維廉第一世
鴎外の独逸日記に現れる。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世のことを鴎外は「維廉第一世」と表現している。1888年3月8日の記述に「独帝病篤き報あり。帝都騒然とす」という表現が見られる。そして翌日「独逸帝維廉第一世崩ず」とある。ビスマルクとともにプロイセンを率いてドイツ帝国を興した名君の最期だ。
その翌日鴎外はプロシア国近衛歩兵第二連隊勤務の辞令を受ける。鴎外が留学を終えてドイツを立つ4ヶ月前の話だ。鴎外は大学の所属を離れて軍隊勤務を命ぜられたと言うことだ。同時に「隊務日記」という別の日記を書き起こす。これ以降ドイツ出国までの記述がこちらに移る。「独逸日記」は4月1日引越しの記述まで空白となり、さらにその後は5月14日の記述が残るのみとなる。
ウィルヘルム1世の崩御を受けて即位した、フリードリヒ3世は既に喉頭ガンに冒されていて、6月15日に崩御してしまう。わずか3ヶ月の在位だが、記述の空白と重なっているために、独逸日記から当時の世相をうかがい知る手がかりはない。鴎外はベルリン在任中、しばしばドイツ医学界のトップと交流を持ち、中には宮廷侍医も含まれていたから、皇太子フリードリヒが既に重病であることを知っていたことは確実だ。
全くの偶然だが、独逸日記はウィルヘルム1世の崩御をもって事実上エンディングになっている。
実は独帝ウィルヘルム1世の死は、即日日本にも伝わったようだ。日本の宮中でも3月10日から3週間喪に服した。プロイセンから派遣されて3年間陸軍を指導したメッケル中佐の任期はちょうど3月17日に終わった。契約切れだ。3月18日に予定されていた送別の宴が、服喪のために中止になったらしい。
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