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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2012年11月30日 (金)

遅参

軍隊の到着が遅れること。会戦に間に合わぬことを指すことが多い。もちろん失態だ。大兵力の部隊が間に合うかどうかは決戦の趨勢を決する要素だ。関が原の戦いにおいて東軍徳川家康の嫡男・秀忠の軍勢は決戦に間に合わず家康から叱責されている。勝ったからよいものの負けていたら戦犯だ。

普墺戦争でも遅参があった。プロイセン王国の王太子(後のフリードリヒ3世)の率いる11万が決戦の場ケーニヒスグレーツに遅参した。1866年7月3日夜明けとともに始まった戦闘に間に合わなかった。独墺両軍は膠着状態に入り、王太子の第2軍が間に合うかどうかが焦点となった。国王からのケーニヒスグレーツへの参陣期限は同日の夜明け前だったが、両軍膠着の14時頃にケーニヒスグレーツに入る。天下分け目の決戦はそこから約1時間の戦闘で事実上決着がついた。

戦闘に間に合わぬ遅参は失態だが、適度の遅参は決定打となる。戦闘ところか普墺戦争自体にケリをつける大勲功だったのだが、何と王太子はこれが初陣だったという。その後プロイセン軍内での発言権を増すことになる。だからニコルスブルクではビスマルク側につき父である皇帝の説得に成功する。

2012年11月29日 (木)

普墺戦争のたられば

ケーニヒスグレーツの戦闘一度の大勝で、普墺戦争は事実上決着した。これによりドイツ語圏の盟主がプロイセンに移った。オーストリアが普墺戦争に勝つような戦い方はなかったのだろうか。

プロイセンは、鉄道の輸送力を十分に利用して、動員可能な兵員のおよそ8割をケーニヒスグレーツに集中する作戦に出た。ケーニヒスグレーツで会戦が起きるということを前提にした作戦だ。オーストリアは、プロイセンが準備万端のところにまんまと乗り込んだという形だ。あくまでもベルリンへの侵攻が目標だから最短距離をたどらざるを得ない。

プロイセンの王ウイルヘルム1世は、伝統あるハプスブルク家に弓をひくことを最後まで、躊躇した。開戦には同意したものの先制攻撃を禁じた。そこを逆手にとってオーストリア軍は、わなにかかってケーニヒスグレーツに集結すると見せかけて、そのまま北上してシレジア地方を占領する。ブレスラウの占領を目標にするということだ。この地域は当時ドイツ最大の工業地帯で、マリアテレジアの時代まではオーストリアだった。

ウイーンを急襲されないようにしつつブレスラウを守れば。やがてフランスが仲裁にしゃしゃり出る。ベルリンを攻略できないとはいえ、シレジア地方を押さえて引き分けにもちこめれば、限りなく勝利に近い。

2012年11月28日 (水)

オーストリアの復讐

普墺戦争中のケーニヒスグレーツの戦いについて、負けてもいない第三者のフランスが「サドヴァの屈辱」と称したことは既に述べた。当事者のうち勝者のプロイセンは「弱腰外交」にも見える巧みな外交でフランスの動きを封じた。

しからば敗者オーストリアはどうなったのだろう。

1930年代、南ドイツでヒトラーが台頭した頃、首都ベルリンでは笑えないジョークが広まった。「えっヒトラー?オーストリアの復讐だろ」というものだ。若干の解説が要る。オーストリア出身のヒトラーが大ドイツ主義に基づく侵略思想を掲げて台頭したことが、普墺戦争で敗れたオーストリアの復讐だと言うわけだ。

1932年7月20日ドイツ宰相は、プロイセンの内閣を全員罷免した。プロイセンはドイツの直轄領とされ、プロイセンの息の根は完全に止る。この時にプロイセン側の大規模な抵抗が無かったことが当時も今も議論のタネになっている。もっと大事なことはこれによりドイツ共和制が骨抜きになったことだ。

ブラームスがあと50年遅く生まれてこなくて良かったと思う。

2012年11月27日 (火)

小ドイツ主義

ドイツ統一を進める際、オーストリアのドイツ語圏を除外して進めるという考え方。申すまでも無く「大ドイツ主義」の反対概念。

メッテルニヒが主導したウィーン会議は、神聖ローマ帝国の復活も無ければ、ドイツの統一も無いという微妙な決着になった。オーストリアやフランスなど当時の大国がそれを望んだという側面もある。大小さまざまの領邦と自由都市からなるドイツ連邦はこうして生まれた。

知識層や学生あるいは経済界にドイツ統一を望む声が高まって来る。メッテルニヒは学生運動こそ弾圧したが、ドイツ関税同盟の成立など経済面でのプロイセンの台頭はもはや動かし難いものとなった。当初ドイツ連邦内でのプロイセンの位置はオーストリアの補佐というものだったが、国力の逆転は最早決定的になった。

「政治的には保守」「経済産業政策は急進的」というプロイセン主導の統一を望む声が次第に高まってゆく中、普墺戦争が起きる。ドイツ連邦内での対等の地位を要求するプロイセンとそれを拒むオーストリアの戦争だ。結果はプロイセンの勝ち。オーストリア領内のドイツ語圏を切り離し、プロイセン中心でドイツ統一を目指すという方向性がこれで固まった。

オーストリア・ウィーン在住のハンブルク人ブラームスは、小ドイツ主義によって切り離される側だったが、プロイセンとビスマルクによるドイツ統一を喜んだ。

2012年11月26日 (月)

譜読み音取り

次女の部屋から漏れてくるピアノ五重奏を練習する音。勝手知った曲だからどこを弾いているのか良くわかる。そこをそういう風にさらうのかと、感心しきりだ。そりゃあもちろんセカンドヴァイオリンのパートだから聴きなれた旋律ではない。セカンドの個人練習だけを聴いていても断片的なイメージしか湧かない。それでもまぎれもないブラームス。娘が弾く渾身のブラームス。次女の部活ネタなのにブログ的にもストライクゾーン。

ダイナミクスは二の次で譜読み音取りの段階なのだが、初めて挑む曲に対して次女が日頃どうアプローチするのかが判る。小一時間黙々と音を取る。音程の不安を一個一個取り除く作業。音程のもやもやが見る見る晴れてゆく。頻繁に現れる「タッカ」のリズムは、他の作品にもありがちなので、この段階からキレが備わっている。ブラームス特有のリズムの引っ掛けにも惑わされない。重音の場所は音を端折ることもなく、とりわけ丁寧に弾きこんでいる。ダイナミクスやアクセント、フォルツアンドは後からでいい。

個人練習のこの段階で今の弾きっぷりだと、期待で胸が膨らむ。他のメンバーと合わせたらさらに立体的になる。セカンド一人で弾いていても判らぬ面白みが合わせることで明らかになるハズだ。口出し無用。次女は弾きながら問題を摘出し、修正しそれを直ちに音にしながらもくもくと個人練習に励む。あと1ヶ月少々この練習を聴ける。

