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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2012年10月31日 (水)

逆転の秘策

ワールドカップにしろ欧州選手権にしろ、チャンピオンズリーグにしろ、サッカーの大きな大会は、グループリーグと決勝トーナメントの組み合わせで成り立っている。参加チームを複数のグループに分けて総当たり戦を行い、上位チームが決勝トーナメントに進むという仕組みだ。

ワールドカップで言うと上位2チームが決勝トーナメントに進むが、同じグループリーグのチームは決勝戦まで対戦しないように配慮される。決勝のカードが実は、グループリーグでも実現していたということは割と見かける。

1954年ワールドカップスイス大会優勝は西ドイツで、決勝の相手は当時最強と謳われたハンガリー。この両者はグループリーグでは対戦済みで、ハンガリーの圧勝だった。西ドイツは2位でグループリーグを通過して、決勝戦で再びハンガリーと対戦したということだ。グループリーグで敗れたリベンジを決勝で果たしての初優勝であった。

昨夜、次女たちのオーケストラのホール練があった。彼女らオケの本拠地とも呼ぶべきホールを借り切って6時半から密度高き2時間。全国大会を意識したトレーナー陣総出での音作りに立ち会ってきた。

いやはや感動的。客席後方の中央に陣取った指揮者とトレーナーがハンドマイクで指示を出す。バランスを見ては微調整を繰り返す。本番たった9分の演奏のために生徒、指揮者、トレーナーがゴシゴシと演奏を磨き上げて行く。保護者はその様子を生で見学できる。たとえば響きの質、クレッシェンドの傾き、パート間のバランスなどが見る間に修正されて行く。驚いたのは弦楽器のトレーナーの一言で、ガラリと音が変ったこと。

「みんなフォルテで弾いてても周りの音が聞こえなくて不安じゃない?」「でもみんなちゃんと弾けてるから勇気を出して一歩踏み出してみて」

この後出た音の瑞々しさを聴いて客席の保護者からため息がでた。たった10分前と全く別のオケだ。

休憩時間には個別にアドバイスをもらうためにトレーナーの周囲に生徒たちの輪が出来た。熱心にメモを取ってうなずき席に戻る。最後に1度通して演奏した後には、保護者、トレーナーから拍手が起きた。生徒代表が「全国大会でがんばってきます」と謝辞を述べてお開き。

素晴らしい2時間だった。しかし今日はそれを称えるだけの記事にはしたくない。コンクール前とあわせれば今回で2度目のホール練というのは、凄いことだ。これは来る全国大会への入念な準備。次女たちのオケは、全国大会にコマを進めはしたものの千葉県予選では2位の扱い。つまりグループリーグ2位通過だ。全国大会の舞台はいわば決勝トーナメント。グループリーグのリベンジは高いモチベーションになる。

サッカーの話にかまけた回りくどいエール。乙女たちのボロディンにブラームスのご加護を。

2012年10月30日 (火)

ノイポムメルン島

1884年にドイツはビスマルク諸島を植民地化した。現在はパプアニューギニア領。もちろん時のドイツ帝国宰相ビスマルクにちなむ命名。

ノイポムメルン島の名前は現在の地図では見当たらない。ビスマルク諸島で最大の島がノイポムメルン島と呼ばれていた。およそ九州くらいの大きさ。第一次大戦でドイツが敗れてオーストラリア領となり、現在の呼び名はニューブリテン島。

ポムメルンというのは現在のドイツとポーランドにまたがるバルチック海沿岸の地域名。それに「ノイ」つまり「新」をかぶせた命名だ。近所には「ノイメクレンブルク島」もある。ドイツ領だった時代には、ドイツ風の地名で呼ばれていた。

ここは日本とも関係が深い。太平洋戦争中の日本軍の最前線の島だった。島の北の端にあったのが、有名なラバウル基地である。ゼロ戦好きの私にはなじみの場所。本当に短い期間だが日本は事実上ビスマルク諸島を占領していたということだ。

2012年10月29日 (月)

遅ればせの植民地

ビスマルクは国内財界からの植民地獲得要請にもなかなか首をたてに振らなかった。国内の安定がこそが優先で、植民地にまで手が回らなかったのだ。そもそも1871年のドイツ帝国成立の時点で、世界のめぼしい陸地は列強による植民地化が終わってしまっていた。それでも1873年ウィーンの株価暴落に始まる不況で、国内からは悲鳴が上がる。製品の販売先たる植民地を求める声に折れる形で、英国の顔色を伺いながらの船出だった。1884年4月に最初の植民地、南西アフリカを獲得した。現ナミビアだ。やせた砂漠ばかりの土地で英国など列強が興味無しと放置した地域。以下ビスマルク在任中に獲得した植民地を列挙する。

  1. 南西アフリカ(現ナミビア)
  2. 東アフリカ(現タンザニア)
  3. ザンジバル(現タンザニア)
  4. トーゴ
  5. カメルーン
  6. ビスマルク諸島 1885年植民地化。もちろん鉄血宰相にちなむ。
  7. マーシャル諸島
  8. 独領ニューギニア

第一次大戦後にはこれら全部を失うことになるものの人口で1400万人、面積で日本の7倍程度。人口3億人で地球の地面の2割を有する大英帝国にとっては誤差にも等しい領域だから、ドイツ帝国の安全保障上の影響はない。最初の植民地獲得からおよそ2年でこれだけを獲得したのだが、植民地維持のための経費は、利益の6倍に達するという大赤字だったという。植民地維持には莫大な経費がかかる。本国との通商路の確保のための強大な海軍力も必要だ。植民地における異民族支配も神経質な上に金もかかる。

2012年10月28日 (日)

