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2013年2月28日 (木)

船橋考

記事「シフスブリュッケ」で、シューマンが投身した橋が「船橋」だったと書いた。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ シューマン」の140ページにその絵が掲載されているとはしゃいだ。リアルな絵でとても興味深い。感情としてはこの絵のリアルさをどこまでも信じたいのだが、もし本当にこれがリアルだとすると、別に大問題が浮上する。

ライン川は遠くローマの昔から、物資輸送の大動脈だった。自動車や鉄道が普及する前はさらに重要度が高かった。輸送力やコストの点で陸上輸送を大きく引き離す。

先のシフスブリュッケの絵がリアルだとすると、船の通行は無理だ。貨物船どころかボートも通れない。絵は1848年の光景とされ、橋の撤去は1897年だから19世紀後ろ半分の間、ここデュッセルドルフでライン川水運が寸断されていたということになる。あくまでも仮設の橋で、架橋と撤去が繰り返されていたなら話は別だが、先の記述からはそうは読めない。ドイツ産業革命とも重なるその時期ライン川水運の重要性は疑う余地が無い。北海からの船がデュッセルドルフより上流に行けず、積み替えが発生したとは考えたくない。

おまけにかけられた船橋はあくまでも歩行者用だ。両岸の物資輸送に寄与しているとは思えない。ライン川の水運を犠牲にしてまでも必要な橋とはとても思えない。

2013年2月27日 (水)

シフスブリュッケ

ロベルト・シューマンがライン川に投身したのが1854年2月27日だった。今からちょうど159年前。投身の場所を詳しく調べると「旧シフスブリュッケ」にたどり着く。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ シューマン」の140ページにこの橋の絵が掲載されている。1848年当時のデュッセルドルフ市街をライン対岸から眺める構図。1897年に撤去されてしまったが、現存する5箇所の教会の塔が描かれているから、それらの現在の地図上での位置からシフスブリュッケのおおよその位置が類推できる。小舟を並べて板を渡す感じ。幅は狭く馬車の通行は無理で、ほぼ歩行者専用に見える。

この橋は当時有料だったらしい。あの日発作的に家を飛び出したシューマンは、財布をもっておらず、橋守りにはハンカチを渡したという。橋のたもとで既に様子がおかしかったために、漁師が早くに異変に気づいて船を出す段取りをしたために、すぐに助けることが出来たとされている。

「シフスブリュッケ」はドイツ語で「Schiffsbrucke」(uはウムラウト)とつづられる。「Schiff」は「船」で、「brucke」は「橋」だから合わせて「船橋」となる。そこに描かれる橋の形状はまさに「船橋」だ。あくまでも仮設の橋で、珍しい形状だから地名として残ることもある。千葉県では人口60万人を数える中堅都市の名前にもなっている。

2013年2月26日 (火)

橋を架けぬ訳

江戸時代までは、川があっても橋を架けないことがあった。国防上の理由である。大きな川ともなるとそこに防衛上の拠点が設定出来るということなのだ。現在ではもちろんそうした視点は薄れ、交通の利便上の要請から橋が架けられる。

ドイツではどうなっているのだろう。ロベルト・シューマンのライン川への投身はデュッセルドルフの橋が舞台だった。ライン、エルベ、ドナウの3河川について愛用の道路地図で調べてみた。

  1. ライン川 スイス・ボーデン湖からバーゼルを経てカールスルーエ辺りまでは、およそ10kmに一つの割で橋がある。ライン川がフランスとの国境を形成しているにも関わらずほぼコンスタントに橋が架かる。異例なのはその先、マインツを最後にコブレンツまで75km、橋が架けれていない。思うにこれは景観配慮の結果だ。その75kmは名高いライン川クルーズのコースだ。景観上橋は邪魔である。コブレンツを過ぎるとまた10kmに1個のペースに戻る。オランダ領に抜けるまでずっとこの調子である。
  2. エルベ川 驚いたことにハンブルク以北70kmに橋が架けられていない。川を跨ぐ通行の利便よりは、ハンブルクの港湾機能が優先されていると見た。ハンブルクより上流には橋が架けられてはいるものの、ライン川の頻度よりは落ちて、20kmから30kmに1本となる。特にヴィッテンベルクからシュテンダールの間60Kmの空白が目立つ。その後マグデブルクを経てチェコ領にいたるまでまた20~30kmに1本に落ち着く。
  3. ドナウ川 パッサウより上流のドイツ領内においては、ほぼ15kmに1本だ。ごくごく大雑把に申せば、ドイツ領内のドナウ川は古来国境線になっていない。ドナウの北も南もバイエルンだ。この川が防衛線だったのはローマ時代の話である。ラインやエルベに見られた長大な空白が存在しない。

こういう調べ物には、道路地図が便利である。

2013年2月25日 (月)