2012年11月25日 (日)

嫡男の結婚

ビスマルクの長男ヘルベルト42歳の結婚話だ。お相手はウィーンのホヨス伯爵令嬢マルガリータ22歳。結婚式の会場はウィーン。ビスマルク家総出の盛儀になる。既に政界を引退していたとはいえビスマルクの威光は衰えていない。あろうことか皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との会見まで別にセットされた。これにはドイツ皇帝ウィルヘルム2世がさすがに不快感を表明し、キャンセルされるが、ウィーン市民はビスマルク一家を熱烈に歓迎した。

式は1892年6月21日。いつものように5月中旬には避暑のためイシュルに発っていたから歓迎の人並みにブラームスがまぎれていた可能性はゼロだが、一連のゴタゴタは彼の耳にも入っていたと思われる。式の9日前6月12日には姉のエリーゼが亡くなっているから、ビスマルクどころではなかったかもしれない。

さてこの2人に長男が生まれたのが1897年9月25日ブラームスが没しておよそ半年後だ。名前をオットー・クリスチャン・アルヒバルト・フォン・ビスマルクという。オットー・フォン・ビスマルクと呼ばれているから紛らわしい。キリスト教民主同盟所属の政治家で、1975年に亡くなっている。

2012年11月24日 (土)

執念の仕業

第一大戦の講和条約を一般にベルサイユ条約と言う。パリ・ベルサイユ宮殿で講和会議が開かれたからだ。1919年に締結されたのだが、ここにも昨日同様の必然がある。

正式に内容が確定したのが6月27日だったのだが、この講和会議が始まったのが1919年1月18日だった。ベルサイユ宮殿鏡の間で1871年にドイツ帝国が成立した日だ。この日がそこから170年遡ったプロイセン王国成立の日だったことと合わせてフランス側の受けた屈辱は深くて大きかった。ドイツの敗戦処理を話し合う講和会議がその1月18日に始まったのを偶然とみなしては人が良すぎるだろう。これは完全にフランスの仕返しだ。

さらに6月27日の確定に先立って、条約の内容がドイツ側に内示された日を調べて愕いた。1919年5月7日だった。こちらは執念ではなくおそらく偶然だ。

2012年11月23日 (金)

必然と偶然と

普仏戦争勝利を受けたドイツ帝国の成立1871年1月18日である。この日プロイセン王ウィルヘルム1世が、パリ・ベルサイユ宮殿鏡の間で、ドイツ皇帝に即位した。この日付1月18日というのは、実は縁起を担いだ結果である。

きっちり170年遡った1701年1月18日、ケーニヒスベルクで、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、晴れてプロイセンにおける王フリードリヒ1世になった。プロイセン王国の成立である。

ドイツ帝国成立の認証式の日取り決定には、プロイセン王国成立170周年の記念日が意図的に選ばれた。認証式はまさに国威発揚の場だから、ありとあらゆる事項が総動員で利用された。フランス人たちは、もちろんオーストリアやバイエルンの関係者にとっても、内心面白くないに決まっている。おそらくビスマルクの意向が反映していたと思われる。

そして、それらとは全く関係のない奇遇が一つ。ドイツ帝国成立から88年後の1959年1月18日こそが、私の両親の結婚記念日になっている。そして長男の私は翌年の1月24日、フリードリヒ大王と同じ誕生日に生まれた。

2012年11月22日 (木)

職場オケ

従業員が仕事の合間にさまざまな文化活動を継続的に行うことがある。学校の部活よりは制約も多いが、なかなか盛んである。不景気の逆風を受けやすいというのが難点か。従業員オケを持っている会社もたま~に見かける。

ドイツの産業革命を牽引した大企業にクルップ社がある。現在も存続する鉄鋼コンツェルンだが、当初はレールなどの鉄道資材と大砲などの武器が基幹商品だった。同社の大砲は日本にも輸出されていたようだ。産業革命と富国強兵によって大躍進を遂げた。躍進に必要な労働者たちを工場の周辺に住まわせるための20000人規模の住宅団地を造成するまでになった。社宅の走りである。

衣食住のうちの「住」が安定確保されると。次に余暇を考えるようになる。1889年には従業員が自発的に教育協会を設立した。業務後や休日を使って従業員に一般的教養と教育的娯楽を提供するのが設立趣旨で、クルップ社もこの活動を公認する。設立から15年で会員は6000名を超えたといわれている。

一方団地や職場にレストランやパブが作られ、従業員で大賑わいとなるうちに、そうした場所を根城にサークルが生まれる。混声合唱、文学、チェス、写真、フェンシングなどに混じってオーケストラがあった。世界最初の職場オケと目される。1903年には年間15回の演奏会を開催し、ハイドンやベートーヴェンが取り上げられたらしいが、プログラムにブラームスがあったかどうかは確認出来ていない。仮にチャイコフスキーの「序曲1812年」を演奏するとしよう。そのとき曲中に現れる大砲は自社製でしたというノリを是非とも期待したいところである。

2012年11月21日 (水)

ツァイス

1816年イェーナ生まれの技術者でカール・フリードリヒ・ツァイスという。1846年故郷イェーナに顕微鏡製造会社を設立し1880年代にはこの道のトップ企業となる。今でもレンズや光学機器のトップメーカーの座にある。サッカークラブのイェーナを傘下におくが今年は3部にも入れていない。

コッホによるさまざまな病原菌の発見は、1880年代だ。ツァイスの顕微鏡の功績は明らかである。

  • さて、森鴎外「独逸日記」1885年8月23日の記事に鴎外の言い訳が現れる。最近バカンス旅行が流行している。お金が無いのを悟られないために無理やりバカンスに出かける婦人も多いとある。夏のバカンスのこの時期、鴎外自身も郊外に出かけたいのだが節約のためにあきらめている口ぶり。節約の目的が顕微鏡だったと明かされる。友人に自慢したいほどの高性能なのだが、値段も「廉ならず」と嘆く。500マルクだと言っている。当時の鴎外の俸給が年間3000マルク程度だから、2か月分に相当する。当時のライプチヒの下宿代が月100マルクだったから顕微鏡1台に500マルクはかなりのものだ。
  • そしておそらくこの顕微鏡はツァイス製に違いない。

  • 2012年11月20日 (火)

    旧古河家庭園

    東京滝野川に旧古河家庭園がある。もともと陸奥宗光の所有だったが、彼の次男が古河市兵衛の養子になった縁で、古河家のものとなった。古河市兵衛は鉱山の開発で名を成し、足尾銅山も同家の所有するところである。1832年生まれだからブラームスとほぼ同時代の人。銅の需要を掘り起こすために彼が目をつけたのは、電機事業だった。ドイツのトップメーカージーメンス社と急速に接近する。

