を強調してもいいかも。収穫はコンサートミストレスのソロを聴かせてもらったこと。短いソロだったけれどメリハリと情感のバランスが良くて惹き込まれた。訴えるものがある音色でブラ1のソロなんか弾かせてみたい。

ボロディンも商業祭に比べると4楽章の熟成が進んだ。いよいよコンクールまであと1ヶ月。ここから勝負の時。がんばって欲しい。

忘れてはならぬことは合唱団。オーケストラの一つ前の公演だったから場所取りをかねて聴かせてもらった。昨年の素晴らしい演奏はまぐれではないとわかった。また今年も出色の出来。人の声のハモリの美しさに改めて気づかされた。とりわけアカペラで歌われた「ふるさと」が圧巻。ドイツ公演のアンコールを思い出したが、そこはさっすが合唱団。表現の引き出しが半端ではない。女性ばかり30人のかもし出すハーモニーの奥行きにただただ脱帽。

次女はいつもの通り淡々とコンミスをガン見しながら弾いていた。指揮者の左膝前の位置が板についてきた。

2012年9月15日 (土)

カテゴリー森鴎外

ブログ「ブラームスの辞書」では、ブラームスの同時代としてビスマルクに光を当てる企画を進行中だ。ブラームスと同時代の資料として森鴎外の「独逸日記」に目をつけて調べているうちに、どうも鴎外にはまってしまった。過去に鴎外関連の記事がたまっている上に、現在備蓄中の記事の中にも鴎外に関連する記事が散見される。

思い切ってカテゴリー「420 森鴎外」を創設した。

これはある種の願掛け。鴎外の「独逸日記」は、ちくま文庫の「森鴎外全集」13巻に収載されているのだが、絶版になっている。古書店を覗くたびに気にかけているが、入手できない。必要の都度図書館から借り出しているのだが、何とか入手したい。

ドイツについての予備知識をある程度持ってから読むと、ひときわ面白くなる。こんな日記を20代半ばで書いてしまうなんて素晴らしい。漢文読み下し調のリズムが本当に心地よい。

2012年9月14日 (金)

ビスマルク特集100本

ドイツからの帰国直後から展開しているビスマルク特集は、ドイツの歴史をテーマにしている。必ずしも全ての記事がビスマルクに関連しているわけでもないのだが、ビスマルクの表札を掲げている状態。このビスマルク特集が昨日の記事で100本に到達した。

もともと私は歴史好きだった。亡き父のDNAだ。私が歴史に興味があると知った父は、小学校高学年からしょっちゅう歴史上のエピソードを細切れに話してくれた。中学高校と進むにつれて情報源が父の話から書物に移っていったが、原点は父の話。

小学生の頃父の話が面白くて何度もねだった。そんな求めに応じる父は無限のネタを持っているようだった。この歳になってドイツ史を調べていて、そんな日々を思い出している。

特集はまだ続く。

2012年9月13日 (木)

鴎外の命名

文豪・森鴎外は3男2女の計5名の子宝に恵まれた。

  • 長男 於菟 おと
  • 長女 茉莉 まり シューマン夫妻の長女Marieと同じ。
  • 次女 杏奴 あんぬ おそらくAnneだろう。
  • 次男 不律 ふりつ これはFritzに決まっているが夭折。
  • 三男 類 るい Louiだ。ドイツ語系ではLudwigになる。バイエルン王ルートヴィヒ2世を意識したか。王を悼む漢詩の中で王本人を「路易二世」と表現していることからもルートヴィヒとルイの関係には配慮されていたと考えるのが自然だ。