一生保存

亡き妻との結婚当初の約束は、家族でブラームスのピアノ五重奏を弾くことだった。妻がピアノで、長男がチェロ、娘らにはヴァイオリンをさせて私がヴィオラという皮算用。名づけてとまま五重奏団だ。

妻の死でさっそく挫折したが、子供らの未来の配偶者を勝手にあてにして計画は継続。長男がチェロに見向きもせずに第二の挫折。娘2人にヴァイオリンを習わせることで盛り返したかに見えたけれど、第一ヴァイオリン予定の長女がバドミントンに走ったのが第三の挫折。つまり次女は頼みの綱。極端な話、万が一私がピアノ五重奏ではなくて、「ピアノ四重奏を家族で」と欲していたら、次女は生まれていない。だから次女の存在は紙一重の縁。

その次女は、音楽への興味を維持し続け、高校オケの門を叩いてセカンドヴァイオリンを担当中だ。来る全国大会にむけてテンションを上げてゆく中、昨日いつものように自宅で練習を始めたのが20時少し過ぎた頃。全国大会に持って行く曲ボロディンだけではなく、手広く練習している。全国大会の前後に行事が林立しているから、課題曲だけを練習してればOKとはならないらしい。

カヴァレリアルスティカーナの聞き慣れた旋律が途切れた21時20分頃奇跡が起きた。次女の部屋からブラームスが聞こえてきた。次女の弾く初めてのブラームスだ。4歳でヴァイオリンを習い始めてから13年と少々、とうとう彼女のヴァイオリンがブラームスを奏でた。そしてそしてその曲はと言えば、我が家念願のピアノ五重奏曲。挑むは第3楽章だ。部屋に割って入ってゆきたい衝動をギリギリのところで抑えて、耳を傾けた。まだまだたどたどしい状態。譜読みを兼ねた音取りの段階だ。

おそらくこの話に関係するのだろう。ピアノ五重奏の演奏を家族でと欲してから20年、全く予期せぬところから、諦めかけた夢が何やらゴソゴソと動き始めた。家族の五重奏に代えて、あの子が仲間と挑むなら妻にも私にも異議は無い。昨日2012年10月27日は一生記憶されるべき記念日。

ブラームスのご加護を。

2012年10月27日 (土)

マッゼンバッハ

例によって人名。1802年に参謀本部の常設を最初に提唱した人。シャルンホルストの創設した陸軍会のメンバー。提案のポイントは以下の通り。

  1. 参謀将校の教育プログラムに「旅行」を導入したこと。戦場になりそうな場所を平時に旅行し、地図やスケッチを作成して有事に備える意味。
  2. 参謀将校と隊付将校の人事交流。今で言うラインとスタッフの交代だ。
  3. 帷幄上奏権 参謀本部長が国王にいつでも直接、意見を申し述べる権利。
  4. 仮想敵国別担当制 対露、対仏、対墺の3部局を設置。

本当にこれが実現するのは少々先になるが、この人の名前を調べて驚いた。

Freiherr Christian von und zu Massenbach

貴族の印として紹介した「von」と「zu」が一人の名前の中に共存しているというあらぬ方向に感心させられた次第。

2012年10月26日 (金)

貴族のzu

日本とプロイセンの不平等条約「日普修好通商条約」を締結するために日本を訪れたプロイセンの外交官に、フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクがいる。オイレンブルク伯爵と呼ばれることもある。締結は1861年1月24日だったとはしゃいだこともある。

さらに1862年12月に内相に就任している。ビスマルクの直属の部下だ。当然ビスマルクとの交流もあったので面白い証言をしてくれることがある。ビスマルクのワーグナー観を示すエピソードなのだが、過激なのでワーグナーの名誉のために省略する。

この人の名前の中に「ツー」がある。言語では「zu」となっている。見慣れないのだが「von」と同じく貴族であることを示しているそうだ。「von」が付く貴族の方が大元の格式は上だったらしいが、決定的な説明にありつけていない。

そういえばブラームス晩年の友人に、ヴィクトール・ミラー・ツー・アイヒホルツがいた。この人も貴族の出と紹介されているが名前の中ほどに「ツー」が入っている。

2012年10月25日 (木)

ユンカーの起原

一般的な貴族の体系「公侯伯子男」より下に位置する土地所有の貴族がユンカーで、その存在はエルベ川以東に限定される。プロイセン社会の中核を担った。ビスマルクがユンカーの出身であることは特に名高い。

そのユンカーの起原について興味深い仮説に出会った。

聖地エルサレムの奪回を旗印に始まった十字軍のドイツ版ともいうべき東方殖民が11世紀に始まった。非キリスト教圏に対する事実上の侵略という側面がある一方、疫病によって人口が激減したエルベ川以東のスラブ人居住地区への殖民という一面もある。

言葉も通じない初めての土地に、人々を根付かせるには現地の采配役が必要だ。いわゆる殖民ブローカー。現地の地理や気候に明るく、言葉も通じる人々が、西から東への人の流れを捌いた。どんな技能をもった人々をいつまでにどこに何人という細かな仕切り役を担った彼らが、やがて土着してユンカーになったという説。

本来の貴族の体系外という位置づけや、エルベ川以東にのみ存在するという特色を上手に説明できる。

2012年10月24日 (水)

ユンカー

「Junker」と綴るドイツ語。一般にはエルベ川以東の大農場所有の小貴族。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の序列のさらに下にあたる。語源は「Junchherro」で今風に申せば「Jung Herr」だから「若殿」くらいの意味。侯爵や伯爵の息子たちを指す言葉だった。12世紀の東方殖民に発した土地制度まで遡ることができる。19世紀当時およそ500ha程度の土地を所有し自ら農場を経営した。ドイツの南西部と違って長男が単独相続する。宗教はプロテスタントだ。そこの高位聖職者は国王から任命され、服従を最高の美徳と教える。小さいながらも貴族だから、国王への忠誠熱き人材を次々と輩出する。