    念願の合弁にこぎつけたのが二代目潤吉だった。1921年のことだ。合弁によって生まれた新会社の名前は「古河」の「ふ」と「ジーメンス」の「じ」を組み合わせたといえば、今なお存続する大企業だとわかるハズだ。

    ジーメンスと日本の関係で名高いのは1914年におきたジーメンス事件。海軍高官に渡ったリベートが発覚し総理大臣の辞任に発展した疑獄事件。海軍無線電信所船橋送信所の設置に伴う、無線機器一式の発注に便宜を図るためのリベートだったという。日米開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」もここから発信された。ここは我が家に近い。跡地の公園にも遊びに行ったことがある。現在も道路が円を描いているのが特徴だ。

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    2012年11月19日 (月)

    余韻

    次女のオケが全国大会で金賞を受賞した余韻にまだ浸っている。審査員の先生方の講評を読むのもそのうちの一つだ。私宛に直接メールをくれた人もいる。さらに11月12日の記事「全国大会」には2つの嬉しいコメントが寄せられた。

    一件目は、「m」と名乗る人物。今回のコンクールでは次女たちの次の学校もボロディンの第二交響曲の第4楽章を演奏した。課題曲でもないのに2校続けてとはかなりな奇遇。コメントの主は我々の次にボロディンを演奏した学校の部長さんだった。一読した印象で顧問の先生からの書き込みかと早合点したが、よく読むと表彰式で娘らのオケの部長副部長に話しかけたとある。むむむ。表彰式でステージに上がったとなると顧問の先生ではなくて生徒ということに他ならない。背筋に電流が走った。何というバランスのとれた文体だろう。顧問の先生からの書き込みと思い込んだのはその落ち着き払ったトーンのせいだ。冷静にして沈着だが、熱意も気迫も伝わってくる。次女たちの演奏後すぐに帰路に着く予定だったが、同じ曲だからと言うことで踏みとどまった。もし聴かずに帰っていたら取り返しのつかぬ失態を演ずることになった。この熱いエールに返信する資格を失っていたところだ。

    2曲続けて同じ曲というのは、後から演奏する側のプレッシャーは尋常ではあるまい。前の学校が自分らと同じ曲を演奏するのを舞台袖で聴かされると言うことだ。ボロディンに挑む困難は多少なりもわかっているつもりだが、さらにそうしたプレッシャーをはねのけての演奏だった。部長さんのこの姿勢はおそらく彼ら全体の水準の反映に違いあるまい。年末のオケフェスでまた聴かせてもらえたら嬉しい限り。

    二件目は、名無しの人物だが、コメント内容から次女たちの2学年上のOGだと判る。全国金賞の知らせを聞いて私のブログに辿り着いてくれた模様。現役生たちの苦労を思うと落涙寸前だったとまで書かれている。まだ大学1年生のハズの彼女の書き込みもまた慈愛に満ちたものだ。保護者の協力あってこそと持ち上げてくれるがとんでもない。むしろ後輩の快挙を我がことのように喜ぶ先輩の方がよほど貴重だ。

    私はこの2件のコメントを繰り返し繰り返し読んでレスを打った。親としてこれらの熱い思いに過不足無く答えようと肩に力が入った。熱い余韻。

    さて、全国大会とそれに継ぐ修学旅行をいいことに次女のオケネタが続いた。親バカなら誰にも負けませんとばかりにずっと続けるくらい朝飯前なのだが、修学旅行から昨日帰宅したので今日の記事をもって一旦けじめをつけて、明日からまたドイツの歴史に戻ることにする。

    2012年11月18日 (日)

    講評の中身

    先の全国大会における次女たちの演奏に対する講評を読むことができた。プロフェッショナルな音楽家5名による評価がそれぞれの文体で表現されている。審査員の先生方の専門は以下の通り。

    1. ファゴット
    2. トランペット
    3. 指揮
    4. 打楽器
    5. ヴァイオリン

    見ての通りの端正なバランス。5名の先生がそれぞれの視点から娘たちの演奏を評価してくれている。大変興味深く読ませていただいた。何といってもそこはコンクールの正式コメントだから、独特の言い回しが見られる。概ね好意的なニュアンスだが、「こうしたらもっとよくなる」的なアドバイスも充実している。

    中でも受けたのがお一方から寄せられた「よく暗譜出来るね」というコメント。

    次女も「そこかよ」と苦笑いだった。千葉県大会では当たり前だし、先輩方もずっと暗譜でやってきたと言っている。暗譜すること自体で苦労したことはないとまで断言する。微妙な響きや音質のイメージまで含めた呼吸合わせが難しいともいう。今更暗譜を褒められてもねェと困惑混じりだ。

    いやそうではない。暗譜への称賛はもっと奥が深いと見た。審査員の先生は皆プロフェッショナル。演奏経験はもちろん審査員の経験も豊富で、一部のコンクールでは暗譜がお決まりという事情など百も承知のハズ。それを差し引いてもなお「暗譜出来るんか」という賞賛だと解したい。「暗譜」の下敷きになっている質量充実の練習ぶりに思いを馳せているに違いない。自然に暗譜出来てしまうほどの練習量を遠回しに褒めてくれているのだ。あるいはあるいは、ボロディンの第二交響曲第4楽章をとりわけ暗譜困難だと認識なさっている証拠とも受け取れる。各自が自分のパート譜をそれぞれ完璧に暗譜出来たところで、それがゴールではない難しさがある。それらが克服されていますねという意味合いもあるに違いない。

    ただ一人名指しのブラボーをいただいたピッコロ。ソロコンではないのだからコンクールの講評でピンポイント名指しのブラボーはありがたい。確かにキリリと澄み切ったノーブルなソロだった。

    2012年11月17日 (土)

    胎動

    一昨日次女たちが一大事に遭遇して「いざ鎌倉」とばかりに駆けつけた学校では、修学旅行中の2年生がいないのに留守番の1年生たちが粛々と練習をしていた。合唱部の部屋からはとても1年生だけとは思えない、キリリと澄み切ったハーモニーも聞こえていた。さすがである。

    オケ部も一年生オケの状態で合奏練習。ちょうど駆けつけたときアンダーソンの「シンコペーテドクロック」を練習していた。今日が初めての合奏だというのに何やらまともだ。顧問の先生はアンダーソン特有のスイングをしきりに要求するのだが、どうも皆真面目過ぎる。それでもちょっとアドヴァイスするだけで簡単に交通整理が進む。音の間違いをサクサク指摘すると、次にはもう別モンの響き。何とも感度のいいオケだ。

