銅剣銅矛文化圏
中学だか高校の歴史の時間に習った。遺物としての銅剣や銅矛の出土地を地図上にプロットし、出土地が濃密に分布する地域をそれぞれ「銅剣文化圏」「銅矛文化圏」と呼んだと記憶している。
欧州にも似たような話がある。フランク人は今のライン川下流域に住んでいたゲルマン民族の1支族で、やがてフランク王国を築いて歴史の表舞台に躍り出る。「フランク」は「槍」を意味する言葉だ。当時しばしばフランク人と抗争を繰り広げたローマ人がつけた名前だ。対戦相手のローマ人から見て「槍の扱いに長けた人々」だったということだ。
フランク人より少々東、ユトランド半島の付け根からエルベ川の河口あたりに住んでいたのがザクセン人だ。彼らもまたゲルマン民族の支族で、後年アングロ人と共にブリタニアに渡り、アングロサクソンとなって英国の基礎を築くことになるが、当時はまだローマ人との抗争に明け暮れていた。「ザクセン」の語源は「短剣」だ。これも対戦相手ローマ人がつけたあだ名だ。
ローマ人は今のドイツ北部を観察して、「槍族」と「短剣族」が隣接していたという認識だったようだ。「槍文化圏」と「短剣文化圏」だ。ローマの衰退ともにこの地域を牛耳ったのは「槍族」フランク人だった。やがてそこからカロリング王朝が起こり、カール大帝を擁して中欧の覇権を握る。ローマ人との抗争こそなくなったが、今度はゲルマン民族どうしの内輪もめに取って代わる。いわば「槍族」対「短剣族」という図式だ。さらにこれは宗教戦争の様相を呈するに至る。早くからキリスト教化した「槍族」と、頑としてこれを拒んだ「短剣族」の戦いとなる。カール大帝は数度にわたる過酷な戦いの後、「短剣族」を帰順させ彼らをキリスト教化した。
一旦は帰順した「短剣族」の逆襲は、カール大帝の孫の世代に分裂した東フランク王国で始まる。カロリング朝の血統が途絶えた東フランク王国で、諸侯の相談の結果「短剣族」ザクセンの血を引くハインリヒ1世が即位した。このハインリヒ1世の子供がこそが神聖ローマ帝国の創始者オットー1世だ。現代に連なるドイツの発生だと言われている。一方の西フランク王国は現代のフランスの母体となった。ナポレオン戦争、普仏戦争、両世界大戦などを見るにつけ「槍族」と「短剣族」の抗争は続いていたとも考えられる。
フランス嫌いのブラームスは「短剣族」かもしれない。
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