とりわけユンカーの次男以下には相続権が無いから、プロイセン軍への人材供給源になった。20世紀になってもドイツ陸軍の将校にはユンカー出身が多かった。

オットー・フォン・ビスマルクもまたユンカーの出身である。ビスマルクは当初ユンカー層の利益代弁者として台頭することになる。

2012年10月23日 (火)

貴族のvon

名前の中に「von」が混入している人がいる。文豪ゲーテ、指揮者カラヤン、撃墜王リヒトホーヘンなどすぐにいく人か思いつく。ブラームスと結婚寸前までいったアガーテ・フォン・ジーボルトや、濃密な往復書簡で知られるエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクなどがブラームスの伝記にも登場する。これらの「von」はほぼ貴族のしるしと思っていい。ベートーヴェンは「van」だから貴族のしるしではないので注意が要る。

さて「von」には前置詞としての機能もある。英語で申せば「from」だ。「ハイドンの主題による変奏曲」という場合の「による」は「von」である。あるいは後続に地名を従えて出身を現す。この地名特定こそが「von」本来の意味だったという主張には魅力を感じる。「どこそこの誰それ」という表現がドイツ民謡にある。「ターラウのエンヒェン」は「Annchen von Thalau」だ。本日話題の貴族のしるしとしての「von」はこの用法の行き着いた先だという。この用法に説得力を感じるには理由がある。日本でも事情が似ているからだ。平安末期に台頭して鎌倉時代から約700年君臨した武士たちは、「一所懸命」という言葉でも判る通り、所領との結びつきが強い。本拠地の地名がいつしか苗字として定着して行く。「足利尊氏」「新田義貞」を持ち出すまでもなくこのパターンは多い。先のドイツ語の例に照らせば「尊氏von足利」「義貞von新田」ということになる。

2012年10月22日 (月)

ザクセン・ラウエンブルク公国

シュレスヴィヒ公国、ホルシュタイン公国とともにエルベ3公国と呼ばれていた。現在ではドイツ領でハンブルク市の東隣一帯を占める小国。1864年に起きたデンマーク戦争の際、プロイセンは同公国を占領し、翌年にはウィルヘルム1世を君主に迎えプロイセン王国と同君連合する運びとなる。同時にビスマルクが同公国の宰相に就任している。このときザクセン・ラウエンブルク伯爵となった。この状態は1876年まで続き、公国は解体されてプロイセンに併合されてしまう。

1871年ドイツ帝国成立に功ありとしてビスマルクが、下賜された所領フリードリスルーは、まさにこのザクセン・ラウエンブルク公国内にあった。引退後この地に引きこもるビスマルクに対し、1代限りの条件付ながらザクセン・ラウエンブルク公爵位が授与された。

公国は公爵が君主になっている国だから、ザクセン・ラウエンブルク公爵はすなわち同公国の君主を意味する。既にプロイセンに併合されて消滅した公国なのだが、ビスマルクはその所領に名目上の君主として降臨したに等しい。

当時ユンカーからの出世は子爵止まりが通例だったが、ビスマルクは一代限りとはいえ最高位の公爵まで昇った。公国領主への大出世であった。

2012年10月21日 (日)

公侯伯子男

日本史の中、明治の華族制度のところで習う。貴族に授けられる爵位を偉い順に並べたものだ。欧州貴族の爵位を和訳したもので、意味上の厳密さよりもこの順序が大事である。もちろんドイツにもある。

  1. 公爵 Herzog フランク王国成立以前のゲルマン各部族長に授与されたとか。フランク王国への忠誠と引き換えに王国最高官位を与えられた。ゲルマン平定のツールともいえる。つまり外様か。
  2. 侯爵 Furst 伯爵からの派生形。辺境伯からの変化。
  3. 伯爵 Graf 公爵への牽制のために王から派遣された代官。外様の監視役。
  4. 子爵 Veizgraf 副伯爵からの派生。
  5. 男爵 Baron 自由民からの派生。

<Herzog>「Herzogenaurach」「Herzogenrath」「Herzogenberg」の地名が残る。ブラームスの覚えめでたいリーズルは、ハインリヒ・ヘルツォーゲンベルクに嫁いだ。

<Furst>「Furstenau」「Furstenberg」「Fursteneck」「Furstenbruck」「Furstenstein」「Furstenwalde」「Furstenzell」など多彩な地名に痕跡を残す。

<Graf>「Grafenau」「Grafenberg」「Grafenhausen」「Grafenrheinfeld」「Grafenwiessen」「Grafenwohr」「Grafrath」「Grafhorst」「Grafschaft」などこれも地名が多彩。

<Baron>は何故か地名に残りにくい。

ビスマルクは宰相退任の際に永年の勲功をたたえて公爵を授与された。ビスマルクはユンカーの出身だが、ユンカーは上記で申せば男爵のさらに下。まれに出世することはあってもせいぜい子爵止まりが関の山だったというから、1代限りとは言え公爵に叙せられるのは異例のことだ。

2012年10月20日 (土)

フォン・ビューロー

ブラームス縛りともいえる我がブログで「ビューロー」と申せば、リストの弟子でブラームスの親友にして大指揮者ピアニストのハンス・フォン・ビューローを思い出すのが自然だ。けれどもドイツ史に絞ればそうとは言い切れない。第4代ドイツ帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューローを思い出す人の方が多いと思われる。ビスマルクの3つ後の帝国宰相だ。

ブラームス在世中は、ハンガリー王国やイタリア王国の公使を歴任し、ブラームスの没した1897年に外務大臣に就任した。帝国宰相への就任は1900年。

若きウィルヘルム2世をよく助け、世界政策を推進したとされているが、その中心となった海軍増強により英国との対立を深め第一次大戦の道筋を作ってしまったとも言われている。