    30分ほどで次の曲「ふるさと」に移る。第一ヴァイオリンがアップボウのピアニシモで始める出だしを聞いて鳥肌がたった。34代35代が出す音にそっくり。いやはや芯の通ったピアニシモだ。アンダンテ相当の3拍子にハープのアルペジオと来ればドイツレクイエムさながらだ。真面目過ぎる彼女ら1年生37代にはピッタリとはまり込む。

    先の全国金賞は、次女たち36代を真面目な彼女らが支えていたことも忘れてはならない。キリリと真面目な1年生が裾野を形成してこそのボロディンだ。

    さらに特筆すべきは、2014年ドイツ公演があるとすれば、この37代が主役を張るということ。彼らのはじめての合奏練習にひょんなことから立ち会えた私は幸せ者だ。

    今日、その1年生オケが成果を披露する演奏会がある。

    2012年11月16日 (金)

    エントリークライシス

    コンクールに申し込みをすることをエントリーという。次女が仲間とブラームスのピアノ五重奏曲を演奏することになったことは既に言及しておいた。本番は来年1月12日。その締め切りは今日。必要書類が事務局に今日中に届くことをもってエントリーが完了する仕組みになっている。

    事件は昨日起きた。修学旅行に昨日朝でかけたばかりの次女から午後1時過ぎにメール。仕事中だったのですぐに確認が出来ず、事態を把握したのがもう3時を過ぎていた。コンクールエントリーには、演奏する楽譜の表紙をコピーして申込書に添付しなければならないのに、メンバーが皆修学旅行に出払っているので、コピーが出来ないという内容。締め切りは事務局に16日必着という詰まりっぷりだ。次女によればその楽譜は家の自室にあるらしいが、どこにしまったかは記憶にないという。15日中に顧問の先生に届けられなければ、コンクールへの参加資格を失うと、明らかに狼狽したメールだった。

    家に戻って次女の部屋を探して楽譜を学校に届けるというのが、オーソドックスな方法だが、私の結論は違った。これはおそらく音楽の神様の警告だ。もしかするとブラームスの警告かもしれないと受け止めた。次女を通じてメンバーに届けられたパート譜は、20年以上前に私が買い求めた代物だ。既に黄ばみも進行している。亡き妻を含む仲間と演奏に興じた思い出の楽譜なのだが、コンクールに挑む娘らが練習に使う楽譜としては物足りない。アメリカの某出版社から出された楽譜で、当時は安さに釣られて飛びついた代物だ。次女たちがコンクール曲にブラームスのピアノ五重奏を選んだときから、実は気にしていた。

    コンクール本番では暗譜で、楽譜なんぞ見たりはしないのだが、そこに至る練習の過程では楽譜は必須だ。作曲家ブラームスとメンバーを繋ぐ唯一の架け橋だからだ。ブラームスはとりわけ学習者に対して、楽譜の選択にうるさかった。適切な版を選べと。ましてやコンクールに挑もうかというときにそこいらの廉価版では困るのだ。申し込み書に使用楽譜の出版社名を記入し、楽譜表紙のコピー添付を義務付けられている中、それが訳の判らぬ廉価版では、書類選考で落されかねない。出版社欄には是が非でも「G.Henle Verlag」と書かねばならぬ。コピーされた表紙には「URTEXT」(原典版)の文字が躍っていなければならぬ。

    という訳で、少々早めに会社を抜け出して行きつけの楽譜ショップに飛び込んで、売り場を物色した。ブラームスのピアノ五重奏の品揃えは2種。ブライトコップフとヘンレだ。価格で申せばヘンレはブライトコップフの2倍もするが、ここは迷わずヘンレ一択。ブラームスの没後の全集の刊行はブライトコップフからだったが、ブラームス生存中はブライトコップフとは絶交状態にあった。弦楽六重奏第2番にからむトラブルが原因だ。だからここでブライトコップフは有り得ない。ヘンレはマッコークルの出版社でもあるのでありがたみが違う。紙質や製本の具合もよく、譜めくりもし易い。

    いそいそと買いこんで学校に駆けつけて事なきを得た。いくつかの不幸な手違いが原因なのだと思うが、私にしてみれば、気がかりを一気に解消するキッカケだった。私がしてやれることはこれくらいで、後は祈ることでしかない。はっきり言って「お安い御用」状態。メンバーは折角の修学旅行初日だというのに、とんだエントリー騒ぎに心をいためたのだろう。あのまま某廉価版の楽譜で、挑戦させていたら、あとからブラームスに「お前がついていて何故?」とどやされたに違いない。これでブラームスにご加護をお願いする準備が整った。

    乙女たちのクインテットに幸あれ。

    2012年11月15日 (木)

    乙女の休日

    全日音研で演奏を披露した翌日から、1泊2日で全国大会に出かけて土日を消化、当然ながら代休無しで月曜から通常授業と部活が再開し昨日14日水曜までやり過ごした後、今日から3泊4日の修学旅行に出かけた。親の私はまだまだ金賞の余韻に浸っていると言うのに、面目躍如のアクティブな高校生活だ。

    同時に今日は大きな節目。ちょうど半年後の5月14日は第20回スペシャルコンサートに相当する。つまり次女たち36代の引退まであと半年ということだ。

    今日からの修学旅行の期間中はもちろん部活はなくて、楽器にも触らない。古都の秋を満喫せよ。

    2012年11月14日 (水)

    ブリッジパッセージ

    ボロディンの第二交響曲は、第3楽章と第4楽章の間が繋がっている。次女たちオケがコンクールに挑んだのは確かに、名目上ボロディンの交響曲第2番第4楽章なのだが、演奏の開始場所は第4楽章冒頭にはなっていない。第3楽章の終末近い123小節目、第3楽章冒頭を模したクラリネットのソロが、ハープの和弦を伴って立ち上がるところからになっている。チェロ嬰ヘ音のシンコペーションを期待する向きには若干の肩透かしだ。

    ハープ、クラリネット、ホルン、ヴィオラ、ティンパニが醸し出すこの雰囲気を下敷きに、第4楽章を準備する。その中でチェロが立ち上がることにこそ意味があるという強烈な主張が込められている。その証拠に先般のホール練では、他の楽器を延々と休ませて、この部分の音作りに万全を期した。クラリネットから2小節遅れて入れ替わるホルン。さらに遅れてハープのアルペジオ上行の到達点で、上下にディヴィジされたセカンドヴァイオリンが変ニ音と変イ音を差し挟む。その瞬間でこそヴィオラのヘ音のおかげで変ニ長調が確立されているが、やがてヴィオラが抜けてしまい、うつろな5度だけが取り残される。

    そうそれは本当に本当に大事な音だ。その取り残された5度が2本のスラーで引き伸ばされて第4楽章に繋がっているからだ。第4楽章になだれこむ瞬間に、セカンドヴァイオリンの5度は嬰ハ音と嬰ト音に早変りをかます。楽章の調号がフラット5個からシャープ5個に一瞬で切り替わる大胆なピポットの中心にセカンドヴァイオリンがいる。

