ムルデの東
「独逸日記」の1885年8月27日から9月12日までの間、ザクセン軍の演習に参加した鴎外がその様子を詳しく記録している。ライプチヒ東方ムルデ川東一帯に広がる平原がその舞台。鴎外の4年に及ぶドイツ滞在はほとんどが都会在住だったから、演習に出向いた田舎の光景を大変珍しがっている。
その17日間に登場する地名を全て列挙する。例によってウムラウトは赤文字。
<8月27日>
- Machern ライプチヒの東およそ16kmの駅。ドレスデンからここまで列車で繰り出した。到着は正午ドレスデンからはおよそ30分の位置。地元有力者の居館に宿泊。
<8月28日>
- Trebsen 宿舎を出た鴎外は午前9時にこの地で予定通り第一大隊と合流。Machernの南東およそ20km。ムルデ川に接す。
- Nerchau 午前10時半に同地の宿舎に投ずる。Trebsenの南南東およそ3km。Trebsen同様ムルデ川の畔。しばらくここに宿泊。鴎外はここで十字架会に勧誘される。
<8月29日>
- Brosen Nerchauを徒歩で午前7時に出て9時につく。Nerchauの南およそ5kmだが、現代の道路地図ではBrohsenになっている。ここで演習参加予定の全大隊が集結。
<8月30日>
- Wurschwitz 日曜で演習は休み。Brosen近郊に散歩だが、現代の地図では確認できない。徒歩圏内だと思われる。
<8月31日>
- Deditz Brosenの北およそ2km。
- Galgenburg 仮想敵の陣地がある山。Deditz近郊。
- Doben 陣地に同行した婦人の出身地として出てくる。ちくま文庫の注にはライプチヒの東北約30kmの温泉地と書かれているが、大疑問。鴎外の原文は「Doeben」と書かれ「o」のウムラウトである旨強く示差されているが、注においては「Duben」と勝手に読み替えているように見える。愛用の道路地図では、注の言う位置に確かに「Bad Duben」があるけれど鵜呑みは危険だ。スペルの違いを、安易に鴎外の誤記と断じているようで気持ちの良い注ではない。
<9月2日>
- Brosen 8月29日に既出。朝徒歩でここまで来さらにHaubitzへ。
- Haubitz 国王来観の演習。午後1時着。Brosenの東南東2km。この地で野営。
<9月3日>
- Ragewitz 午前9時30分、当地に設営された仮設敵陣の襲撃訓練。野営地Haubitzから小さな川にそって東北東に3kmの位置。
- Grottewitz RagewitzからNerchauに帰る途中の経由地。Ragewitzの北西2km。
- Schmorditz Nerchauに帰る経由地。Grottewitzの西北西3kmのムルデ河畔。
<9月4日>
- Nerchau この日に宿を引き払う。午前6時45分に徒歩で出発。
- Cannewitz Nerchauの北北西2kmのこの地で他隊と合流する。
- Sarka 合流後Cannewitzの南1kmの当地で敵軍と交戦演習。ただし現代の地図ではSerkaと標記されている。
- Gastewitz 正午に当地の宿に投ず。Sarkaの南東およそ2km。
- Mutzen 晩餐のためにGastewitzから出かける。Gastewitzの東北東およそ2km。現代の地図ではMutzschenと標記されている。
<9月5日>
- Gastewitz 当地には1泊。
- Ragewitz 3日の項に既出。Gastewitzからは南西におよそ3km。南を正面に陣を立てる。仮設敵を演ずる。
- Zschoppach ここから発した軍と交戦訓練。Ragewitzの南東およそ3kmの位置。
- Brosen 9月2日に既出。Dobenへの経由地。
- Greswitz Dobenへの経由地。Brosenの西2km。
- Doben 注を鵜呑みにすれば8月31日のDobenとは別の場所であるかと受け取れる。ここに投宿。8月31日に登場したDobenをライプチヒ東北約30kmとした注は誤りだろう。愛用の道路地図でも鴎外の原文通りの「o」ウムラウトになっている。31日のDobenもむしろこちらのDobenだった可能性は低くないと見る。演習地域の地元の有力者夫人が陣中見学に訪れたと見る方がなんぼか自然だろう。校注者の手元の地図にこちらの「Doben」が無かったので、ライプチヒ東北30kmの「Duben」に無理やり当てたのだと思う。他の記述の精度から見て鴎外にスペリングの誤記は考えにくい。
- Machern DobenがMachernと似ていると言及。8月27日に既出。
<9月6日>
- Nerchau Dobenでの散策の途中北の方向の川向こうにNerchauが見えたと記述。この日演習はなし。
- Grimma Dobenの西3kmの地。日曜に同地のホールで国王主催の晩餐会があり鴎外も馬車で出かける。
- Gastewitz 9月5日のGastewitzで招待状を受けたとある。
<9月7日>
- Doben 早朝宿を引き払う。
- Wagelwitz Dobenの北東およそ6km。夜明けにDobenを発ってここで交戦演習。
- Mutzen 演習を終えてこの地に宿泊。9月4日に既出。Wagelwitzの東南東およそ3km。
<9月8日>
- Gottwitz Mutzenの東1km小湖に接する村で休憩。
- Rotteritz GottwitzからIeesewitzへの途上と思われるが確認できず。
- Ieesewitz Gottwitzの南南西およそ2km。現代の地図ではJeesewitzと標記。
- Mutzen 本日の宿泊地。
<9月9日>
- Mutzen 既出。
- Kollmichen 行軍の休息地。Mutzenの南およそ3km。
- Merschewitz 場所確認できず。
- Gastewitz 既出。
- Mutzen 既出。
<9月11日>
- Mutzen 宿を引き払う。
- Grimma 行軍の目的地。既出。Mutzenからは南西におよそ20km。
- Ragewitz Mutzenからの経由地。既出。この日は露営。
<9月12日>
- Ragewitz Grimmaへの経由地。
- Grimma 行軍の目的地。既出。
以上。見ての通り大変精密だ。鴎外の記述に従って現代の道路地図で探すと、次々と当該地名に辿り着く。魏志倭人伝の記述をもとに邪馬台国の謎解きをする考古学者の気分になれた。現代の道路地図と見合わせながらの探索から彼の記述が大変正確だとわかる。「~itz」という地名語尾が大挙して現れることも特筆してよかろう。鴎外は陸軍の演習への公式な参観者だ。当日の動きは逐一説明され、軍の用意した地図を見ながら、地名のスペリングを忠実に日記に反映しているに違いない。ブラームスと同時代の地名が現代まで高い確率で保存されているということの証明になる。ベルリンやミュンヘンなどの著名な大地名が残存するばかりでなく、道路地図の索引からも脱落するような小字程度の地名もほぼパーフェクトに残っていて嬉しくなる。
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