2012年10月19日 (金)

ビスマルク演説集

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻135ページに興味深い記述。友人ホイベルガーの証言によれば、ブラームスが「ビスマルク演説集」を読んでいたことが判る。1895年5月1日にブラームスが最近刊行されたばかりの「ビスマルク演説集」に感心していたと書かれている。ほとんどの演説が準備原稿の無いアドリブだったと推測してブラームスが舌を巻いていたと証言する。ビスマルク支持者だったブラームスの実情を垣間見ることが出来て貴重だ。刊行後すみやかに入手していたことが伺われる。1815年生まれのビスマルクだから、80歳を記念した刊行だったかもしれない。

現地で1895年刊行の同書は、1920年頃一度和訳本が出されたがその後は絶版で、古本屋でも入手困難な上に高値が付いているという。

2012年10月18日 (木)

日墺修好通商条約

1869年10月18日。オーストリア海軍アントン・フォン・ペッツ男爵率いるドナウ号とフリードリヒ大公号が横浜に入港。日墺修好通商条約が調印された。だから今日は日墺友好146年の記念日。日普友好150周年は、私の51回目の誕生日と重なったこともあり、おおはしゃぎしたので、オーストリアでも取り上げねば不公平だ。

明日の記事を無事アップすることが出来たら、その時点で2700日連続記事更新となる。

2012年10月17日 (水)

まるで他人事

バイエルン州北部に古くからの名高い温泉地バートキッシンゲンがある。古くはプロイセン領だったが、ナポレオン戦争の混乱後はバイエルン王国に属した。欧州の王侯貴族に人気があるセレブなリゾート。遠くロシアからトルストイ、ツルゲーネフなども訪れた。だがとりわけ1864年の夏は華麗であった。

6月から7月にかけてロシア皇帝アレクサンドル2世夫妻、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世夫妻が、それぞれ偽名を使って滞在した。ロシア皇帝はボロディンスキー伯爵夫妻、オーストリア皇帝はホーエンエルブス伯爵夫妻という具合。欧州随一の美貌と噂されるオーストリア皇妃エリザベートはバイエルン出身だからある意味里帰り。一方のロシア皇妃マリア・アレキサンドロヴナもダルムシュタットの出身だから気分は里帰り。このとき40歳のはずだが、こちらも相当な才色兼備で、このとき以来ルートヴィヒ2世との文通が始まった。

ホスト役はこのとき即位後3ヶ月のルートヴィヒ2世だ。ロシア、オーストリアの両皇帝と、バイエルン王が一堂に会するという華麗な夏なのだが、1864年6月といえばプロイセン・オーストリア同盟とデンマークがシュレスヴィヒホルシュタインを巡る戦いの最中だった。天下分け目のアルゼン島上陸作戦が6月29日で、首都コペンハーゲンに殺到する直前にデンマークが降伏したのが7月の初頭だった。バートキッシンゲンに集った3人のうちオーストリア皇帝は当事者なのに、まるで他人事だ。

いやいや「他人事」など揶揄すること自体、素人丸出しかもしれない。デンマーク戦争では共同したプロイセンとオーストリアだが、近い将来の衝突は明らかだ。デンマーク戦争がどう決着しようとも、ロシア・オーストリア・バイエルンの君主が一同に会するという外交上の意味は大きい。この三カ国が同盟に踏み切るなら、たちまちプロイセン包囲網が完成する。ビスマルクに気づかれたらえらいことだから、皇帝2人は偽名を使ったのかもしれないのだが、数十名のお供を連れての滞在だから、隠し通すのは難しかったと思う。

1866年に起きた普墺戦争では、バイエルンこそオーストリア側についたものの、ロシアはプロイセン寄りの中立を貫いた。

2012年10月16日 (火)

ヨーロッパ

今でこそ欧州連合は当たり前の存在だが、この域に達するまでには長い時間がかかった。欧州の平和などと口にしても誰も信用しなかった。ビスマルクはドイツ帝国成立後の欧州に束の間の平和をもたらしたが、その目的はあくまでも帝国の安全保障だった。欧州の平和をドイツ帝国のために利用したに過ぎない。

鉄血演説の影に隠れてあまり知られていないが、お気に入りのエピソードを一つ。

1863年ロシアが支配する旧ポーランド領で、ポーランド人が反乱を起こした。ビスマルクはロシアによるその鎮圧を支援した。鎮圧軍が国境を越えてプロイセン領内まで反乱軍を追いかけることを認めた。

非人道的であると欧州中から批判された。とりわけ英国は批判の先鋒になった。英国大使のブキャナンは「ヨーロッパがそれを許さない」と大した剣幕でつっかかったその時だ。ビスマルクは「はて、ヨーロッパとは誰のことですかな?」と平然と切り替えしたという。

そもそも欧州列強はアジアやアフリカでは非人道的な植民地支配を継続しているのに、ここぞとばかりに人道主義を持ち出すことの欺瞞を見抜かれている。ヨーロッパの正義なんぞ絵に描いたピザで、国益丸出しの隠れ蓑に過ぎないと看破していた。

2012年10月15日 (月)

日本学校合奏コンクール

昨日日本学校合奏コンクールの県予選があった。36代の折り返し点とも言える位置づけの長い長い一日だった。

朝10時30分に始まる。コンクール当日彼女らは午前中に全体合奏をする。型通り昼には弁当なのだが、このとき結団式と名づけられたお楽しみ会が催される。踊りありゲームありで束の間の楽しいひと時を過ごす。コンクールにむけて気持ちを高めながら、緊張もほぐす。

