トイトブルクの森
ビーレフェルトからオスナブリュック一帯に広がる森林地帯。標高はさほど高くない森で、西暦9年にローマ対ゲルマンの天下分け目の戦いがあった。日本人なら関が原の戦いを大抵知っているように、ドイツ人なら「トイトブルクの森の戦い」を皆が知っていると思っていい。
2万数千のローマ軍を約2万のゲルマン民族連合軍が全滅させた。軍勢の数で申せば、かなりの規模の戦だが、ゲルマン連合軍は地の利を生かしてゲリラ戦法に徹した。ローマの司令官ヴァルスは自決した。アルミニウスはドイツ風にいうとヘルマンだ。彼は紀元前5年までにティベリウスによって達成されたゲルマニア征服の後、ローマの補助隊に属して手柄を重ねた。このとき正規軍3万に補助隊5千およびその家族の混合軍が、ゲルマニア中部からライン沿岸の軍団駐屯地に向けて移動中だった。征服戦に対する防衛ではなかった。征服済みの領地内での単なる移動だったから家族まで含んでいたのだ。ニセ情報をつかませて悪天候の中森に入るよう仕向けて待ち伏せた。イメージ的には「本能寺の変」に近い。
ローマ側の記述はトイトブルクの隘路でという簡潔な表現にとどまっていて長らく場所がわからなかった。1875年には戦勝記念のモニュメントがデトモルトに建てられた。古戦場がこの付近だと思われていたためだ。ブラームスがはじめて職を得たあのデトモルトである。
詳細な位置については長らく論争になっていた。邪馬台国論争のようなものだ。1987年になってあるアマチュア愛好家が金属探知機を用いて大量のコインを発見する。2年後に始まった正式発掘により、おびただしい遺物が顕われた。人骨はほぼ成人男子のものに限られることに加え、発掘されるコインの鋳造年代が西暦9年以前のものに限られることが決め手となってここがトイトブルクと確定した。ちなみにこの場所はドイツ・ローマ学の泰斗モムゼンの予言通りの場所だった。
オスナブリュック(Osnabruck)の北10kmにBramscheという街がある。この街の東の町外れKalkrieseというのがその古戦場だ。愛用の道路地図巻末の索引には載っていない。
現在の地図にはKalkrieseの北を大きな運河が通っているが、もちろん当時は存在しなかった。そのまた北にはKalkrieser moorという湿地帯が現在の地図にも載っている。当時は湖だったとも言われている。そして南には150m前後の山と森だ。山と湿地の境界をなす細長い通路を進むローマ軍を南の山麓に陣取ったゲルマン軍が横から不意打ちしたと伝えられている。
それにしてもこの戦いの意味は大きい。これ以降ラインとドナウがローマとゲルマンの境界として固定されて行く。西暦9年の戦が、現在の独仏国境に影響を与えていることは間違いない。
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