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2012年9月 2日 (日)

大ロシア

ビスマルクがプロイセン宰相に就任した頃、ドイツ連邦の中でこそ絶対優位の動員力を誇ったプロイセンだったが、当時の列強と比べると見劣りした。プロイセン陸軍20万に対し、オーストリア32万、フランス66万だった。ましてやロシアは100万といわれていた。統一を実現させたところで、これら列強と正面衝突しては分が悪い。ドイツの統一に際して、これら列強が自国の利益を公然とごり押しして来るに決まっている。

プロイセンの屋台骨を支えたビスマルクとモルトケは、意外に冷めた関係だったのだが、安全保障の基本認識にかけては一致していた。すなわち「ドイツは周囲を強大な陸軍国に囲まれながら、地理的な障壁が無い」という一点。そこから導き出される結論は、「けして同時に2カ国以上を相手に戦ってはならない」という家訓。これこそがプロイセン外交の基礎。

プロイセン外交はこの一点を肝に銘じていつも動いていた。もっとも根幹にあったのが、「対露友好」だ。クリミア戦争で中立を貫いて以来、一貫して守られている。「大ロシアを敵に回さない」ことこそが生命線だった。だからこそオーストリアやフランスを心置きなく戦えた。「凍らない港」を求めるロシアの南下政策をこれ幸いと利用する。バルカン半島の南下を黙認することで、自国の安全を確保した。

プロイセン、ひいては後のドイツ帝国が恐れ続けた大ロシアだった。日露戦争での日本勝利は、ドイツのみならず欧州中を驚かせるニュースだった。

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