レマゲン鉄橋

第二次世界大戦末期、ノルマンディーに上陸してパリを開放した連合軍の次なる目標はベルリンだった。問題は独仏国境に横たわる大河ラインである。ライン川の橋は大戦初期にフランスへ侵攻する際には多大な貢献をしたが、守るとなると敵に利するばかりとなる。かといって破壊が早すぎても友軍の撤退に支障が出る。橋を巡る攻防は映画にもなった。そのタイトルが「レマゲン鉄橋」だ。レマゲンと対岸のエルペルを結ぶ橋で正式な名前はルーデンドルフ橋という。考案者の名前を採った橋なので近所にルーデンドルフという地名があるわけではない。

最終的にヒトラーは爆破を命じたが、なぜか十分に破壊されずに残り、ヒトラーの逆鱗に触れた破壊担当者は軍法会議にかけられたという。連合軍主力が橋を渡り終わった後崩落したらしい。今も復元されてはいない。

よくよく地図を見ると、パリとベルリンを結ぶ直線上にあるようにも見える。ベルリンに迫る最短距離だった可能性が高い。戦車も航空機も使われたこの時代になってもなお、防衛線たるライン川の位置付けは揺らいでいなかったということだ。

レマゲンはRemagenと綴る。何だかドイツっぽい名前と油断していたが、どうもお宝だった。これはケルト語で「王の野」を意味するらしい。

2013年2月24日 (日)

橋とウムラウト

「Brucke」(uはウムラウト)は「橋」だ。塩、泉ネタからの流れで川のネタで盛り上がったから今度は橋である。複数形「brucken」が地名語尾になっている。ザールラント州の都「Saarbrucken」が名高い一方、オーストリアの「Innsbruck」は「イン川の橋」で良いのだと思うが、ウムラウトが脱落している。念のため調べてみると、オーストリア領内では全て、ウムラウトの脱落が起きている。

ドイツを調べた。ドイツ国内で「オーストリア型のウムラウト無し」が見られるのはバイエルン州に限られる。しかも全てドナウの南だ。

何とこれには不気味な符合がある。バイエルン方言の特徴として「u」のウムラウトが回避されることがしばしば起きる。だから標記上もウムラウトが消されたと解し得る。オーストリア方言はバイエルン方言を母体にしていることからもこの分布が説明出来てしまう。

地名分布と方言がきれいにシンクロする。

2013年2月23日 (土)

防衛線としてのライン

記事「地名語尾ランキング」を見て「おや」と思った人がいるかもれない。フランクフルトで有名な地名語尾「furt」がベスト10に入ってこない。実際にはベスト20にも無い。地名語尾「furt」は知名度の割に出現頻度は高くない。

ライン川は古来アルプス地区と大西洋を結ぶ重要な交易路だった。ワインを含む様々な文物が往来した。現在でもスイス・バーゼルまでそこそこの船が遡ることが出来る。ライン沿岸の領主たちは関所を設けて通行税を徴収した。最盛期には数十ヶ所に及んだとされている。商人たちは困ったが支配者にとってライン川は金づるだったのだ。ライン沿岸が古来から奪い合いの対照だったのもうなずける。

南北の移動を試みる者たちにとって大動脈だったライン川であるが、東西の移動を企てる者たちにとっては難儀な関門だった。フランクフルトで有名な地名語尾「furt」は、「歩いて渡れる浅瀬」の意味だ。不思議なことにライン川沿岸の地名には現れない。何故かと考える。

  1. ライン川はそこいら中が歩いて渡れるから「furt」では地名特定にならない。
  2. ライン川には歩いて渡れる浅瀬が無い。
  3. 歩いて渡れる浅瀬をライン地区の方言で「furt」と言わない。

おそらくこのうちのどれかだろう。ローマ人もゲルマン人も古来この大河を防衛の最前線としてきたから、おそらく上記の2なのだと思う。思うように大軍を渡せない川なのではあるまいか。

2013年2月22日 (金)

ドイツ島

私の住む千葉県は東京湾と太平洋に挟まれている。よく見ると北の茨城県とは利根川を隔てている。埼玉県や東京都とは江戸川を隔てている。利根川と江戸川は関宿付近で繋がっているから、周囲全てが川または海になっている。その意味で千葉県が島に見えなくもない。

千葉県ほど極端ではないが、ドイツも同様な意味で島だと感じる。海は北側に北海があるだけだが、西はライン川、東はエルベ川、南はドナウ川に囲まれている。

ドナウ川の源流はシュヴァルツヴァルトの中フライブルク付近。ライン川とは30kmほどしか離れていない。そのドナウ川がオーストリアに流れ込む付近のわずか30km北方、チェコとの国境をなすシュマバの森にモルダウ川の源流がある。プラハを貫通した後エルベとなる大河だ。これら3本の川の内側が本質的な意味でのドイツなのではあるまいか。

プロイセンの台頭を支えた2人、ビスマルクとモルトケは、性格的になじんでいたとはいえないが、全く別のアプローチから同じ結論に達していた。

ドイツは仏露墺という3つの列強と接していながら、その国境地帯には地形的な要害が存在しないという認識で一致していた。大河ライン、エルベ、ドナウといえども、その気になった列強にとっては大した障害にはならないと思っていた。

