遅参
軍隊の到着が遅れること。会戦に間に合わぬことを指すことが多い。もちろん失態だ。大兵力の部隊が間に合うかどうかは決戦の趨勢を決する要素だ。関が原の戦いにおいて東軍徳川家康の嫡男・秀忠の軍勢は決戦に間に合わず家康から叱責されている。勝ったからよいものの負けていたら戦犯だ。
普墺戦争でも遅参があった。プロイセン王国の王太子(後のフリードリヒ3世)の率いる11万が決戦の場ケーニヒスグレーツに遅参した。1866年7月3日夜明けとともに始まった戦闘に間に合わなかった。独墺両軍は膠着状態に入り、王太子の第2軍が間に合うかどうかが焦点となった。国王からのケーニヒスグレーツへの参陣期限は同日の夜明け前だったが、両軍膠着の14時頃にケーニヒスグレーツに入る。天下分け目の決戦はそこから約1時間の戦闘で事実上決着がついた。
戦闘に間に合わぬ遅参は失態だが、適度の遅参は決定打となる。戦闘ところか普墺戦争自体にケリをつける大勲功だったのだが、何と王太子はこれが初陣だったという。その後プロイセン軍内での発言権を増すことになる。だからニコルスブルクではビスマルク側につき父である皇帝の説得に成功する。
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