    コンクール本番で、第4楽章に先立ってこの6小節を聞かせる意味は深くて重い。それを担うセカンドヴァイオリンの入りは126小節目。弓の毛3本でとアドヴァイスされた繊細な伸ばし。この瞬間セカンドを率いる次女のアクションは本当にまぶしかった。親冥利に尽きる。本当に控えめながらセカンドの仲間たちに目一杯のメッセージを送る。それを受けるセカンドのメンバーはもちろん、オケ全員がこの場所の重要性を腹に入れている。難解華麗なパッセージではないが、音楽的意味は極大。オケの醍醐味だ。

    2012年11月13日 (火)

    企業売上高ランキング

    アメリカの経済誌「フォーチュン」が発表する世界企業売上高ランキング500という資料がある。グローバルなビジネスマンの必携かはともかく、とかく話のタネになる。ブログ「ブラームスの辞書」では、このうちのドイツ企業について2010年版から抽出を試みた。「ドイツ内順位」「世界順位」「社名」「本社所在地」「コメント」の順に記載する。

    1. 016 Volkswagen Wolfsburg 1937年創業の国民車構想の落し子。
    2. 020 Alianz Munchen 1880年創業のドイツ最大の保険会社。
    3. 027 E.ON Dusseldorf 2000年に合併によって創設されたドイツ最大の電力会社。
    4. 030 Daimler Stuttgart 1883年創業の世界最古の自動車会社。
    5. 040 Siemens Munchen 1847年創業ブラームスとも日本とも関係が深い多国籍企業。
    6. 057 Metro Dusseldorf ドイツ最大の食品卸業。
    7. 059 Deutsche Telekom Bonn 1995年民営化により成立の電話会社。
    8. 073 Munchen Re Group Munchen 1880年にさかのぼる保険会社。
    9. 081 BASF Ludwigshafen 1865年創立の総合化学会社。
    10. 082 BMW Munchen 1916年創立の自動車メーカー。
    11. 086 Deutsche Post Bonn 1990年政府所有企業の分割民営化で誕生。 
    12. 101 RWE Essen 1898年まで遡る電力会社。
    13. 113 Deutsche Bank Frankfurt 1870年創立のドイツ最大の銀行。
    14. 123 ThyssenKrupp Dusseldorf 1999年合併により誕生。クルップ砲の会社だ。
    15. 129 Robert Bosch Stuttgart 1886年創設の自動車部品メーカー。
    16. 170 Bayer Leverkusen  1863年創設。アスピリンで名高い製薬会社。
    17. 177 Deutsche Bahn Berlin 1994年にドイツ国鉄の民営化により発足。
    18. 212 DZ Bank Frankfurt 1887年創立の銀行。DeutscheZentralの略。
    19. 213 Commerzbank Frankfurt 1870年創立。ドイツ第二の銀行。
    20. 219 Franz Haniel Duisburg 持ち株会社。
    21. 246 Lufthansa Koln 1926年創立のドイツ最大の航空会社。
    22. 259 Landesbank Baden-Wuttemberg Stuttgart 銀行。
    23. 261 Edeka Zentrale Hamburg ドイツ最大の小売業。
    24. 287 Continental Hannover 1870年創業のドイツ最大のタイヤメーカー。
    25. 321 KFW Bankengruppe Frankfurt 銀行。
    26. 322 Hochtief Essen ドイツ最大のゼネコン。
    27. 345 Bayerische Landesbank Munchen 銀行。
    28. 367 Norddeutsche Landesbank Hannover 銀行。
    29. 381 Heraeus Holding Hanau 化学会社。
    30. 392 Bertelsman Gutersloh 1835年出版社として創業。現在はマルチメディア化。
    31. 406 Energie Baden-wurtemberg Karlsruhe 電力会社。
    32. 439 Fresenius Bad Homburg  医療品メーカー。
    33. 449 TUI Hannover ドイツ最大の旅行代理店。
    34. 457 Henkel Dusseldorf  1876年洗剤製造業として創立。総合家庭用品メーカー。
    35. 463 Boehringer Ingelheim Ingelheim 1859年創業の製薬会社。
    36. 470 Evonik Industries Essen 化成品メーカー。
    37. 490 Man Gruppe Munchen 自動車部品メーカー。

    いやはや、たかだかブラームスの作品に親しもうというだけなのに、何故ドイツ企業ランキングが要るのか、我ながら説明に苦しむ。単なる企業の売上高順位なのだが、ここにも歴史が色濃く刻印されている。

    たとえばドイツ企業のランクインは37社で第5位。ランクイン数ナンバーワンはアメリカで139社。日本は71社で2位。ドイツのランクイン37社の本社所在地を調べてみた。

    1. ミュンヘン 6社
    2. フランクフルト 4社
    3. デュッセルドルフ 4社
    4. エッセン 3社
    5. ハノーファー 3社
    6. シュトッゥトガルト 3社
    7. ボン 2社
    8. バートホンブルク 1社(どこやねん!)
    9. ベルリン 1社
    10. ケルン 1社
    11. デュイスブルク 1社
    12. グーテルスロー 1社
    13. ハンブルク 1社
    14. ハーナウ 1社
    15. インゲルハイム 1社
    16. カールスルーエ 1社
    17. レヴァークーゼン 1社
    18. ルートヴィヒスハーフェン 1社
    19. ヴォルフスブルク 1社

    37社の本社所在地が19都市に分散するのはまさに連邦制ならではと感じる。本社所在地がただちに社業の中心とは限らないが、目安以上の価値があると思う。

    首都のベルリンがたったの1社だというのも面白い。アメリカやスイスなども首都の相対的な位置づけが低いと思われるが、1社とは極端。ドイツ第一位のフォルクスワーゲン社の本社は人口12万少々のヴォルフスブルクにある。

    さらにこれら19都市はベルリンを除いて旧西ドイツにある。そのベルリンだって西ベルリンだった可能性が高い。東西格差は依然存在するかもしれない。

    ブラームスの故郷ハンブルクは、古来欧州最大の港町という位置づけだが、たったの1社しか出てこない。

    2012年11月12日 (月)

    全国大会

    次女のオケの晴れ舞台に母を連れて応援に出かけた。秋の東北路を、買ったばかりの車でドライブ。周囲の山々の紅葉が見事で、そちらも楽しめた。14時には会場入りし、17時開会の高校の部を待つ。母にとってはコンクール形式は初めての経験。次から次へといろいろな学校の演奏が聴けるので、飽きなかったと言っている。中学の部の審査が遅れたため、高校の部もスライドで遅れた。次女たちの出番を待つ間の緊張感がたまらない。