2013年2月21日 (木)

水源語尾

記事「4分水嶺」で基幹河川エルベ、ドナウ、ラインの一部水源がごくごく狭い地区に集中していることを発見して驚喜した。他にもそういう例が無いかと愛用のドイツ道路地図で調べてみた。これらの水源の地名は案の定巻末索引では漏れている。道路らしい道路が通じていないから、ドライバーの直接の目的地にはなりにくいので仕方が無い。地図上で川をたどって探すしか方法が無い。

これが意外と難しい。道路地図だから道路をやけに強調して描いてある。最上流の河川の標記の細さに比べると極太だ。気を張っていないとすぐに河川を見失う。

以下ドイツの有力河川の水源が地図上でどう標記されているか列挙する。水源がドイツ国内になる場合に限った。

<ライン川水系>

  1. Ruhrquelle 場所の説明が厄介。有名な町が近所に無いほどの田舎。パデルボルンの南65kmの山の中と申しても役に立つまい。デュイスブルクでライン川に合流する。流域はドイツ最大の重工業地帯で、川の名前をとってルール工業地帯と呼ばれる。受験生の基本である。
  2. Lahnquelle マールブルクの西北西約40km。Ederquelleの南約5kmだ。水源を出ると東に流れマールブルクを経てコブレンツの少し南でライン川に合流する。
  3. Siegenquelle 上記2Lahnquelleの北わずか3kmの位置。西に流れ出てボンの北でライン川に合流する。
  4. Rotermainursprung バイロイトの南西約10km。マイン川の源泉の一つ。いわゆる「赤マイン」だ。
  5. Weissmainquelle バイロイトの北西約30km。マイン川の源泉。こちらは「白マイン」
  6. Neckerursprung フライブルクの東約60km。北流してテュービンゲン、シュトゥットガルト、ハイデルベルクを経てマンハイムでライン川に合流する。

<ヴェッサー川水系>

  1. Ederquelle ライン川水系のLahnquelleやSiegenquelleに程近い。東に流れ出て、カッセル南郊でフルダ川に流れ込む。
  2. Fuldaquelle フルダの南東約25km。すぐに北西のフルダに向かいこれを貫いて北流しカッセル南郊でエデル川を集めてさらに北流。ムンデンでヴェッサー川に注ぐ。
  3. Werraquelle 第4交響曲初演のマイニンゲンの東南東約45km。西に流れ出てマイニンゲンを経て北上。バッハの故郷アイゼナハを東に見てムンデンでフルダ川を集めてひたすら北に。ヴェッサー川に名前を変えてブレーメンを通って北海に出る。
  4. Ilsequelle ゲッティンゲンの北東約75km。ワルプルギス「魔女の宴会」で名高いブロッケン山頂の南東2km。ここから北に40kmイルゼ川として流れてからオケル川に合流する。そのオケル川はツェレ近郊でアレル川に注ぐ。最後はヴェッサー川となってブレーメンから北海に至る。

<エルベ川水系>

  1. Egerquelle バイロイトの北西約30km。「ドイツのヘソ」に発して東流を始めると、すぐにチェコ領に入る。ブラームスが鉱泉治療に赴いたカルルスバートを経て、プラハの北でエルベ川に注ぐ。
  2. Saalequelle 上記1Egerquelleのわずか4km北にある。すぐに北に流れ出し、イェーナ、ハレを経てマグデブルク南郊でエルベ本流に注ぐ。

<ドナウ川水系>

  1. Brequelle(DonauUrsprung) フライブルクの東約30km。カッコ書きがまぶしいドナウ川の水源。数あるドナウ水源の中でもっとも西にある。ライン川の本流まで直線距離で43kmほどしかない。この水源から流れ出た直後はまだドナウとは言われていない。30kmほど下流で数本の川が合流して以降、ドナウと呼ばれるようなる。また愛用の地図上では2mmほど西に別の川の水源がある。こちらには特に地名は書かれていないが、これを下流にたどるとエルツ川(Erz)となってライン川に注ぐ。このあたりまさに分水嶺になっている。
  2. Fichelnaabquelle バイロイトの北西約30kmいわゆる「ドイツのヘソ」にある4水源の一つ。ほぼまっすぐに南流を続けレーゲンスブルクでドナウ川に注ぐ。

北ドイツの川は大小さまざまの湖水が源であることが多くて地名語尾「quelle」に遭遇することは少ない。

2013年2月20日 (水)

スイスのヘソ

記事「ドイツのヘソ」で、3つの大河の水源地が密集する地域について話題にした。スイスにも同様な地区がある。ほぼ10km四方に水源4つが収まったドイツのヘソに対して、こちらスイスのヘソは東西40km南北20kmの横長の長方形の中におさまる程度だ。有り難味は落ちるがついでに言及する。