そして14時から再び全体合奏。緊張と弛緩のめまぐるしい交代を経て、コンクールに臨む。16時前には学校を出発し会場に向かう。出番は19時過ぎだ。高等学校の部が7校によって競われる。

次女たちオケの出番は3番目。出し物はボロディンの交響曲第2番より第4楽章。始まってすぐにそれと判る独特の音色は健在。持ち時間9分の演奏だから、7校の演奏もあっという間に終わる。審査結果が出るまでの時間がやけに長く感じる。

そして結果発表と表彰式。毎度毎度の緊張感。中学生の部から順に成績が告げられる。拍手と歓声。次女たちは「金賞」だった。後から聞いた話では次女結果発表を待つ間泣きたい気持ちだったらしい。「銀賞だったらどうしよう」「先輩に顔向けできない」という気持ちでいっぱいになったという。昨年のコンクールでは、1年生として先輩の背中についてゆくだけだった。今年はパートリーダーとして迎えたコンクールだから重圧は比較にならない。帰りの車の中、いつになく饒舌だった。

千葉県代表として全国大会にコマを進めることになった。

おめでとう。ビスマルク特集に堂々と割ってはいるほどの喜び。

2012年10月14日 (日)

ビスマルクの肉声

米国ニュージャージー州でビスマルクの肉声が収録された蝋管が発見されたと新聞に載った。たしか2月3日の朝刊だった。発明王エジソンの実験棟内から木箱入りで見つかったらしい。

1889年10月蓄音機の宣伝のためにパリ万博を訪れたエジソンの助手が、ドイツにも足を伸ばしてビスマルクの肉声を収録していたという、話は伝わっていたが肝心な蝋管が長らく行方不明だった。録音場所はおそらくフリードリヒスルーだ。新聞にはハンブルク近郊の自宅と書かれているが間違いない。このとき既にウィルヘルム1世はこの世に無く、それを継いだフリードリヒ3世もなくなっており、若いウィルヘルム2世が皇帝の座にあった。ビスマルクは新皇帝と折り合うのに苦労を重ねていた時期。75秒の間にドイツ語の歌とフランス国歌も録音されている。ビスマルクは皇帝との確執が原因で1890年3月18日に解任されているから、最後に一花咲かせた感じだ。もし解任後だったら元宰相の許に収録に出向いたかどうか怪しい。現役のドイツ帝国宰相の肩書きはエジソン側にとっても貴重なものだったに決まっている。

さらに気になるのがその時期。エジソンの蝋管と言えばブラームスも録音が残されていることは割と知られている。その録音は1889年12月2日とされている。ビスマルクの収録から2ヵ月後、今度はウィーンでブラームスを録音したことになる。エジソンの助手ワンゲマンによる収録だが、上記のニュースでいう「エジソンの助手」はワンゲマンである可能性が高い。

ブラームスは、ビスマルクと並ぶドイツの顔だったと解し得る。蓄音機の宣伝である以上、そこそこのネームヴァリューのある人物を狙ったに決まっている。

2012年10月13日 (土)

ハインリヒ・フォン・シュテファン

ドイツ郵便の父。ハプスブルク家ご用達のタクシス家から郵便事業接収した際、ビスマルクの片腕としてタクシス家との交渉にあたった人物。ドイツ帝国成立と共にドイツ帝国郵便の総裁になった。日本では前島密、英国ではローランド・ヒルが有名だがドイツではこの人。

ベルリン市内地下にエアシューター網を張り巡らしたりアイデア豊富な人だったが、1874年に諸国に呼びかけて万国郵便連合を創設した。国境をまたぐ郵便のアイデアが当時としては斬新だった。日本の加盟は1877年で23番目、つまりオリジナルの22カ国の次ということになる。

森鴎外の「独逸日記」にはいたるところに「家書」という単語が現れる。東京に遺した家族からの手紙のことだ。そりゃあもうしょっちゅうで、いちいちそれを日記につけていた鴎外が、これを楽しみにしていた証拠だ。万国郵便連合に加盟していた恩恵ともいえる。

さて、この人が没したのは1897年4月8日。ブラームス没の5日後ということになる。

2012年10月12日 (金)

事業譲渡

1850年に締結されたドイツオーストリア郵便連盟は、踊り場に過ぎなかった。ハプスブルク家との深い関係にたって、域内の郵便事業を一手に握るタクシス家は、ドイツ統一を進めるプロイセンには大きな障害だ。国家の近代化にとって鉄道事業と通信事業の体系的な発展は不可欠という認識。

普墺戦争によってドイツ連邦の主導権がオーストリアからプロイセンに移ると、時をおかずに改革に着手する。1867年1月28日にプロイセンはタクシス家に対して、郵便事業に必要な全ての権利と設備をプロイセンに譲渡するよう申し入れた。タクシス家に支払われる補償額は300万ターラー。900万マルクだからおよそ45億円。もちろん宰相ビスマルクの意思である。

1866年の普墺戦争勝利後、ビスマルクは敗者オーストリアに寛大だったと書いた。確かに領土は要求していないし、軍隊をウィーンに入れることも無かったが、郵便事業をハプスブルク家の息がかかったタクシス家から取り上げたのは、何気なく凄い。

これによりプロイセンは郵便事業の国有化に一歩踏み出した。

2012年10月11日 (木)

郵便連盟

正確には「ドイツオーストリア郵便連盟」という。1850年に成立した。鉄道の開業、関税同盟の成立と並ぶドイツ産業革命の牽引役と評価する学者もいる。ドイツ連邦内の郵便事業の統一が実現した意義は大きい。それまでドイツとオーストリアには郵便の事業母体が16も存在し、競争状態にあった。同じ都市間の郵便でも、どこを経由させるかで配達までの時間や料金が違っていた。名高いタクシスを使うのが安価だったが、郵便馬車の通行に課金する国もあって、結果として複雑な料金体系になっていた。