    結果は金賞。グランプリにあたる文部科学大臣賞は、千葉県代表のストラヴィン高校だ。予選のときと変らぬ出来で、文字通り他を圧していた。

    それでも「全国で金」は勲章。

    弦楽器奏者たちが精魂をこめた16分音符のフレーズは、音の粒立ちが、先般のホール練のときほどではなかった。全体に横溢する彼女ら独特のトーンは健在で一安心だが、ストラヴィン高校をひっくり返すには至らず。千葉県大会から全国大会を迎える間約1ヶ月の、心のありようとして、「本番では逆転」を合言葉に親の私が盛り上がっていたが、終わってみれば、「金で御の字」と娘をねぎらった。昨夜は「金賞おめでとう」のメッセージを入れてもらったケーキでお祝いした。

    記念すべき第1回の全国大会で金賞に名を連ねた意味は大きい。近い将来この大会の規模と権威が高まるとすれば、そのときにはこの快挙がさらに輝きを増すだろう。

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    2012年11月11日 (日)

    ハッチ

    昨日、福島県郡山市で日本学校合奏コンクール2012が開催された。次女たちオケも参戦するということで、ここ最近本丸のビスマルク特集も押しのけながら記事の発信が続いた。

    次女の全国大会参加が強烈な奇遇を手繰り寄せた。学生時代の後輩と28年ぶりの再会が実現した。ハッチは私の2つ後輩で亡き妻にとっては一個先輩のヴァイオリン弾き。妻とは学部学科も同じだった。多分彼女が大学を卒業して郷里で就職して以来会っていなかったのだが、次女の全国大会進出を聞いて、立派なご子息と元気なお母様の3人で応援に駆けつけてくれた。

    高校の部開演前のホワイエで、感動の再会。積もる話はヤマほどあるのだが、次女への声援優先だったこともあって、長話にはならなかったが、かえってこれくらいがちょうどいいのかもしれない。ひとまず次女はセカンドのトップ奏者だからとドヤ顔気味で伝えた。演奏後昔のままの笑顔で誉めてくれた。次女を私そっくりだという殺し文句もやけに自然な感じ。おまけに次女宛にと素敵なプレゼントを届けてくれた。

    お礼が妙にぎこちなくなってしまった自覚があるのでこの場で改めて感謝。

    28年とは鉄血宰相ビスマルクが、プロイセンあるいはドイツ帝国で宰相の座にあった長い長い時間と同じだなどど、白々しくビスマルクにこじつけてみる。

    2012年11月10日 (土)

    全日音研

    一昨日と昨日の2日間の日程で、次女の通う高校を会場とした研究会があった。全日音研という名の通り、全国から音楽の先生が集まる。公開授業あり、著名人の講演ありの充実の日程の中、昨日全国大会への出場を翌日に控えた娘たちのオケが、歓迎の演奏を披露した。

    当然私は聞きに行けなかったのだが、集まった先生からも盛大なる拍手をいただけたと娘が申している。その演奏の途中で実は大ハプニング。セカンドヴァイオリンのトップ奏者である次女のE線が演奏中に切れたのだ。ボロディンの第二交響曲より3、4楽章のうち第3楽章のトレモロのあたりだったと言っている。瞬間頭の中が空っぽになって、動揺したがトップサイドの相棒が、自らの楽器を差し出してくれて我に返ったらしい。後方においてあるスペアの楽器を頼りに順繰りに楽器を回して事なきを得たという。

    トップサイドの相棒の冷静な対応がMVP級だ。演奏会本番に弦が切れた経験は私にもない。ドイツでスプリンクラーが暴発したときよりも動揺したらしい。集まった先生方の拍手には、このハプニングに対する冷静な対応への称賛もいくぶんか含まれているだろう。

    今日の全国大会を前に不吉だなどと考えてはいけない。むしろ今夕の本番中でなくてよかったととらえるべきだ。オケの他のメンバーは前日のハプニングを皆知っている。だから今度起きても対応できる。オケに降りかかる災厄の全てを次女のE線が背負って切れていったと解するべきだ。次女が前回E線を変えたのは10月14日のコンクール千葉県予選の直前だった。だからまだ1ヶ月も経っていない。あれから仲間と積み重ねた練習の厚みが、一月持たずにE線を断ち切って見せた。このハプニングで仲間との結束は一段と高まったと見たい。

    これは吉兆以外の何者でもない。乙女たちよ恐れるな。戦いは今日。

    2012年11月 9日 (金)

    ランゲンベック祭

    1888年3月9日のウィルヘルム1世崩御の記事を境に「独逸日記」の記述が薄くなる。プロイセン近衛歩兵連隊への勤務を命じられたことで、「隊務日記」と題する別の日記に記述の中心が移ったからだ。1888年4月以降の記述は本当にわずか。

    その空白を補うためによせばいいのに「隊務日記」を調べようと思い立った。これが実に難解。完全な漢文で書かれている。独逸日記は漢文読み下し調だから慣れれば何とかなるのだが、完全な漢文ではお手上げ。英語よりも厄介だ。鴎外が律儀に添えてくれているドイツ語の原文が頼り。3月10日の辞令交付の日から始まっておよそ1ヵ月後の4月3日の記事に耳寄りな情報があった。

    1888年4月3日の記事にランゲンベック祭が出てくる。ランゲンベックとはドイツの高名な外科医でベルリン大学教授で、デンマーク戦争では軍医正も勤めた。軍医外科として尊敬を集める存在だったため、1887年9月29日の没から半年を期してドイツ軍軍医団が感謝の集まりを企画した。鴎外は上司の石黒某とともにこれに招かれたということだ。

    その会場を見てぎょっとした。「Philharmonie」となっている。いわずと知れたベルリンフィルの本拠地。1963年に竣工した現在のホールではなくて、1882年にベルンブルガー通りに建設された旧フィルハーモニーだ。さらに読み進めると、メンデルスゾーンやハイドンの名前が出てくる。独逸日記には作曲家の名前は全く出現しなかったから、実に意外。ここでブラームスが出てきていたら完璧だったのだが。昨日の記事で「独逸日記」は、音楽系の記述が薄いと書いたのだが、それを引き継いだ「隊務日記」にお宝が眠っていた。

    ビューローが常任指揮者に就任したのが1887年秋からだから、ビューロー最初のシーズンが終わる頃に相当する。このシーズン最後の公演は4月20日だったことが判明している。この後、同ホールは大規模な改修を受けている。

    2012年11月 8日 (木)