以上全て鴎外の命名。さらに長男・於菟の第一第二子も鴎外の命名。

  • 長男 真章 まくす ミュンヘン時代の恩師マックス・フォン・ペッテンコーファ由来か。
  • 次男 富 とむ Tomのことだ。Thomasの愛称形なのだが、トムはいささかドイツ人っぽくない。独逸日記に出てくるアメリカ人の友人に因んだものと思われる。鴎外は彼を「性質温和にして、言辞虚飾無し」と評している。トムが鴎外に身の上話をするシーンは感動的。自分は結核の家系だから、一生結婚しないと決めている。恋人はいるのだが、そう伝えたという。鴎外は、コッホ先生が結核菌を発見したし、あなたは今頑健だから、きっと大丈夫だよと慰めた。鴎外はその記憶が残っていたに違いない。
  • 長女 百合 Julie これは幻の命名。富(トム)が女児だった場合のスペア。シューマン夫妻の3女と同じ名前と見ていい。

男女ともに漢字をあててはいるものの、全部外国語の名前を当て字であらわしたものと判る。もしやと思うことがある。

長男・於菟のことだ。これは間違いなくドイツ語圏で人気の名前「Otto」にちなんだものだろう。彼は父鴎外がドイツ留学から帰国したおよそ2年後1890年9月13日に生まれている。鴎外が「おぉ。クララ・シューマンと同じ誕生日だ」と喜んだとは思えないが、最初の男の子つまり世継ぎの命名がいい加減だったということなど絶対にあり得ない。

当時世界一有名なドイツ人ビスマルクのファーストネーム「Otto」にあやかったのではないかと勘繰る。同年3月に宰相を退任してはいたものの、鴎外のドイツ留学期間にはずっとドイツ帝国宰相の座にあった。明治の軍医鴎外が、長男に鉄血宰相にちなんだ名前を選ぶのはかなり自然だと思う。

今日は9月13日、森鴎外の長男がクララ・シューマンと同じ誕生日だという苦心のこじつけネタ。

2012年9月12日 (水)

ドビュッシー

見ての通りのブラームス大好きブログだからドビュッシーはほぼ視界の外だ。学生時代に交響詩「海」を青息吐息で演奏した経験があるくらいの疎遠な作曲ということだ。その「海」の初版スコアの表紙に、北斎の富嶽三十六景から「神奈川沖浪裏」のモチーフが採用されているとのことで、日本の浮世絵にも造詣が深かったと聞いている。

東京のブリジストン美術館で「ドビュッシー、音楽と美術」と題した展覧会が開かれていて、何度も前を通っているうちに見たくなったので、足を運んだ。

157点とい展示品の量に圧倒された。肖像画はこのうち10品くらい。ドビュッシー本人が「音楽と同じくらい美術が好き」と語ったらしい。ドビュッシーが描いた絵でもあるのかと思っていたが、さすがにそれは無かった。高名な画家や美術コレクターと懇意にしていたり、絵画から作品のインスピレーションを得たりという具合に、作品と美術の関わりが濃密だったと解説されている。

ドビュッシー作品と美術の知識があればもっと楽しめたに違いない。

2012年9月11日 (火)

さらば愛車

思い起こせば9月8日。所用があって横浜までマイカーで出かけた帰り道、都内走行中にエンジンに異変。走行中にエンジンが停止する。エンジンブレーキがかかったようにガクンと車速が落ち、メーター類が全点灯。ハンドルが急に重くなる。後続の車に大迷惑をかけた。幸い2分ほどでエンジンがかかり路肩に移動。様子を見てまた発進したがしばらくして同じ症状。

午後2時頃都内大田区で最初のトラブル。一般道路の左端をゆっくりだましだまし走って市川市内のディーラーまで2時間半かかって辿り着いた。途中6回同じ症状が出た。

原因を調べてみるとエンジンにガソリンを供給するポンプのトラブル。かなり深刻なトラブルで修理費を見積もってもらったところ、結構な金額。思案した末に購入を決定。10年半乗った愛車との心の準備無き突然の別れだった。我が家の子どもたちの成長を見守って走った車だったから涙が出た。ドイツ旅行の時空港まで走ったのが最後の見せ場だった。

2012年9月10日 (月)