これを一気に解消したのが郵便連盟だ。交渉の場はフランクフルト国民議会。ドイツ連邦の議決機関。メッテルニヒ無きあととはいえ、あくまでも主役はハプスブルク家率いるオーストリアだった。普墺戦争の16年前だから、神聖ローマ帝国は消滅したものの、ハプスブルク家の威光はまだ健在だった。だから関税同盟においてはその推進役だったプロイセンも、ハプスブルク家と姻戚関係にあるタクシス家を無視できなかった。よってドイツとオーストリアの名前が仲良く併記されている。

連盟成立の翌1851年に、プロイセンから同議会の公使に抜擢された男こそがビスマルクだ。何事につけオーストリア主導の方針に対抗して行くようになる。

2012年10月10日 (水)

軍医

「軍隊につきしたがって、傷病兵の診察治療にあたる医師」くらいの意味。ぼんやりとしたイメージしか持てていないのだが、具体的に突き詰めると奥が深い。

プロイセン・シャルンホルストによって考案された徴兵制度は短期現役制と呼ばれる。20歳の男子全員に兵役を課す代わりに、現役2年の後7年~10年の予備役に回される。軍医のニーズはこれによって飛躍的に高まった。戦場で負傷した兵士の手当てという一般的なイメージとは別に軍医の出番が膨れ上がった。徴兵適齢期に差し掛かった男子の健康診断が必須となるからだ。成人男子全員の健康状態を把握する制度上の必然が生じたと言うこと。

周囲を敵に囲まれたプロイセンにとって、平時の兵員維持は死活問題で、戦場での負傷救護以上に、平時の健康観察が重要になる。森鴎外はドイツ留学の最後の3ヶ月をプロイセン近衛歩兵連隊の医師として過ごす。朝出勤すると体調を崩した兵士の診察が日課だった。

プロイセンを見習った日本陸軍でも軍医の位置が高まって行く。軍医のトップである軍医総監は、中将待遇だったらしい。医学博士・森鴎外は後年その軍医総監に就任する。

2012年10月 9日 (火)

徴兵制度

19世紀後半の欧州では、戦争と言えば陸戦だった。だから重要なのは陸軍の兵力。原則として小銃で武装した歩兵をより多く集めた方が勝つという仕組み。軍隊の強さは若年男子の人口に比例してしまう。

1806年ナポレオンに蹂躙されたプロイセンは、軍隊強化の改革に乗り出す。その主眼が徴兵制だった。20歳以上の男子全員の入隊を義務化し、2年間の訓練ののち7年~17年の予備役に回す。常備軍20万だとして、いざと言うときには予備役の召集により100万の軍勢をかき集めることが出来る。シャルンホルストによって導入された短期現役制という。

これに対するのが長期現役制。全員徴集ではない。徴兵検査などによって世代の2割程度を入隊させる。その代わり10年間の現役生活とするというものだ。フランスなどが採用していた。人口で負けているプロイセンがフランスに勝てた理由の一つである。

20歳の男子全員に兵役義務があるということだ。

デュッセルドルフのシューマン邸を訪ねたブラームスは20歳だった。20歳と5ヶ月である。なのにブラームスの伝記を隅から隅まで読んでも、ブラームスが徴兵にかかったという記述は見かけない。自由ハンザ都市ハンブルク出身のブラームスは、プロイセンの徴兵制度の対象外だったと思われる。

不思議なことに、日本語で伝記が書かれるような著名作曲家でプロイセン出身者がいない。メンデルスゾーンはブラームスと同じハンブルク出身だし、シューマンはザクセン出身だ。彼らの伝記にも、徴兵制度の存在をうかがわせるものはない。

興味深いのはシューマン夫妻の次男フェルディナンド。1849年ザクセン王国のドレスデンで生まれた彼は21歳のとき1870年7月に普仏戦争が勃発し出征するが、10月には負傷して帰還するものの、治療にと投じられたモルヒネ中毒に苦しむことになる。彼は確かにプロイセン生まれではないものの、父ロベルトが没した翌1857年8歳のときに一家でベルリンに転居しているから、20歳になったときはベルリンに住んでいた。だから徴兵されてしまったに違いない。

2012年10月 8日 (月)

歌劇ビスマルク

鉄血宰相ビスマルクの生涯を題材にオペラが書けやせぬかと考えた。

配役はこんな感じ。

  • ビスマルク(Br)
  • 妻ヨハンナ(Sop)
  • ウイルヘルム1世(Ten)
  • アウグスタ王妃(Alt)
  • モルトケ(Bas)

第一幕第1場は、「プロイセン国会」くらいか。ウイルヘルム1世が、国会で演説「軍制改革のアリア」だ。ところが国会はこれを拒否。男声合唱による「否決の合唱」が高らかと歌われてウイルヘルム1世は、落胆の表情でビスマルクと「相談の二重唱」。切れ目無く国会議員たちの合唱がかぶさってくる。議場の混乱が頂点に達したところで、ビスマルクの「鉄血のアリア」がとどろく。国会はこれに同調し一同で「ドイツ国歌」を合唱。

第2場は「ニコルスブルク城」。ケーニヒスグレーツの大勝でウィーンに進軍中のプロイセン軍に冷や水。ナポレオン3世の休戦提案だ。ウィーン入城派の合唱で始まる。この合唱にウイルヘルム1世が加わって大本営は強硬派一色。ここでビスマルクのアリア「真の敵はオーストリアにあらず」でビスマルクの苦境が強調される。ビスマルクの苦境を見かねたモルトケがウイルヘルム1世を説得する二重唱が「陛下は戦闘に勝って戦争に負けるおつもりか」で始まる。史実ではこの説得は皇太子だったが、若干の改変。丁々発止のやりとりで王が折れ、最後は国王の「休戦のアリア」。

