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2012年9月 8日 (土)

シャルンホルスト

ビスマルクと申せば何と言っても戦艦ということで、ブラームスと時代がズレることを承知で嬉々として脱線した。本日も脱線ついでの軍艦ネタだ。第二次大戦中の代表的な軍艦がビスマルクだったとすれば、第一次大戦を代表する巡洋艦がシャルンホルストだ。1905年にビスマルクと同じくハンブルクのブロームウントフォスの造船所で完成した。ビスマルクが鉄血宰相に由来するネーミングであるのと同様、シャルンホルストも人名だ。1934年建造の巡洋戦闘艦シャルンホルストもあるから紛らわしい。

Gerhard Johann von Scharnhorst(1755-1813)はハノーファーの小作人の出身だが、砲兵科を皮切りに知力一本で出世した人。当時のプロイセン陸軍は精強を誇ったフリードリヒ大王時代の遺産を食い潰し、お世辞にも強いとはいえなくなっていた。兵站幕僚として迎えられた彼は貴族に列せられ改革に着手する。改革活動の母体とするために1802年に陸軍会を立ち上げた。陸軍会は次々と改革案を答申する。

  1. 国民皆兵制の採用
  2. 道徳教育に重きをおいた士官教育
  3. 参謀本部の常設

これら全てが直ちに実現したわけではない。事実1806年にはナポレオンに蹂躙される。シャルンホルストの献策はことごとく退けられ、自身も従軍し孤軍奮闘の後に捕虜になる。捕虜交換で釈放されて東プロイセン軍の参謀に迎えられる。ナポレオン戦争の戦後処理を定めたティルジット条約締結後、シャルンホルストの改革が本格化する。

軍事省の創設がその代表例で、その中の第二局こそが参謀本部の前身となる。彼自身は出自が災いしてか初代軍事大臣に任命されなかったが、クラウセヴィッツやグナイゼナウなどの優秀な部下を育んだ。

1812年に始まるナポレオンのロシア遠征後1813年3月に国民皆兵制度が正式に発令された。同時に参謀本部も発足したが、国外はおろか国内でも無名の存在にとどまった。

彼の蒔いたタネは後に巨大な収穫をもたらす。海軍が2度にわたって軍艦の名前に採用するだけのことはあるのだが、彼本人1813年3月28日にプラハで客死してしまう。

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