ローン

1903年に完成したドイツ帝国の装甲巡洋艦。第一次大戦で活躍した。プロイセンの政治家軍人、アルフレート・テオドール・エミール・フォン・ローン伯爵(1803-1879)に由来する。

プロイセン時代からビスマルクの信頼厚い政治家で、1859年から1873年の長きにわたりプロイセンの陸軍大臣を務めた。ビスマルクとともに軍制改革を推し進め、参謀総長モルトケの活躍を準備した功績は大きく、ビスマルク、モルトケとともにドイツ帝国成立の三傑に数えられる。日本ではビスマルクほどの知名度には達していないが、皇帝ウイルヘルム1世の覚えめでたい功臣だった。

ビスマルクは1862年のプロイセン宰相以来、1890年の退任までその地位にあったと思われがちだが、1873年1月から10ヶ月だけは、ドイツ帝国宰相に専念し、プロイセン宰相の座から離れていた。その間、プロイセン宰相の地位にあったのがローン伯爵だった。

2012年9月 9日 (日)

グナイセナウ

ビスマルクシャルンホルストと脱線承知の軍艦ネタが続いた。本日もまた軍艦ネタ。巡洋艦グナイゼナウは、1906年ブレーメンで完成したシャルンホルストの同型艦。グナイゼナウは例によってまたしても人名。1813年に戦傷が元で死亡したシャルンホルストの後継者だ。シャルンホルストとグナイセナウが姉妹艦であるのと同様、彼らは師弟関係だった。

ドイツ参謀本部の生みの親が、シャルンホルストなら、グナイゼナウは育ての親。1813年に始まったドイツ諸国民戦争を事実上指揮した。ナポレオンからすれば1806年に蹴散らしたばかりのプロイセン軍が、たった7年で別人のような精強な軍隊になっていたことを驚く。

1806年の敗因分析とナポレオン軍の弱点分析の影に創設間もない参謀本部の功績が大きい。弱点分析は、国民皆兵や火器の更新、戦術の徹底で補う。ナポレオン本隊との会戦を徹底的に避けるという戦法。ナポレオンの指揮下にないフランス軍をこまめにたたいては退却の繰り返しで、消耗戦に持ち込むという作戦。

彼の最大の勲功はワーテルロー。1815年エルバ島から脱出したナポレオンが起死回生を狙った会戦。フランス対英普蘭連合の戦いはフランスの壊滅的惨敗。英国のウエリントン将軍が名高い。このときグナイセナウはプロイセン軍副官として従軍したが小手調べ代わりのリニーの会戦で司令官が負傷したためにそれ以降指揮を代行した。リニーの会戦はプロイセンが退却したためにフランスの勝利という扱いになっているが、これでナポレオンはプロイセンが軍団を立て直せまいと読んだ。

3日後のワーテルロー本番では勝負どころでフランス軍の急所を衝いた。ウエリントンの英軍にはパリへ逃げ帰るナポレオンを追撃する余力はなく、グナウゼナウのプロイセンが追撃にあたったのに戦後の評価はウエリントンに比べて低かった。案の定戦後処理のウィーン体制では、メッテルニヒの巧妙な外交にしてやられプロイセンの意向は無視される。グナイゼナウは失意のうちに1831年に没する。

軍艦ネタを繰り返すようで、実はビスマルク-モルトケ体制を準備した英傑にさりげなく言及するという戦略。

2012年9月 8日 (土)

シャルンホルスト

ビスマルクと申せば何と言っても戦艦ということで、ブラームスと時代がズレることを承知で嬉々として脱線した。本日も脱線ついでの軍艦ネタだ。第二次大戦中の代表的な軍艦がビスマルクだったとすれば、第一次大戦を代表する巡洋艦がシャルンホルストだ。1905年にビスマルクと同じくハンブルクのブロームウントフォスの造船所で完成した。ビスマルクが鉄血宰相に由来するネーミングであるのと同様、シャルンホルストも人名だ。1934年建造の巡洋戦闘艦シャルンホルストもあるから紛らわしい。