アルプス越えのルートに「サン・ゴタール越え」がある。ドイツ語では「Sankt Gotthard Pass」という。ブラームスがイタリアに旅行する際、しばしばこのルートをたどったことがある。本日はこの峠を目印に話を進める。

  1. ライン川の源流がサンゴタール峠の北東10kmの位置にある。オベルアルプ峠という別の峠の東麓だ。ここからしばらく東に流れてから北に向きを変えてボーデン湖に入る。
  2. サンゴタール峠の南をかすめて西から東に流れるのがティチーノ川だ。源流はサンゴタール峠の西南西30km付近。このティチーノ川は南に流れて、マジョーレ湖を経てポー川に合流しアドリア海に注ぐ。
  3. サンゴタール峠の真西25kmに発するのがローヌ川だ。アイガーやユングフラウなどアルプスの名峰の南を流れてレマン湖に入る。ジュネーヴから再び流れ出てフランスに入りリヨンを目指す。そこで北からの諸流と合わさって真南に流れ、やがて地中海に至る。
  4. サンゴタール峠の真西40km。オーベルアアレ湖から流れ出すのがアアレ川だ。ユングフラウを東に迂回しながら北流し、ブラームスの覚えめでたいトゥーン湖を経て、ベルンを抜け、バーゼルの東35kmでライン川に合流する。

1と4がライン水系で北海に注ぎ、2と3は地中海だ。スイスのヘソ。

2013年2月19日 (火)

ドイツのヘソ

隕石ネタに押し出される感じで2日遅れの公開。

ブログ「ブラームスの辞書」の特集「地名語尾」は、今や「地図無き地誌」の様相を呈してきた。読者が持っている地図への依存症が止らない。本日もまたその流れだ。

紙と鉛筆を用意して欲しい。

中央に大きく「X」状に罰点を描いていただく。本日の地図はそれだ。2本の直線の交点から右上に延びる線が「ザクセンの森」、右下に伸びる線が「ボヘミアの森」となる。この2つの森が、ドイツとチェコの国境を形成している。その交点から左上に伸びるのが「テューリンゲンの森」で、左下に伸びるのが「フランケンの森」である。

本日描いていただいたX字の交点は、4つの森の交差点だということだ。実は実は、記事「4分水嶺」で話題にした水源の密集地こそが、この「4つの森の交点」に相当する。

  1. 北に流れ出すザーレ川→エルベに注ぐ ザクセン 旧東ドイツ
  2. 東に流れ出すエゲル川→エルベに注ぐ ボヘミア
  3. 南に流れ出すナアプ川→ドナウに注ぐ バイエルン
  4. 西に流れ出すマイン川→ラインに注ぐ フランケン

上記の通りだ。そしてこの交点を基準に東西南北がそれぞれ別の地域名で呼ばれている。ライン、エルベ、ドナウがドイツの外周を規定する概念だとすれば、本日冒頭に描いていただいたX字は、そのドイツの内側を分かつ基準になっている。

道路地図を眺めていても山地や森はわかりにくい。川は慣れてくると判るようになるが、かなり険しい山地でも、アウトバーンは軽々と越えてゆくから、そこに森や山があることに気付きにくい。道路地図ではない地勢図を横において確認する癖がついた。程なく気付くのが本日お描きいただいた交点・ドイツのヘソである。

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2013年2月18日 (月)

子隕石

記事「隕石孔」で話題にしたリース隕石孔の南西およそ40kmにシュタインハイム(Steinheim)という街がある。リース盆地ほどではないが直径3kmほどの盆地の中央に位置する街だ。実はこの盆地も隕石孔だと認定されている。「石の家」または「石のふるさと」と解される「シュタインハイム」という地名が既に怪しい。隕石孔付近には、通常地表には存在しにくい鉱物が露出していることが多く採石場や鉱山になっているケースが多い。

ここで産出する鉱物がリース盆地とよく似ていることから、リース隕石のかけらがこちらに落ちたものと推定されている。衝突の時期はおよそ1500万年前だが、リース隕石とどちらが先に衝突したのかはわかっていないらしい。

2013年2月17日 (日)

隕石孔

隕石が地表に衝突した際に生じたくぼみのこと。世界最大のクレーターはおそらくメキシコのチクシュルーブクレーターで直径300kmと見積もられているが大部分は地下にあって、地上では観察されない。今からおよそ6500万年前に生成されたと考えられており、この衝突をもって恐竜絶滅を説明する学者も多い。隕石のサイズは直径15kmで、その衝撃はマグニチュード11、発生した津波の高さは300mといわれている。

ロシアで隕石が落下したニュースを聞いて急遽予定を繰り上げて公開する。

ロマンティック街道についてのんきに調べを進めていて隕石孔を見つけた。リース隕石孔という。ドイツ語では「Ries Meteorit Krater」という。バイエルン州アウグスブルクからロマンティック街道を北西におよそ75km下ったあたりにNordlingen(oはウムラウト)という街がある。この街は直径およそ25kmのリース盆地のほぼ中央に位置している。このリース盆地こそが実は、リース隕石孔と呼ばれている。

