クリミア戦争
オスマン帝国の弱化につけこんで南下政策を推進するロシアと、これを阻止せんとする英仏連合の戦い。黒海のクリミア半島が主戦場になったことに由来するネーミングだ。日本ではナイチンゲールの話とともに言及されることが多い。
結果は英仏連合の勝利。戦いの趨勢が決まった頃に連合国側として参戦したオーストリアに、ロシアが嫌悪感を示したことは当たり前だが、あまりの節操の無さに英仏両国での評判もガタ落ちした。これに対してプロイセンは断固中立を守った。フランスはロシア本土に派兵するために、フランス軍のプロイセン通過を要求したが、当然のごとくこれをはねつけて、ロシアに恩を売った。
開戦は1854年3月27日で、収束が1856年3月30日。よく見て欲しい。シューマン入院のおよそ3週間後に始まって、同地で没する3ヶ月前に終結したということだ。シューマン最後の闘病生活はクリミア戦争とほぼ重なっている。プロイセンは中立を守ったとはいえ、英仏露墺にトルコがしのぎを削った戦争だったのだが、シューマン夫妻やブラームスの伝記だけをいくら熱心に読んでも、クリミア戦争の実感は伴いにくい。
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