Gerhard Johann von Scharnhorst(1755-1813)はハノーファーの小作人の出身だが、砲兵科を皮切りに知力一本で出世した人。当時のプロイセン陸軍は精強を誇ったフリードリヒ大王時代の遺産を食い潰し、お世辞にも強いとはいえなくなっていた。兵站幕僚として迎えられた彼は貴族に列せられ改革に着手する。改革活動の母体とするために1802年に陸軍会を立ち上げた。陸軍会は次々と改革案を答申する。

  1. 国民皆兵制の採用
  2. 道徳教育に重きをおいた士官教育
  3. 参謀本部の常設

これら全てが直ちに実現したわけではない。事実1806年にはナポレオンに蹂躙される。シャルンホルストの献策はことごとく退けられ、自身も従軍し孤軍奮闘の後に捕虜になる。捕虜交換で釈放されて東プロイセン軍の参謀に迎えられる。ナポレオン戦争の戦後処理を定めたティルジット条約締結後、シャルンホルストの改革が本格化する。

軍事省の創設がその代表例で、その中の第二局こそが参謀本部の前身となる。彼自身は出自が災いしてか初代軍事大臣に任命されなかったが、クラウセヴィッツやグナイゼナウなどの優秀な部下を育んだ。

1812年に始まるナポレオンのロシア遠征後1813年3月に国民皆兵制度が正式に発令された。同時に参謀本部も発足したが、国外はおろか国内でも無名の存在にとどまった。

彼の蒔いたタネは後に巨大な収穫をもたらす。海軍が2度にわたって軍艦の名前に採用するだけのことはあるのだが、彼本人1813年3月28日にプラハで客死してしまう。

2012年9月 7日 (金)

ゴート人の港

戦艦ビスマルク初陣の際、出航に先立って「ムシデン」が演奏された話で思い出した。

出航の港は現ポーランド領グディニアだ。グダニスクの北北西およそ40kmの位置にある。ドイツ海軍の誇る巨艦ビスマルクは、ハンブルクで竣工した後、キール運河を抜けて東海を航行してグディニア周辺で訓練を行った。大軍港キールやヴィルヘルムスハーフェンではなかった。英国艦隊と雌雄を決するためには北海あるいは大西洋に出ねばならないから、素人目には無駄な動きにも見えるのだが、ちゃんと理由があった。キールやヴィルヘルムスハーフェンでは、英国空軍の空爆の射程に入ってしまうということだ。キールよりもおよそ800km東のグディニアまで、英国の爆撃機が飛んで来れないからだ。

さてこのグディニア、ポーランド語だ。プロシア領となって以降、一時グディンゲンと呼ばれたものの、1939年ナチスのポーランド侵攻以降、ゴーテンハーフェンと呼ばれていた。「Gotenhafen」と綴る。ビスマルクの訓練のわずか2年前だ。「ゴート人の港」の意味でよかろう。スウェーデン南部からポーランドにかけてのバルチック海沿岸は、ゲルマン系の氏族ゴート族の故地といわれている。イェーテボリやゴトランド島などの地名に痕跡として残っているのだが、ゴーテンハーフェンの命名もゴート人を意識したものと思われる。

2012年9月 6日 (木)

夏の会話

次女の夏休みが終わった。帰宅する次女を駅まで迎えに行ったとき、嬉しいことがあった。以下そのやりとり。

次女 「パパ、ヴァイオリン2本、チェロ、ヴィオラそれからピアノの編成で何かいい曲ない?」

私 「それってピアノ五重奏じゃん」(舐めてんのか)

次女 「そうそうピアノ五重奏。シューマンのピアノ五重奏って知ってる?」(やべ、知ってたか)

私 「ああ、知ってるよ」(誰に口きいてんだ)

次女 「もしかして、うちにCDある?」(恐る恐る)

私 「もちろん」(どや顔)