ブラームスの生きた19世紀には火口跡、またはカルデラと考えられていたが、スエバイトという特殊な鉱物が決め手となって1960年には隕石孔ということが判明した。

現在では今からおよそ1500万年前に、直径約1000mほどの隕石が秒速20~60km程の速度で衝突した結果だと考えられている。

2013年2月16日 (土)

4分水嶺

地名語尾「grun」を探していてシャープな発見をした。

ワグネリアンの聖地バイロイトの北東約25kmに「Bischofsgrun」という地名があった。「ビショップの緑野」とでも解するのだと思う。きれいな地名で気に入ったなどとうっとりと周囲の地名を眺めていて驚いた。記事「赤マイン白マイン」で言及した白マインの水源「Weissmainquelle」が、すぐ南隣にあった。

周囲を探すと、その「Weissmainquelle」の2km南に「Fichtelnaabquelle」があった。一方「Bischofsgrun」の北東約4kmの位置に「Egerquelle」があった。このあたり一帯は「Fichtelgebirge自然公園」になっている。道路地図の索引用メッシュは一辺7kmの正方形だ。138ページD-4という1辺7kmの正方形の中に地名語尾「quelle」が3箇所も存在する。

  1. Weissmainquelle 西に流れ出しやがて「赤マイン」と合流。バンベルク、フランクフルトを経てマインツでライン川に合流する。
  2. Egerquelle 東に流れ出し、すぐにチェコ領に入る。ブラームスが鉱泉治療に訪れたカルルスバートを貫いて、プラハの北でエルベ川に合流する。
  3. Ficitelnaabquelle すぐに南に流れ出し、レーゲンスブルクでドナウ川に合流する。

このあたり一帯の丘陵は、世にも珍しい3分岐の分水嶺になっている。しかもたどり着く先はライン、ドナウ、エルベというドイツを取り巻く基幹河川だ。

そしてさらにお得なおまけ。上記2番のほぼ真北約4kmの位置に「Saaleqelle」がある。もちろんザーレ川の水源だ。138ページのD-4の一つ北側のメッシュにある。ここからほぼ常に北流を続けてマグデブルクの南でエルベ川に合流する。上記2番と同じエルベ川水系だ。

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2013年2月15日 (金)

地名語尾「quelle」

記事「赤マイン白マイン」で水源を表す語尾が違っていると書いた。白マインの水源地が「Weissmainquelle」となっている一方で、赤マインは「Rottermainursprung」となっている。

マッコークルの「ブラームス作品目録」にも「Quelle」という単語が出てくる。記述の根拠となる資料を指し示すとき「Quelle」という言葉が使われる。「引用元」「参照元」の意味だから川の水源というイメージとうまく溶け合う。

水が湧くという意味では先に紹介した「泉3兄弟」と似ている。元は同じ意味だったらしいが、今ではニュアンスを少し変えている。「Born」「Brunn」「Bronn」の場合、少し人の手が加わった状態を指す。「井戸」や「噴水」だ。

一方「Quelle」はもっと自然な湧き水である。噴水や井戸が川の水源になることはイメージしにくいが、「Quelle」はむしろそちらのイメージである。

そして泉3兄弟が全て男性名詞であるのに対し、「Quelle」は女性名詞だ。

2013年2月14日 (木)

赤マイン白マイン

タイトルをもう一度よくご覧いただく。「ワイン」ではなく「マイン」である。「Main」と綴る川がある。クララ・シューマンの最期の地フランクフルトは、このマイン川に面している。だから正式には「Frankfurt am Main」という。ベルリンの東ポーランドとの国境にあるフランクフルトと区別するためだ。

さてそのマイン川をずっとさかのぼって行く。バンベルクを過ぎておよそ50kmのあたりで2つに分岐する。そこから南に続くのが「Rottermain」で、東に続くのが「Weissmain」だ。つまり「赤マイン」と「白マイン」である。

これが何を意味するのかは今後調べねばならない。記事「白い川」で述べたとおり。「白」が「塩分の析出」だとするなら「白マイン」の流域には製塩地が存在する可能性がある。

このあと赤白に分かれたマインはどちらも30kmほど先に源泉がある。白マインの源泉は「Weissmainquelle」、赤マインは「Rotermainursprung」という地名になっている。

「quelle」も「ursprung」も源泉という意味だ。

2013年2月13日 (水)

ドイツ人教皇

昨日、今月末をもって退任を発表した現ローマ教皇ベネディクトス16世は、ドイツ・バイエルンの出身だ。ベートーヴェンやモーツアルトに親しむほか、バイエルンミュンヘンのサポーターでもあるらしい。驚くなかれ、彼はおよそ950年ぶりのドイツ人教皇だったという。退任の報に接してメルケル首相が早々に声明を出すだけのことはあるのだ。以下にドイツ出身の教皇を列挙する。

