ウィルヘルムスヘーエ
「Wilhelmshohe」と綴るドイツの地名。「o」はウムラウトだ。地名語尾「hohe」は、「高地」「丘」くらいの意味だから全体で「ウイルヘルムの丘」「ウイルヘルム高地」とでも解すればいい。カッセルの西郊にある標高500mほどの山。山頂にヘラクレス城という宮殿がある。
1870年9月1日普仏戦争の天王山ゼダンの戦いで、ナポレオン3世が捕虜になった。プロイセンの完勝だ。ビスマルクとナポレオン3世の会見はゼダン西方の小村ドンシュリ。その後ビスマルクはウイルヘルム1世とナポレオン3世をベルヴューまで馬車で護送する。捕虜とは言え、フランス皇帝だから、そこそこキチンとした待遇だ。ビスマルクはナポレオンの乗る馬車の右側を馬で帯同した。
やがてナポレオン3世が幽閉されたのが先のヘラクレス城だ。フランス皇帝が幽閉されるのがウイルヘルムヘーエとは手厳しい。当時黙ってウイルヘルムといえばプロイセン王ウイルヘルム1世に決まっている。さらにこの地はウエストファリア王時代にナポレオンが使っていた城に他ならない。当時はこの同じ場所がナポレオンスヘーエと呼ばれていた。
ベルサイユ宮殿においてドイツ帝国皇帝即位式を挙行した影に隠れているがこちらもフランス国民をいたく傷つけたに違いない。英仏間の国際特急のロンドン側の起点がワーテルロー駅だったことをフランス国民は長く気にしていたくらいだ。こうしたさりげない仕打ちは、やられた側の心に長く残る。
さてさてフランス皇帝を捕虜にして浮かれる暇もなく頭を抱えたのがビスマルク。普仏戦争はプロイセンの形勢がいいうちに、さっさと講和を考えていたのに、和平交渉の相手が捕虜になってしまったからだ。案の定フランスは即刻共和制に移行してしまったから、とらわれのナポレオン3世を交渉の材料にすることが出来なくなった。
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