・・・・・・

私 「急にどしたの?」

次女 「友達がシューマン薦めてくれたんだけど、パパのおススメは何?」

私 「・・・・・・」(にやけ顔)

次女 「もしかしてブラームスにもピアノ五重奏ってあるの?」

私 「CDもスコアもパート譜もあるよ」(ったりめーだろ)

次女 「それってお薦め?」

私 「俺に訊くな」

・・・・・・・

次女 「シューベルトもある?」

私 「鱒っていうんだけど、セカンドの代わりにコントラバスになってる」

次女 「セカンド抜きだと出番無いからNG」

私 「仲間と弾くってか」

次女 「うん、パパ何か弾いたことある?」

私 「ブラームス、シューマン、ドヴォルザークを部分的に仲間と合わせたくらい」「フォーレやソシュタコやボロディンもあるけど、アマチュア立ち入り禁止らしい」

・・・・・

その夜次女は遅くまでかかってブラームス、シューマン、ドヴォルザークを聴いたようだ。このワクワク感はいったいどこから来るのだろう。

次女、今日で17歳。

2012年9月 5日 (水)

甲板上のムシデン

ハンブルクを出港する際、決まってシュヴァーベン民謡「ムシデン」が、演奏された話は既にしておいた。その周辺を調べていてお宝情報にめぐり合った。

ドイツ海軍では、大型戦闘艦が長期航海に出る際軍楽隊が甲板上で「ムシデン」を演奏する伝統があったらしい。ハンブルク港だけでなく各地の軍港で、大型艦出航の際のセレモニーになっていたようだ。

昨日話題にした戦艦ビスマルクの初陣はライン演習作戦だった。敵を欺くために「演習」の名前が紛れ込んでいるが、英国の海上通商路の分断という任務をおびていた。1841年5月18日正午、現在のポーランド領グディニア港を出航する際、甲板上でムシデンが演奏された。大型戦艦ビスマルクの行動は最高の軍事機密だったが、突然のムシデンの演奏を聴いて単なる演習ではないと多くの乗組員が悟ったという。

この後ノルウェイのベルゲンに寄港したのち、ライン演習作戦に臨み、同月27日には沈没することとなるから、このときのムシデンが「最後のムシデン」だった。

2012年9月 4日 (火)

戦艦ビスマルク

ビスマルク特集を展開する上で避けて通れぬネタ。ブラームスの生きた時代と重ならないことを承知の上ではずせない話題を一つ。

第二次世界大戦のドイツ海軍唯一の戦艦の名前はビスマルクになっている。もちろん鉄血宰相ビスマルクに由来する。ハンブルクのフォス造船所で完成し、進水式にはビスマルクの孫娘が洗礼親になったという。欧州では軍艦に限らず、艦船の進水にあたり、聖水を振り掛けて洗礼の言葉をかける女性が一般公募されるが、さすがに戦艦ビスマルクでは一般公募されずに鉄血宰相の孫が呼ばれたようだ。

英国海軍との海戦の結果、1941年5月27日10時39分にフランスノルマンディーのロレアンの真西およそ100kmの場所で沈没した。日付を良く見て欲しい。太平洋戦争の始まる前だ。

2012年9月 3日 (月)

ホームデビュー

今春のドイツ旅行は、次女の演奏会を追いかけるツアーだったのだが、いろいろな余禄もついてきた。その中で最大の楽しみはサッカー。ドイツブンデスリーガの試合をニュルンベルク滞在中に観戦することが出来た。地元ニュルンベルクが、ホーム・イージークレディットシュタディオンにバイエルンミュンヘンを迎え撃つバイエルンダービーだった。下馬評は圧倒的にバイエルンミュンヘン有利で、0-3くらいとも言われていたのだが、0-1と健闘した。何よりも会場の雰囲気とサポーターの熱気に圧倒された。