  1. ヨハネス12世 955年
  2. グレゴリウス5世 996年
  3. クレメンス2世 1046年
  4. ダマスス2世 1048年
  5. レオ9世 1049年
  6. ヴィクトール2世 1055年
  7. ステファヌス10世 1057年
  8. ニコラウス2世 1058年
  9. ベネディクト16世 2005年

以上9名。同じ名前の重複が無いのははたして偶然か。そもそも「ドイツ人」の概念が遡れば遡るほど曖昧だ。これらの教皇たちの出身地が、現在の地図に照らしてドイツだというくらいのオチも十分あり得る。就任後の名前はみなローマ風になるから、ドイツ人の名前としては浮いている。

最初のドイツ人教皇がヨハネスだったというシャープなオチだと喜んでいる場合ではなかった。実は530年に就任したボニファティウス2世が怪しい。彼はローマ生まれのゲルマン人ということになっている。ゲルマン人というのが現代のドイツ人とは違う概念だとは承知の上なのだが、なんだかこれを最初のドイツ人教皇に認定したいくらいである。 

地名には何の関係もないがつい。

2013年2月12日 (火)

白い川

グスタフ・マーラーがイシュル滞在中のブラームスに面会するために片道30kmの道のりを自転車で通ったことは既に話題にした。地図の上でその道のりをたどる記事だ。その中で、マーラーはWeissenbachという川に沿って走ったはずだと推定した。「白い川」だ。そのときは何も感じなかったが、最近妙に塩漬けにされた脳味噌で読み返してみると実に興味深い。同じ地名はザルツブルクの南にもある。あたり一帯はザルツカンマーグートと呼ばれる地域。大景勝地にして大製塩地帯である。

これがドイツ領内では「Weissbach」となって5箇所に分布する。このうちニュルンベルクの北西にある「Weissbach」は、製塩地として有名だ。

白く見えるのは塩の析出ではあるまいか。塩源の探査に熱心な支配者にとってこれは有力な目印だ。白い色の原因が石膏だったにしても同じことだ。岩塩層の上部に石膏が存在するのは地質学のお約束らしい。白い川の上流には塩源が存在する可能性が高い。

2013年2月11日 (月)

色の名前

色の名前が織り込まれた地名は多い。「Schwarzwald」(黒い森)がすぐに思い出される。色の名前それ自体は名詞だけれど、大抵はその色を示す形容詞として使われる。「黒い森」はその代表だ。だからというわけではないのだが、色の名前は地名語尾になりにくい。

「黒い~」「白い~」はあり得ても「~の白」「~の黒」は考えにくい。

ところが「Grun」(uはウムラウト)と「rot」だけは地名末尾にも現われる。これには少々の説明が要る。「rot」は「赤」なのだが、意外な数が地名末尾に来る。これは大きな間違いで実は「開墾地」を表す「roth」が訛った姿であることが多い。「赤」という語感が大変鮮やかだから、何かとこじつけた地名説話が残っていることはあっても、元は「開墾地」であることがほとんどだ。地名語尾「赤」ではない。

「grun」は緑でよい。緑は植物の群生の結果としての地表の色だ。だから名詞「Grune」には「緑野」の意味が派生している。地名語尾「grun」は、そこから「e」が脱落したものと解し得る。実際の分布には注意が要る。シューマンの故郷ツヴィッカウより南側チェコとの国境を取り巻く一帯に「grun」系統の地名が頻度高く現れる。

2013年2月10日 (日)

Heilbronn

記事「泉3兄弟」で紹介した地名語尾「born」「brunn」「bronn」のうちの一つ「bronn」の美しい実例だ。バーデン・ビュルテンベルク州の州都シュトゥットガルトから北に50kmほどネッカー川を下ったあたりにある街。「聖なる泉」「美しい泉」くらいの意味だ。

自動車草創期のメーカー、ダイムラー社を創立したゴットリープ・ダイムラーには片腕となって働いた技術者ヴィルヘルム・マイバッハがいた。彼は1844年ハイルブロン生まれ。幼くして両親をなくし孤児院の中の工場で働いていた。19歳の時に工場長として赴任してきたのがダイムラーだった。以降終生協力関係が続いた。現在マイバッハの名はダイムラー社の最高級車のブランドとして復活している。

ハイルブロンといえばもう一つ。1907年世界初の粉末乾燥スープを発売したKnorr社の本社が今この街にある。わが国でも1960年代から売られていたからなじみのあるブランドだ。1885年にドイツ人Karl Heinrich Knorrがスイスに工場を作ったのが始まりだ。つまり「Knorr」は人名ということだ。

「ベンツ」「ポルシェ」「ジーメンス」「ダイムラー」などドイツの有名なブランドには人名が多いとは感じていたが、クノールも人名だったとは。

2013年2月 9日 (土)

