マルヒフェルトの戦い
オーストリア・ウィーンの東側一帯、スロヴァキアとの国境を接するあたりの地名。「Marchfeld」と綴る。「March」は「境界」「国境」を意味するから「国境が原」くらいな意味かもしれない。事実このあたりは神聖ローマ帝国の辺境で、「オストマルク」(東の国境)と呼ばれた地域で、「オーストリア」の語源にもなっている。
さて毎度毎度の注目は語尾。「feld」は「野」と解されて疑われない。「野」はもちろんだが、日本語の「原」くらいのニュアンスも含まれるかもしれない。
注意しておきたいのは「戦場」という意味があることだ。「Feldarzt」で「軍医」だし、「Feldmusikant」が「軍楽隊」を表す。
1278年ハプスブルク家ルドルフ一世とボヘミア王オタカル2世がここで戦った。大空位時代に終止符を打つべく皇帝に選ばれたルドルフ1世だが、当時はスイスの弱小貴族に過ぎない一方、オタカル2世は現在のチェコとオーストリアの東半分を有する大勢力だ。当時としてはやや卑怯な伏兵を駆使した結果、大方の予想を裏切ってルドルフ1世の勝利となり、オタカル2世は戦死する。
オタカル1世の旧領がルドルフ1世の手に渡り、ハプスブルク家のオーストリア進出が実現した。1918年第一次大戦でハプスブルク家が滅亡するまで、ずっとオーストリアに君臨することになる。
ハプスブルク家の関が原である。
娘らの関が原スペシャルコンサートまであと3日。
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