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今年、日本代表MF清武弘嗣が、そのニュルンベルクに移籍したので、何かの縁ということで応援することにしていた。一昨日は彼のホームデビューとなる一戦があった。相手は昨シーズンまで香川真司が在籍していたドイツチャンピオンのボルシア・ドルトムント。やはり下馬評は芳しくなかったが、何と1-1で引き分けた。ニュルンベルクの得点をコーナーキックからアシストしたのが、清武だったが彼がコーナーキックを蹴ったのがこの場所。

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我々が当日座った席の近くで、あの日バイエルンのオランダ代表ロッベンがコーナーキックを蹴りに来た角だった。試合のハイライト画像を見ているとあの日を思い出す。

今年応援しようと心に決めているグロイターフュルトは、開幕戦をバイエルン相手にホームで0-3で落したものの、次のアウェーでマインツに1-0と勝利してくれた。

2012年9月 2日 (日)

大ロシア

ビスマルクがプロイセン宰相に就任した頃、ドイツ連邦の中でこそ絶対優位の動員力を誇ったプロイセンだったが、当時の列強と比べると見劣りした。プロイセン陸軍20万に対し、オーストリア32万、フランス66万だった。ましてやロシアは100万といわれていた。統一を実現させたところで、これら列強と正面衝突しては分が悪い。ドイツの統一に際して、これら列強が自国の利益を公然とごり押しして来るに決まっている。

プロイセンの屋台骨を支えたビスマルクとモルトケは、意外に冷めた関係だったのだが、安全保障の基本認識にかけては一致していた。すなわち「ドイツは周囲を強大な陸軍国に囲まれながら、地理的な障壁が無い」という一点。そこから導き出される結論は、「けして同時に2カ国以上を相手に戦ってはならない」という家訓。これこそがプロイセン外交の基礎。

プロイセン外交はこの一点を肝に銘じていつも動いていた。もっとも根幹にあったのが、「対露友好」だ。クリミア戦争で中立を貫いて以来、一貫して守られている。「大ロシアを敵に回さない」ことこそが生命線だった。だからこそオーストリアやフランスを心置きなく戦えた。「凍らない港」を求めるロシアの南下政策をこれ幸いと利用する。バルカン半島の南下を黙認することで、自国の安全を確保した。

プロイセン、ひいては後のドイツ帝国が恐れ続けた大ロシアだった。日露戦争での日本勝利は、ドイツのみならず欧州中を驚かせるニュースだった。

2012年9月 1日 (土)

後進ヨーロッパ

岩倉使節団の報告書「米欧回覧実記」を文庫サイズでコンパクトに解説してくれている好著が「岩倉使節団『米欧回覧実記』」だ。岩波現代文庫のグッドジョブ。

この本の部立てに出現するのが「後進ヨーロッパ」という言い回し。欧州の列強、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを分類している。英仏が先進ヨーロッパで、独露が後進ヨーロッパだというわけだ。使節団の訪問もこの順番だし、報告に割かれている紙幅もこの順だから一応の説得力。

使節団の渡航は1872年だから普仏戦争の決着後。プロイセンがフランスに勝ってドイツ帝国が成立した後ではあるのだが、フランスはドイツより上と見られている一方、1866年普墺戦争に敗れたオーストリアは列強扱いされていない。すでに神聖ローマ帝国の消滅から半世紀、ハンガリーとの二重帝国としてようやく命脈を保っているに過ぎないという評価の反映だろう。オーストリアは、オランダ、ベルギー、イタリアあたりと同等の扱いだ。

それでいてなお、使節団はドイツに感化された。英米は先に進みすぎていて参考にならない。フランスは実はドイツに抜かれた疑惑の渦中。列強が揃う欧州に後から乗り込んで、実力で這い上がったドイツに共感したことは間違いない。議会があるとはいえ、皇帝の力は強く、何よりも反革命・保守のビスマルクを筆頭に、「上からの革命」を推し進める姿に、日本の進むべき道を見たとされている。

その後半世紀もたたないうちに、日本は後進ヨーロッパのもう片方ロシアと戦うことになる。

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