第二幕第1場はいきなり普仏戦争前夜に飛んで「ビスマルク家の居室」回想シーン。普仏戦争への息子の出征を嘆く妻ヨハンナとビスマルクの二重唱。夫の企てた戦争に息子が駆り出されると嘆くヨハンナのアリアが続く。やがて現実にもどって「ゼダンの前線大本営」では、ビスマルクとウイルヘルム1世の二重唱で、一進一退の攻防が仄めかされる。いらだったビスマルクがモルトケを呼び出してこちらも二重唱。やがてモルトケの「包囲のアリア」が続く。さらにビスマルクが「葉巻のアリア」で勝利を確信する。モルトケは差し出した葉巻のうちから上等のものを選んだと冷静さを賞賛するアリアだ。最後は男声合唱がナポレオン3世が捕虜になったと歌って幕。

第2場はベルサイユ宮殿「鏡の間」からドイツ皇帝への戴冠式の場面。どんちゃん騒ぎの祝賀気分に終始する。ちょっとフランスやオーストリアでは上演しにくいオペラになる。

いかんいかん。アウグスタ妃の出番が無かった。

2012年10月 7日 (日)

長寿BMW

クルマの話ではない。まずは黙って以下のリストをご覧いただく。

  1. ウイルヘルム1世 1797-1888 91歳
  2. モルトケ 1800-1891 91歳
  3. ビスマルク 1815-1898 83歳

ドイツ帝国が世界に先んじで年金制度を導入したとき、支給開始が71歳だったことが批判された。当時男性平均寿命が50歳程度だったからだ。64歳で没したブラームスは、けして短命ではなかったし、46歳でこの世を去ったシューマンでさえ、極端に短命というわけではなかったことがわかる。そうした時代において3人は、まれな長寿を全うしたといえそうだ。

そしてこの3人をドイツ帝国創設の立役者だと断言してもブログが炎上することはあるまい。この3人がプロイセンという国にほぼ同時に出現して同じ時代を生き、お互いを補完しあいながら、偉業をなしとげたことは奇跡近い。

何よりも特筆されるべきは、この3名けして蜜月な関係だったわけではない。ウイルヘルム1世は側近に「ビスマルクの許で皇帝の座にあるのは大変なことだ」と語った。2人はいつも衝突したが大抵皇帝が折れる形で折り合った。戦場の最高指揮官としてのウイルヘルム1世と参謀総長としてのモルトケの間にしばしば意見が合わなかったといわれているが、モルトケは半ば恫喝気味に「お一人で決めなはれ」と言い放って皇帝が折れたと言われている。モルトケとビスマルクの関係は冷めたものだったが、宰相と参謀という職分をお互いが理解しあっていたために破局だけはいつも回避できた。あるいは皇帝が仲裁に乗り出すこともあった。

ブラームスの後半生をすっぽりと覆い尽くすように平和な時代が続いたのは、この3人が鎮座する帝国の威光が物を言った。イニシャルを並び替えるといい。BMWになる。

2012年10月 6日 (土)

アウグスタ王妃

ドイツ帝国皇帝ウイルヘルム1世の妃。正式にはマリー・ルイーゼ・カタリーナ・アウグスタという。ザクセン-ワイマール-アイゼナハ大公国の王族に生まれた。夫ウィルヘルム1世は、相思相愛の婚約者との結婚が政治的理由で破談になった後に、アウグスタを妃に迎えたこともあって、夫婦仲は波乱含みだったといわれている。

実はこの人こそが、おそらくビスマルクにとってある意味で最強の政敵だった。

ビスマルクは28年間宰相の地位にあったが、彼の任免権は常にウィルヘルム1世が握っていた。議院内閣制ではないので、議会が宰相を罷免出来ないということだ。皇帝に対してのみ責任を負うという立場だった。つまりビスマルクは28年間ウィルヘルム1世に支持され続けたということだ。アウグスタ王妃はどちらかというと自由主義的な立憲君主制を理想としていたらしく、ビスマルクの姿勢とは事あるごとに対立する。ビスマルクを宰相に任じたとき、ウイルヘルム1世は妃にわびたと言われている。

政党の党首や、他国の政治家が相手であれば、陰謀をめぐらせて失脚させるくらい朝飯前のビスマルクだったが、王妃となると勝手が違う。しばしばウィルヘルム1世を手なずけて反対派を一掃する挙に出たビスマルクだが、王妃を失脚させるわけには行かなかったということだ。

王妃が薨去したのは1890年1月7日だ。政敵がせっかくこの世を去ったというのにビスマルクはそのおよそ2ヵ月後3月20日に宰相を罷免される。

2012年10月 5日 (金)

統一のし過ぎ

普墺戦争に勝ったのち、普仏戦争にいたるまでの間、ビスマルクはどうも統一をし過ぎないように注意していた節がある。外的が侵入して来た場合は一致団結するが、平時はお互いが自由で干渉しあわない小領邦の集合体くらいを理想としていたといわれている。

あまり結束しすぎるとプロイセンという国自体がドイツに埋没してしまうリスクに気付いていたと言われている。ドイツが小領邦の連立でいられるには、フランスやオーストリアと事を構えないことが大切で、外交や武力で巧みにバランスを取るのが理想と考えていた。巧みな外交によってそれにはある程度成功していたが、国内における統一の世論が高まりすぎてしまったようだ。

「プロイセン主導によるドイツの統一」の気運が次第に高まって行く。ブラームスもまたその世論を形成した大衆のうちの一人であった。

2012年10月 4日 (木)

