私営ブラボー班
次女たちのオケを追いかける1年。3月のドイツ公演で気づいたのは、聴衆の熱気。演奏後の喝采が本当に暖かく、子どもたちもこれに感動して、さらに演奏に熱が入るという好循環。その後代替わりした次女たち36代を応援するために、私もドイツの気合にあやかることにした。
学生時代に「CBS」(千葉ブラボーサービス)という互助会が存在したことは既に書いた。演奏後のブラボーを受け持つ「サクラ」集団だ。これを30年を経て再現することにしたのだ。クラシック音楽のライブ録音などで聞こえるあのブラボーだ。あまり女性の声は聞こえないから、男親である私にピッタリのアシスト。後援会の集まりでご一緒するお父様たちと語らって組織化という話は出るには出るのだが、まだ確定に至っていない。かといって「ブラボー班設立のお知らせ」などという手紙が発信されるのは感心しない。意図が正しく伝わらずにかえってクレームを引き起こすリスクもある。あくまでも「私営」でなければならぬ。そうした「私営」のお父様(お兄様、おじい様、おじ様みな可能)が、複数集まれば心強い。
会則も無いし、会費の徴収も無い。総会も無ければ役員選出も無いのですこぶる気軽。決行の意思表示も不要。その上、打ち上げのビールが上手い。
以下覚書代わりに私の心得をあげておく。
- まずは、娘たちの演奏に十分耳を傾ける。「ブラボーありき」ではいけない。当日の演奏が「ブラボー」に値するか聴いて判断する。「YES」の場合のみ決行だ。ドイツの聴衆は本当に感動したことだけを引き金にブラボーしていることを忘れてはならない。
- 子どもたちは、聴衆を感動させようと心を込めている。もし感動が伝わったらそのことを行動に示すのは自然なことだ。ブラボーはその手段の一つである。
- 女性奏者の集合である彼女たちには「ブラボー」の女性形でという正論は一旦この際封印する。考えたら出来ない。
- 事前に曲を知る。スコアを見ながら曲の流れを予習しておくことは緊張をほぐす。どこで終わるか判らないと「ブラボー」どころではない。
- しかしながら、演奏の直後ではなく、少し間をおいてから、じんわりと放たれるブラボーもグッと来るものがある。
- 椅子に深く腰掛け過ぎてはいけない。背中が背もたれについていては困る。
- コンクールでは決行が難しい。次の学校との間合いが短いからだ。けれども不可能ではない。先日の郡山の全国大会では決死のブラボーをかました。客席からのブラボーがコンクールの審査に影響を及ぼすかどうか明らかになってはいない。
- 娘本人のドン引きをけして恐れてはいけない。実は決行する上での最大の心理的障害はこれだと思う。実際には会場で放たれたブラボーの声を聴いて、ステージの娘らが発声の主を正確に聞き分けるかどうか疑わしい。しかしながら、我が家の次女は、「もしかするとパパがブラボーするかも」と思っているので高い確率で聞き分けると思われる。
- 事前に娘に了解を取るなんぞもってのほか。「やめてよ」とでも言われたら決心が鈍るだけだ。「やりなよ」「がんばって」などと言われる公算はきわめて低い。
- けれども決行したら頃合を見て「どうだった?」という声がけは必須。最近我が家の次女はあきらめている。最初の駅コンでは「パパの声だって判った」という反応。郡山では「はぁあ。パパだったのか~」という白い目。クリスマスパーティでは「ま、いいんじゃね」というあきらめ顔。最早粘り勝ち。
- 演奏直後、適正なタイミングで発せられた「ブラボー」は、公式の録音に収録される可能性が高い。CD購入の際のひそかな楽しみになり得る。
- 自席周囲の人々を予めさりげなく確認する。中学高校生がいたら心の準備が要る。彼らの注目を集めることは確実だ。変に卑屈になることはない。
- 仲間を頼らない。「ブラボー」はとかく心細い。同じオケに娘を通わせる父親同士で決意を確認しあうのは心強いが、実際に発するときには孤独だ。
- 親同士で客席内の近い位置に固まると安心なのだが、これはかえって不自然。会場のあちこちいたるところから発せられるほうが本物感が強い。
- 14番と同じ理由で、声のトーンやタイミングが合い過ぎているのも不自然だ。事前に集まって練習なんぞもってのほかだ。
36代になって私は、駅コン、文化祭、全国大会in郡山、クリスマスパーティ、オケフェスの5回でブラボーを敢行した。この手のどうでもいいことほど大真面目に。考えてもみて欲しい。出番は数えるほどしか残っていない。
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