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2012年12月 7日 (金)

ボロジノの戦い

ロシアはモスクワの西およそ100km、モスクワ川右岸の村。この村で2度決定的な戦いがあった。

まずは、1回目。1812年9月7日。ナポレオン軍12万とロシア軍13万余の大会戦の舞台になった。死傷者の数ではナポレオン軍の勝ちだが、ナポレオン軍側の損害も甚大で、ただちにモスクワに殺到出来ない状況となった。双方とも決定的な勝ちを収めるには至らなかったという点では痛み分けなのだが、ここでの足止めが決定打となってモスクワ遠征は破綻することになる。そういう意味ではロシアにとっては救国の合戦だった。日露戦争の帰趨を決した日本海海戦で、ロシアバルチック艦隊は壊滅する。その中に戦艦ボロジノがあった。戦艦の名前に縁起の悪い名前を奉るはずがない。

2度目は第二次世界大戦。攻める側がナポレオンからドイツ軍に変わった。こちらもモスクワ死守という意味ではロシアの勝ちだ。ヒトラーのバルバロッサ作戦の転回点にもなった戦い。モスクワをめぐる攻防において、ボロジノ村は戦略のポイントだったということが判る。

ビスマルクは、広大な国土を持つロシアが、その広大さゆえに事実上不敗だということをよく知っていた。首都モスクワまでが遠い上に、首都を占領したところで政府ごと奥地に逃げてしまえる。東へ東へときりが無い。先に自軍の補給が破綻するのは見えている。だからビスマルク外交は対露友好が基本だった。

さて片仮名でボロジノと標記されていると気づかないが、英文の標記は「Borodino」である。次女たちオケ36代が挑む作曲家ボロディン(Borodin)とよく似ている。こんな歴史ネタを無理やり次女のオケに結びつける絶妙の記事。

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