泉3兄弟

記事「塩水泉マーカー」で「brunn」や「born」が泉を意味することに触れた。実はこれにはもう一つヴァリエーションがある。地名語尾としての分布を見ると、大雑把に言って北部では「born」が多く、中南部では「Brunn」が多いのだが、南部の一部シュヴァーベン地方でのみ「bronn」に代わる。北から「born」「brunn」「bronn」である。動詞の不規則変化みたいだ。

これら全部が男性名詞になっているので私が泉3兄弟と名付けた。「bronn」が見られるシュヴァーベン地方には異母弟ともいうべき「pfronn」があるのも面白い。

これら全部が淡水の泉と決め付けてはいけないことは既にご理解いただけていると思う。

2013年2月 8日 (金)

塩の王子

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母はゾフィという。彼女は結婚後6年間、子宝に恵まれなかった。侍医ヨハン・マルファッティは、ベートーヴェンの最晩年の治療にも関与した人物。彼は子宝が授かるようにと塩水療法を勧めた。最初の療養はハラインという場所。Halleinと綴るのだが、冒頭の「Hall」は古ドイツ語で「塩」を意味するそのものズバリの地名だ。

ところが、ここでは効果が出ず、次に赴いたのがバート・イシュルだった。これがまんまと的中してその後5人の子に恵まれた。このうちの最初の子が皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世その人である。だからウィーンの人々は親しみをこめてフランツ・ヨーゼフを「塩の王子」と呼んだ。

さて、23歳の皇帝は見合いのためにまたイシュルを訪れた。本来の見合いの相手には見向きもせず妹のエリザベートに一目惚れしたことは、あまりにも有名だ。イシュルは皇帝にとって縁起のよい場所だということだ。だからカイザーヴィラという別荘を建ててしばしば夫婦で訪れた。

そう、ブラームスもしばしば夏の避暑地に選んだあのイシュルである。

2013年2月 7日 (木)

塩水泉マーカー

「Bad Ischl」はブラームスの伝記で山ほど言及される「イシュル」のことだ。ブラームス晩年のお気に入りの避暑地で、夏にはオーストリア中の名士が集まるリゾート地だった。ここを流れるトラウン川を遡ったところにあるAussee湖畔に、古くから利用されてきた塩水泉があった。ここから湧出する塩水がイシュルまで延々と木管で運ばれて、大きな窯で煮詰められて塩を製造した。さらにイシュルにも昔塩水泉があったらしい。塩分の濃度が下がったために、採算が取れなくなり、製塩業は廃れたが、景色がいいことが助けとなり、塩分含みの温泉としての効能も謳われて、大保養地になったということだ。食塩を含有する温泉は日本でも珍しくない。

ドイツ語で「Bad」は「温泉」を意味する一方、その昔製塩業が栄えていた場所である可能性はいつも心に留めておきたい。

さてもう一つ塩水泉マーカーの可能性を持つのが「brunn」や「born」である。通常は「泉」と解されているが、淡水が湧いているとは限らない。製塩地名の中に「brunn」や「born」も散見される。塩分を含む湧き水の温度が高ければ「bad」となり、低ければ「brunn」や「born」と呼ばれ得ることは確実だ。

塩不足に悩んだプロイセンやザクセンあるいはスイスでは、塩鉱脈の探索技術が発達した。ボーリング技術がその代表だが、どこを掘るかについては、表土の観察の他、地名や伝承も大いに参考にされたと思われる。

2013年2月 6日 (水)

Luneburgerheide

リューネブルガーハイデと読む。最初の「u」はウムラウトだ。豚くんのお手柄で塩水泉が見つかったと書いた。それがリューネブルクの街に製塩業を起こすきっかけとなった。ある猟師がブタを追い詰めると、ブタにも自分の衣服にも白い粉が付着したのを不思議に思った猟師が、ブタを追いかけたコースを探してみたら塩水泉が見つかったということらしい。

当時、このあたりは広大な広葉樹林が広がっていたという。広葉樹林でのブタの放牧は、牧畜の根幹を形成したいたらしい。木の実を食べるブタは、森林の維持にはうってつけの家畜なのだ。若い木の芽を食べる羊やヤギはむしろ害獣で、牛や馬はその中間と位置付けられている。塩水泉発見のエピソードは、広葉樹林における牧畜の実態と矛盾しない。ミズナラの木の実で育ったブタはとりわけ味がよくハムに向いていたという。

問題が無い訳ではない。豚くんのお手柄で始まった製塩業は、塩水を煮詰める過程で膨大な量の薪を必要とする。リューネブルク近郊の森はこれによって伐採され、再生不能に陥った。その結果この地区は見渡す限りの原野となった。本日のお題「リューネブルガーハイデ」は、そうした光景を称する言葉である。

地名語尾「heide」は、「荒野」「原野」と解されることが多いが、地名の解釈においては、過去における森の存在を強く示唆する言葉でもある。

2013年2月 5日 (火)

