グナイセナウ
ビスマルク、シャルンホルストと脱線承知の軍艦ネタが続いた。本日もまた軍艦ネタ。巡洋艦グナイゼナウは、1906年ブレーメンで完成したシャルンホルストの同型艦。グナイゼナウは例によってまたしても人名。1813年に戦傷が元で死亡したシャルンホルストの後継者だ。シャルンホルストとグナイセナウが姉妹艦であるのと同様、彼らは師弟関係だった。
ドイツ参謀本部の生みの親が、シャルンホルストなら、グナイゼナウは育ての親。1813年に始まったドイツ諸国民戦争を事実上指揮した。ナポレオンからすれば1806年に蹴散らしたばかりのプロイセン軍が、たった7年で別人のような精強な軍隊になっていたことを驚く。
1806年の敗因分析とナポレオン軍の弱点分析の影に創設間もない参謀本部の功績が大きい。弱点分析は、国民皆兵や火器の更新、戦術の徹底で補う。ナポレオン本隊との会戦を徹底的に避けるという戦法。ナポレオンの指揮下にないフランス軍をこまめにたたいては退却の繰り返しで、消耗戦に持ち込むという作戦。
彼の最大の勲功はワーテルロー。1815年エルバ島から脱出したナポレオンが起死回生を狙った会戦。フランス対英普蘭連合の戦いはフランスの壊滅的惨敗。英国のウエリントン将軍が名高い。このときグナイセナウはプロイセン軍副官として従軍したが小手調べ代わりのリニーの会戦で司令官が負傷したためにそれ以降指揮を代行した。リニーの会戦はプロイセンが退却したためにフランスの勝利という扱いになっているが、これでナポレオンはプロイセンが軍団を立て直せまいと読んだ。
3日後のワーテルロー本番では勝負どころでフランス軍の急所を衝いた。ウエリントンの英軍にはパリへ逃げ帰るナポレオンを追撃する余力はなく、グナウゼナウのプロイセンが追撃にあたったのに戦後の評価はウエリントンに比べて低かった。案の定戦後処理のウィーン体制では、メッテルニヒの巧妙な外交にしてやられプロイセンの意向は無視される。グナイゼナウは失意のうちに1831年に没する。
軍艦ネタを繰り返すようで、実はビスマルク-モルトケ体制を準備した英傑にさりげなく言及するという戦略。
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