    鴎外のコンサートホール

    ブラームスと同時代だというだけで、鴎外ネタが今や大手を振っている。さらにエスカレートする。森鴎外の「独逸日記」に現れる演奏会場を一覧表にする。

    <ライプチヒ>

    1. Gewandhaus 直接の言及は無い。1885年3月11日の記事に「ザンクトパウリ唱歌会に行く」という記事がある。ザンクトパウリ唱歌会はライプチヒ大学男声合唱団のことで、同合唱団の練習場所が聖パウロ教会だったことからついた通称。演奏会場はゲヴェントハウスだったから、鴎外が招かれたのもゲンヴァントハウスである可能性が高い。およそ6年前1879年1月1日に同ホールでブラームスのヴァイオリン協奏曲が初演されている。
    2. Bayerisher Bahnhof ライプヒチのバイエルン方面駅。1885年6月10日に記述がある。いわゆる駅コンだ。
    3. Krystallpalast 水晶宮と記される。1885年7月19日および8月19日。
    4. Connservatrium der musik in Leipzig ライプチヒ滞在中の記述に散見される。市楽堂と標記されているからてっきりホールかと思っていたが、これがなんと後のライプチヒ音楽院のことだった。

    <ドレスデン>

    1. Gewerbehaus 1885年12月15日ここで演奏会を鑑賞。産業会館くらいの意味。
    2. Mainhold'ssaale 1886年2月15日。マインホルトホール。「マインホルト」は人名だ。

    <ミュンヘン>

    1. Colosseum 1886年10月13日。場所不明だが、シロフォンの演奏を聴いて感心しきり。
    2. Odeon 1886年10月26日。ミュンヘン府の楽堂だと書かれているが、換気の実験だとも書いてある。音楽を聴いたかどうかは不明。

    <カールスルーエ>

    1. Museumes Gesellschaft 聚珍会館と標記される1887年9月24日の記述。

    <ベルリン>

    1. Archtectenhaus 工家堂と表記されて1886年1月31日に現れる。建築会館くらいの意味だと思われる。

    かなりの回数音楽を聴きに行っているのだが、残念なことに曲目や作曲者への言及が全く抜けている。ブラームスが無かったとも有ったとも結論できない。演劇を鑑賞した際には、題名、作者、俳優の名前に言及しているのに対して音楽作品への興味が一段落ちていたことと推測される。

    2012年11月 7日 (水)

    鴎外のアーセナル

    長男や私は欧州のサッカーに親しんでいるから、アーセナルと言えば英国プレミアリーグに所属するロンドンのあの名門クラブを思い出す。明治の文豪森鴎外が英国アーセナルのサポーターだったという話ではないが、小ネタを一つ。

    「独逸日記」の1887年10月5日の記事。ウィーンを訪問した鴎外は市内の軍事施設を見学する。その中に「武庫」が出てくる。その武庫の後ろには「Arsenal」と添えられている。これがまさにあのロンドンのアーセナルと同じ綴りだ。そのつもりであれこれ辞書を引くと「Arsenal」は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語において皆同じ意味だった。すなわち「兵器工場」もしくは「兵器庫」を意味する。イタリア語であっても語尾に「e」が付与されて同じ意味になる。

    いざ戦争と言う段になって、予備役に召集がかかる。これが「動員」である。このとき馳せ参ずる予備役たちはあらかじめ決められた師団に集まって、そこで武器を支給される。だから師団があるような大きな都市には、必ず武器庫があった。

    英国ロンドンの名門クラブであるアーセナルの前身は、王立兵器廠の従業員で組織されたチームだった。王立兵器廠つまり「ロイヤルアーセナル」サッカークラブの創設は1886年であるから、鴎外のドイツ留学の時期に重なる。

    一方同じ独逸日記の1885年10月17日の記述によれば、鴎外がドレスデンの武器庫を訪れたことが判るのだが、こちらには原文のスペルが添えられていない。事実上こちらもアーセナルであった可能性が高い。ウィーンのレンヴェクにあったアーセナルの前を1度くらいはブラームスも通ったことはあると考えられる。

    2012年11月 6日 (火)

    鴎外の見たスポーツ

    鴎外の「独逸日記」に現れるスポーツを一覧化する。

    1. 踏氷の戯 1885年1月29日ライプチヒ。「踏氷を観た」という記述についで「男女氷履を穿き、手を携えて表面に遊戯す」とある。これは現代のスケートだ。鴎外は「Schlittschuhfahren」というスペルも併記する。ライプチヒ郊外の池での話。
    2. 九柱戯 1886年2月8日ドレスデン。円錐戯会の創業式に臨んだことが判る。円錐戯会には原文「Kegelclub」と添えられている。これはモーツアルトの室内楽にもその名を残すケーゲルシュタット九柱戯だ。ボウリングに似た球技。1886年6月7日の記述によれば、鴎外もプレイしたことが判る。
    3. 撞球戯 1885年5月29日ベルリン・カフェバウアーにて。本文記述には単に「球技を為す」としか書いていないが、場所がカフェだと明記されているから、自動的にビリヤードだと判る。「撞球戯」という単語は1885年12月25日、1885年9月5日、1886年11月16日にも出現する。特に1885年9月5日の記事から鴎外本人がこれをプレーしたことも判明している。鴎外はビリヤードの入門書「Das Billardspiel」という小冊子を持っていた。
    4. 打球戯 1885年8月27日。「午後打球戯を為す」と書いてある。この「打球戯」は種目が特定できない。「球を打つスポーツ」であることは間違いなさそうだ。野球、テニス、バレーボール、卓球、ゴルフ、ポロ、クリケットなど候補はたくさんある。ヒントはこの日付だ。この前後鴎外はザクセン軍の演習に参加している。この日は陣中泊だった。ドイツ3部作のひとつ「文づかい」は、この演習の経験を土台に書かれている。その「文づかい」の中にクリケットが現れる。主人公がクリケットをプレーしたが思うに任せなかったことが取り入れられている。おそらく打球戯はクリケットだと思う。
    5. 水泳 1886年9月5日 シュタルンベルク湖畔レオニーの記述。「水浅き処に家建つ。床無し。婦人の遊泳するところなり」とある。当時女性の水泳は一目につかぬよう衝立を張り巡らせていた。その習慣の目撃証言になっている。
    6. 海水浴 1885年8月23日。友人のトーマスがリューゲン島ザスニッツの浴場にいるので手紙を出したとある。「浴場」は「海水浴場」だ。リューゲン島のザスニッツには1876年夏にブラームスが滞在し、第一交響曲の構想を練ったところ。ドイツでは有名な避暑地で海水浴のメッカだった。もちろんブラームスも海水浴をしたことが、ヘンシェルによって証言されている。
    7. 角てい 字が打てない。「角」偏に「底」という字。1886年7月30日。シュタルベルク湖畔で、日本人の連れと相撲をとった。
    8. 競争 かけっこだ。相撲と同じ1886年7月30日。仲間と競争を為す。鴎外は負けたけれど相撲と違って頭痛にはならなかったという。