豚くんのお手柄

プロイセンに製塩地が無いと述べた。プロイセンを含む北ドイツはそもそも有力な製塩地がないのだが、ハンブルクの南リューネブルクは例外だ。ここには優秀な塩水泉があった。この発見のキカッケは豚だったという。ある石膏の丘の上で「ここ掘れブーブー」とでも言ったのだろう。ドイツ北部では貴重な塩水泉が発見された。記念にこの豚くんの骨が今も保存されているらしい。自分の目で見ない限り絶対に信用できないエピソードなのだが、微笑ましい。

地下水に溶けた塩分が析出する際必ず石膏も現れ、比重の関係で塩の層より上に堆積するから、地表に石膏が出ている場所を掘ると、塩水泉か岩塩層が現われるという。塩不足に悩む人々が豚くんに感謝するほどの発見だったのも道理である。

2013年2月 4日 (月)

海の塩加減

「See」英語では「見る」で動詞。ドイツ語になると名詞の「海」になる。湖の意味も有って発音はおおむね「ゼー」だ。

ところが、ドイツ語は繊細だ。「海」は女性名詞「Die See」なのに、「湖」は男性名詞「Der See」となる。いわば塩分の有無で「Die」が「Der」に変るということだ。ドイツ人は自然にこれを使い分けている。

浜名湖のように海水の紛れ込んだ状態を汽水というが、この場合は何と呼ぶのだろう。まさか中性名詞になって「Das See」ではあるまいな。

2013年2月 3日 (日)

サラダは塩に限る

1896年2月20日、ミラー・ツ・アイヒホルツ邸に招かれたブラームスに供された食事のメニューが残っている。その中に「伊勢海老のサラダ」があった。

健康志向全盛の昨今、サラダの語感は大変好ましいものになっているが、「伊勢海老のサラダ」となるとかなりグルメな感じがする。おそらく生野菜が添えられていたのだろうとは思うが想像の域を出ない。「サラダ」という言葉には思わずそう想像させるほどの魔力がある。生野菜の摂取方法の横綱格である。「サラダを食べる」は「生野菜を食べる」と同義に近いのではないか。欧州各国の言葉で「サラダ」を何と言うのか調べてみた。

  1. ドイツ語 Salat
  2. 英語 Salad
  3. フランス語 Salade
  4. イタリア語 Insalata
  5. スペイン語 Ensalada
  6. オランダ語 Sla
  7. デンマーク語 Salat
  8. スウェーデン語 Sallad
  9. ノルウエイ語 Salat
  10. アイスランド語 Salat

見ての通りオランダ語以外全て「Sal」というパーツを持っている。これが何とラテン語の「塩」(Sal)に由来するらしい。肉食主体の人々にとって、生野菜を意図的に摂取することは大切なことだと思う。生野菜はそのままより塩で軽く味をつけたほうが食べやすい。しかしサラダの語源を見るにつけ、むしろ塩を意図的に摂取するための手段が野菜だったのではないかとも思えてくる。読むだけで血圧があがりそうな記事がこのところ続く。

2013年2月 2日 (土)

ベルヒテスガーデン

「Berchtesgaden」と綴るドイツ南端の保養地。ザルツブルクの南にある。1880年9月13日のことだ。この地で静養するクララをブラームスが訪ね、大学祝典序曲と悲劇的序曲のピアノ連弾版を2人で初演した。

このあたり元々は、ザルツブルク司教区に属していた。あるドイツ人が司教の許可を得ないまま岩塩鉱の探索を始めた。それが不首尾に終わればもめることも無かったのだろうが、得てしてそういう時に見つかるものだ。それが巨大な鉱脈だったからたまらない。その採掘権をめぐってザルツブルク司教とオーストリア皇帝の争いに発展した。軍隊まで借り出す大論争の末、バイエルン公国の領地とすることで決着したという。だからザルツブルクの南側にドイツ領が大きく回りこむ形になっている。

このとき発見された鉱脈こそが、ベルヒテスガーデンだ。今でもドイツ岩塩のトップブランドの座に君臨している。

2013年2月 1日 (金)

戦略物資としての「塩」

塩は人間の命に欠かせない。塩が無いと相当困るのだ。だから「敵に塩を送る」の故事でも判るとおり、「塩」は有効な戦略物資になり得る。

欧州にもその手の話があった。ドイツ統一の中核を担ったプロイセンは領内に製塩地を持たない。バルト海があるにはあるが有力な製塩地は言えない。事情はザクセンも同じだが、海に面していない分だけプロイセンより深刻だ。

あるいはスイス。隣のシュヴァーベン地方やバイエルン、はたまたオーストリアには有力な製塩地があるというのにスイスではからきし取れないし、海も無い。ウイリアムテルの活躍もあってハプスブルク家のオーストリアから独立を果たしたが、塩の供給はそのオーストリア、インスブルック近郊のハルに依存していた。うっかりすると独立を脅かしかねないアキレス腱だ。

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