小ドイツ主義
ドイツ統一を進める際、オーストリアのドイツ語圏を除外して進めるという考え方。申すまでも無く「大ドイツ主義」の反対概念。
メッテルニヒが主導したウィーン会議は、神聖ローマ帝国の復活も無ければ、ドイツの統一も無いという微妙な決着になった。オーストリアやフランスなど当時の大国がそれを望んだという側面もある。大小さまざまの領邦と自由都市からなるドイツ連邦はこうして生まれた。
知識層や学生あるいは経済界にドイツ統一を望む声が高まって来る。メッテルニヒは学生運動こそ弾圧したが、ドイツ関税同盟の成立など経済面でのプロイセンの台頭はもはや動かし難いものとなった。当初ドイツ連邦内でのプロイセンの位置はオーストリアの補佐というものだったが、国力の逆転は最早決定的になった。
「政治的には保守」「経済産業政策は急進的」というプロイセン主導の統一を望む声が次第に高まってゆく中、普墺戦争が起きる。ドイツ連邦内での対等の地位を要求するプロイセンとそれを拒むオーストリアの戦争だ。結果はプロイセンの勝ち。オーストリア領内のドイツ語圏を切り離し、プロイセン中心でドイツ統一を目指すという方向性がこれで固まった。
オーストリア・ウィーン在住のハンブルク人ブラームスは、小ドイツ主義によって切り離される側だったが、プロイセンとビスマルクによるドイツ統一を喜んだ。
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