フランク王国統一

ベルリンの壁崩壊からわずか1年後に東西ドイツ統一が実現したとき、あまりのスピードに驚いたものだ。旧東ドイツの各州がドイツ連邦に加盟するという方式であっという間に実現した感じがした。ソ連の寛大な対応もさることながら、常にドイツの強大化を恐れ続けてきたフランスも拍子抜けするほど大人の対応に終始した。戦後西ドイツが地道に繰り広げてきた外交の賜物だといわれている。

統一からこれまたわずか3年後の1993年ヨーロッパ連合が誕生した。東西ドイツ統一の時に生まれた独仏の信頼関係無しにEUの成立は無かったと思う。つまりこれは「槍族」と「短剣族」の歴史的な和解だったと思う。カール大帝の孫の代に3分裂したフランク王国がおよそ1200年の時を経て再現されたようなものだ。

各々の加盟国が国家的独立を保ちながら緩やかに連携するのという形は、ドイツが中世以来続けてきた形と被って見える。

2012年10月 3日 (水)

ドイツ統一

我が家の子供たちに「ドイツ統一」という言葉を投げかけると、「ああ、ベルリンの壁崩壊ね」という反応になる。1989年のベルリンの壁崩壊からわずか1年で東西ドイツが統一されたあの出来事しか浮かばない脳味噌になっている。長男でさえまだ生まれる前の出来事だが、歴史の教科書に載っている出来事だ。

私は違う。最近ドイツ史にのめりこんでいるからかもしれぬが、1871年普仏戦争勝利によりプロイセン主導で小領邦乱立に終止符をうった統一が思い浮かぶ。ブラームスはこれをたいそう喜んだ。プロイセンとビスマルクの熱心な支持者だったこともあり、デンマークやスイスの友人とはしばしば微妙な溝を生み出す程だった。

2012年10月 2日 (火)

銅剣銅矛文化圏

中学だか高校の歴史の時間に習った。遺物としての銅剣や銅矛の出土地を地図上にプロットし、出土地が濃密に分布する地域をそれぞれ「銅剣文化圏」「銅矛文化圏」と呼んだと記憶している。

欧州にも似たような話がある。フランク人は今のライン川下流域に住んでいたゲルマン民族の1支族で、やがてフランク王国を築いて歴史の表舞台に躍り出る。「フランク」は「槍」を意味する言葉だ。当時しばしばフランク人と抗争を繰り広げたローマ人がつけた名前だ。対戦相手のローマ人から見て「槍の扱いに長けた人々」だったということだ。

フランク人より少々東、ユトランド半島の付け根からエルベ川の河口あたりに住んでいたのがザクセン人だ。彼らもまたゲルマン民族の支族で、後年アングロ人と共にブリタニアに渡り、アングロサクソンとなって英国の基礎を築くことになるが、当時はまだローマ人との抗争に明け暮れていた。「ザクセン」の語源は「短剣」だ。これも対戦相手ローマ人がつけたあだ名だ。

ローマ人は今のドイツ北部を観察して、「槍族」と「短剣族」が隣接していたという認識だったようだ。「槍文化圏」と「短剣文化圏」だ。ローマの衰退ともにこの地域を牛耳ったのは「槍族」フランク人だった。やがてそこからカロリング王朝が起こり、カール大帝を擁して中欧の覇権を握る。ローマ人との抗争こそなくなったが、今度はゲルマン民族どうしの内輪もめに取って代わる。いわば「槍族」対「短剣族」という図式だ。さらにこれは宗教戦争の様相を呈するに至る。早くからキリスト教化した「槍族」と、頑としてこれを拒んだ「短剣族」の戦いとなる。カール大帝は数度にわたる過酷な戦いの後、「短剣族」を帰順させ彼らをキリスト教化した。

一旦は帰順した「短剣族」の逆襲は、カール大帝の孫の世代に分裂した東フランク王国で始まる。カロリング朝の血統が途絶えた東フランク王国で、諸侯の相談の結果「短剣族」ザクセンの血を引くハインリヒ1世が即位した。このハインリヒ1世の子供がこそが神聖ローマ帝国の創始者オットー1世だ。現代に連なるドイツの発生だと言われている。一方の西フランク王国は現代のフランスの母体となった。ナポレオン戦争、普仏戦争、両世界大戦などを見るにつけ「槍族」と「短剣族」の抗争は続いていたとも考えられる。

フランス嫌いのブラームスは「短剣族」かもしれない。

2012年10月 1日 (月)

無害通行

大雑把に申してクリミア戦争は、英国とフランスがロシアと戦った戦争。終了間際になってオーストリアもロシアに参戦したが、プロイセンは中立を貫いた。普墺戦争の10年前だし、ビスマルクも表舞台に登場していないこのタイミングで、プロイセンは英仏露に比べればまだまだ小粒だった。

フランスは格下のプロイセンに要求する。「ロシアに攻め入りたいからオタクの領土を通らせてくれ」と。軍隊が通過するのを黙認してくれということを軍事外交用語で「無害通行」という。プロイセンは断固拒否する。この要求を呑むことはフランスと一緒にロシアに攻め込んだのと同義になってしまう。対露中立を放棄することに他ならない。フランスに侵攻されるリスクも覚悟で拒否するのだ。ここでロシアに売った恩が、のちのちのプロイセンひいてはドイツ外交の基本「対露友好」の基礎となる。

時は流れて第一次大戦前夜。シュリーフェンプランに導かれたドイツは、フランスを最短時間で叩くために、ベルギーに対して「無害通行」を要求する。ベルギー国王は「ベルギーは道じゃない。国だ」と叫んで徹底抗戦を国民に呼びかける。だからベルギーは、第一次大戦で敗れたドイツに対して、断固として賠償請求することになる。

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