ランゲンベック祭
1888年3月9日のウィルヘルム1世崩御の記事を境に「独逸日記」の記述が薄くなる。プロイセン近衛歩兵連隊への勤務を命じられたことで、「隊務日記」と題する別の日記に記述の中心が移ったからだ。1888年4月以降の記述は本当にわずか。
その空白を補うためによせばいいのに「隊務日記」を調べようと思い立った。これが実に難解。完全な漢文で書かれている。独逸日記は漢文読み下し調だから慣れれば何とかなるのだが、完全な漢文ではお手上げ。英語よりも厄介だ。鴎外が律儀に添えてくれているドイツ語の原文が頼り。3月10日の辞令交付の日から始まっておよそ1ヵ月後の4月3日の記事に耳寄りな情報があった。
1888年4月3日の記事にランゲンベック祭が出てくる。ランゲンベックとはドイツの高名な外科医でベルリン大学教授で、デンマーク戦争では軍医正も勤めた。軍医外科として尊敬を集める存在だったため、1887年9月29日の没から半年を期してドイツ軍軍医団が感謝の集まりを企画した。鴎外は上司の石黒某とともにこれに招かれたということだ。
その会場を見てぎょっとした。「Philharmonie」となっている。いわずと知れたベルリンフィルの本拠地。1963年に竣工した現在のホールではなくて、1882年にベルンブルガー通りに建設された旧フィルハーモニーだ。さらに読み進めると、メンデルスゾーンやハイドンの名前が出てくる。独逸日記には作曲家の名前は全く出現しなかったから、実に意外。ここでブラームスが出てきていたら完璧だったのだが。昨日の記事で「独逸日記」は、音楽系の記述が薄いと書いたのだが、それを引き継いだ「隊務日記」にお宝が眠っていた。
ビューローが常任指揮者に就任したのが1887年秋からだから、ビューロー最初のシーズンが終わる頃に相当する。このシーズン最後の公演は4月20日だったことが判明している。この後、同ホールは大規模な改修を受けている。
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