    なかなか面白い。これだけの字数を費やして一番言いたかったことは、サッカーが無ということだ。ドイツの古いクラブはその発生を19世紀に遡るのだが、鴎外はこれを日記に残していない。

    2012年11月 5日 (月)

    土砂降り続き

    「土砂降りの雨」が続くことを「フリッツワルターヴェッター」という。「FritzWalter-wetter」だ。辞書には載っていないことが多い。

    1954年スイスで開催されたサッカーのワールドカップで当時の西ドイツは下馬評を裏切って優勝する。記事「逆転の秘策」でそのことに絡めて娘らのリベンジにエールを送ったばかりだ。そのときのドイツ代表のキープレイヤーがフリッツワルターだった。現在ブンデスリーガに所属のカイザースラウテルンの本拠地フリッツワルターシュタディオンにその名を遺している伝説のプレイヤーだ。

    当時無敵を誇ったハンガリーに対し0対2から逆転し、初優勝を飾った。決勝戦の天候は雨。この悪天候を味方にして「ベルンの奇跡」を起こした。周到な準備に加えて天にも味方されての快挙。だから土砂降り続きを「フリッツワルターヴェッター」というらしい。

    改めて娘らの健闘を祈る記事。

    2012年11月 4日 (日)

    産業革命とサッカー

    欧州のサッカークラブのいくつかは、ブラームスの存命中にまでその歴史を遡ることが出来る。現代と違って当時のサッカーはあきらかに男子のスポーツだった。男の集まるシチュエーションで自然発生的な誕生というエピソードがつき物だ。

    1. 軍隊 兵士の余興が始まりというパターン。ロシアのチェスカモスクワ。
    2. 鉄道 鉄道の従業員。マンチェスターユナイテッド。
    3. 工場 工場の労働者。アーセナル。
    4. 港湾 船乗りを含む港湾労働者。 リヴァプール。
    5. 学校 学生。ドイツのベルダーブレーメン。
    6. 鉱山 炭鉱など。ドイツのシャルケ。
    7. 教会 信徒。ドルトムント。

    軍隊、学校、教会を除いて労働者だとわかる。農民が農閑期にというパターンは見かけない。産業革命の進行により都市に集まりだした労働者の息抜きという側面が透けて見える。

    昨日鹿島アントラーズがナビスコカップで優勝を飾った。アントラーズのサポーターとしては、優勝のたびにガチンコネタをブラームス神社に奉納することにしている。ビスマルク特集に割り込ませての祝勝記事なのだが、そこはかとなくドイツ史にも関連させてみた。

    2012年11月 3日 (土)

    ゼダン祭

    鴎外は「独逸日記」の中で、ドイツの祝日について盛んに言及する。「クリスマス」「復活祭」「謝肉祭」「聖ヨハニスの日」「正月」などなどだ。だからゼダン祭もそうした宗教的な祝祭日なのかと思い込んでいたが、実はとんだ勘違い。

    1885年9月1日の記述。ゼダン祭Sedanfestの幹事から手紙で招待された。鴎外はその翌日露営があるという理由で断りを入れている。

    このゼダン祭は、宗教とは関係がない。1870年9月1日普仏戦争の天王山だったゼダンの戦いに勝利したことを記念する陸軍の祝日だった。皇帝ナポレオン3世が捕虜になるという完勝で、普仏戦争の行方を決定的にした戦いだ。だからドイツ陸軍はこの日に記念の式典をするということだ。当時鴎外はザクセン軍の演習に参加していた。演習先でも式典が挙行されたと言うこともさることながら、ザクセン王国陸軍でもこれを祝っていることが面白い。

    2012年11月 2日 (金)

    維廉第一世

    鴎外の独逸日記に現れる。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世のことを鴎外は「維廉第一世」と表現している。1888年3月8日の記述に「独帝病篤き報あり。帝都騒然とす」という表現が見られる。そして翌日「独逸帝維廉第一世崩ず」とある。ビスマルクとともにプロイセンを率いてドイツ帝国を興した名君の最期だ。

    その翌日鴎外はプロシア国近衛歩兵第二連隊勤務の辞令を受ける。鴎外が留学を終えてドイツを立つ4ヶ月前の話だ。鴎外は大学の所属を離れて軍隊勤務を命ぜられたと言うことだ。同時に「隊務日記」という別の日記を書き起こす。これ以降ドイツ出国までの記述がこちらに移る。「独逸日記」は4月1日引越しの記述まで空白となり、さらにその後は5月14日の記述が残るのみとなる。

    ウィルヘルム1世の崩御を受けて即位した、フリードリヒ3世は既に喉頭ガンに冒されていて、6月15日に崩御してしまう。わずか3ヶ月の在位だが、記述の空白と重なっているために、独逸日記から当時の世相をうかがい知る手がかりはない。鴎外はベルリン在任中、しばしばドイツ医学界のトップと交流を持ち、中には宮廷侍医も含まれていたから、皇太子フリードリヒが既に重病であることを知っていたことは確実だ。

    全くの偶然だが、独逸日記はウィルヘルム1世の崩御をもって事実上エンディングになっている。

    実は独帝ウィルヘルム1世の死は、即日日本にも伝わったようだ。日本の宮中でも3月10日から3週間喪に服した。プロイセンから派遣されて3年間陸軍を指導したメッケル中佐の任期はちょうど3月17日に終わった。契約切れだ。3月18日に予定されていた送別の宴が、服喪のために中止になったらしい。

    2012年11月 1日 (木)

    メッサーシュミット

    今日は、ブラームスはもちろんビスマルクにも関係がない。一昨日ラバウルネタで、ゼロ戦に少しかすったのが、千載一遇のチャンスと見て公開する。

    第二次大戦中のドイツ空軍を支えた名機Bf109がある。中学時代にプラモデルに熱中した頃、ゼロ戦と並ぶ私のアイドルだった。アメリカにはカタログスペック的には凄い戦闘機が多かったのだが、中学生の分際でそういう傾向に反発していた。何だか力任せに見えたからだ。

    全部で30000機以上も製作された名機の設計者は、ウィリー・メッサーシュミット博士。ブラームス没の翌年1898年6月28日の生まれ。

    彼は25歳の時、メッサーシュミット航空機製造工場を起こす。1923年のことだ。この会社が合併を繰り返してやがて例の名機を生み出すことになる。創業の地は何とバンベルクだ。今年の春に訪れたあのバンベルクだ。街が丸ごと世界遺産でもあり、天気にも恵まれ素晴らしい旅を満喫したのだが、何せ時間が限られていた。あらかじめセットされた場所を訪問するにとどまった。この街で1泊できていれば、メッサーシュミット創業の地を訪ねるために早起きしたのだが、残念。素晴らしい世界遺産の街を訪ねながらメッサーシュミットのことを考えていたのは私くらいだろう。

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