事業譲渡
1850年に締結されたドイツオーストリア郵便連盟は、踊り場に過ぎなかった。ハプスブルク家との深い関係にたって、域内の郵便事業を一手に握るタクシス家は、ドイツ統一を進めるプロイセンには大きな障害だ。国家の近代化にとって鉄道事業と通信事業の体系的な発展は不可欠という認識。
普墺戦争によってドイツ連邦の主導権がオーストリアからプロイセンに移ると、時をおかずに改革に着手する。1867年1月28日にプロイセンはタクシス家に対して、郵便事業に必要な全ての権利と設備をプロイセンに譲渡するよう申し入れた。タクシス家に支払われる補償額は300万ターラー。900万マルクだからおよそ45億円。もちろん宰相ビスマルクの意思である。
1866年の普墺戦争勝利後、ビスマルクは敗者オーストリアに寛大だったと書いた。確かに領土は要求していないし、軍隊をウィーンに入れることも無かったが、郵便事業をハプスブルク家の息がかかったタクシス家から取り上げたのは、何気なく凄い。
これによりプロイセンは郵便事業の国有化に一歩踏み出した。
« 郵便連盟 | トップページ | ハインリヒ・フォン・シュテファン »
コメント