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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2013年11月30日 (土)

カルルスバーグ

1846年ミュンヘンの下面発酵ビールに魅せられたヤコプ・クリスチャン・ヤコプセンは、デンマークでこれを醸造したいと考えた。ミュンヘンの酵母をデンマークまで運ぶ必要がある。発酵タンクから取り出された酵母が、健全な状態でいられるのは、摂氏0度に保っても1週間程度が限度とされている。ヤコプセンは馬車を乗り継ぐたびに冷水を交換しながら走りに走ってコペンハーゲンに着いた。翌年デンマーク初のラガービールが誕生することとなった。

コペンハーゲン郊外の小高い丘に土地を確保して工場を作った。息子の名前をとって「Carlsberg」と名付けた。これこそが今や巨大企業となったカルルスバーグ社の起源である。

一方、研究にも熱意を注いだ彼は同時に研究所も開設して醸造技術の研鑽に励むこととなる。その中から酵母の精製法が世界で初めて考案され、下面発酵酵母の単離精製に成功した。学名「Sacharomyces Carlsbergensis」の由来となっている。

1868年3月ブラームスはコペンハーゲンを訪れている。舌禍事件を起こして予定を切り上げて帰国したとされているが、このときカルルスベルクのビールを賞味した可能性は低くないとにらんでいる。

2013年11月29日 (金)

ヴィクトリアプルゼニ

サッカーの欧州チャンピオンズリーグは、現在グループリーグが佳境。前年王者バイエルンミュンヘンが戦うD組の中に、ヴィクトリアプルゼニというチェコのクラブがある。「プルゼニ」は地名だ。ドイツ語としては「Pilsen」という。お察しの通り、3大ラガーの筆頭ピルゼンだ。ミュンヘンから導入した製法を使って、現地特有の軟水で仕込んだのが、ピルスナーあるいはピルスだ。これが欧州全土を席巻したことは既に何度も書いた。ミュンヘンが巻き返すのは淡色系のヘレスが開発されてからになる。

今年のチャンピオンズリーグ予選D組は、ピルスナー誕生にまつわる因縁のミュンヘンとピルゼンが同居したということだ。ビールで言えばピルゼンとミュンヘンは互角なのだが、サッカーでは両チームの実力差は歴然で、バイエルンの2連勝だった。その気で捜すとG組にはオーストリアウィーンがいる。3大ラガーの産地、ミュンヘン、ピルゼン、ウィーンのクラブが勢ぞろいしたというわけだ。

2013年11月28日 (木)

ウィーンのピルスナー

ブラームスの日常の証言者が、ブラームス愛飲のビールの銘柄には言及しないと嘆いたが、唯一の作曲の弟子イエンナーが貴重な証言を残してくれている。

ブラームスに弟子入り後の日常を記した中に、ウィーン滞在中は12時半になると連れ立って「赤いハリネズミ」に昼食に出かけたと証言する。そこでは決まってグラス1杯の「ピルスナービール」または2~3杯の赤ワインを注文したと添えられている。

おぉおってなもんだ。

ウイーン、ミュンヘン、ピルゼンが下面発酵酵母によるビールつまりラガーの三大生産地であることは既に何度も述べてきた。このうちチェコのピルゼンが、同地の水に由来する淡色ビールを発売して、瞬く間に欧州を席捲した結果、ウィーンとミュンヘンがピルゼンに圧倒されたしまうというのが19世紀後半の流れだった。ピルスナーというのはピルゼンのことであるから、ウィーン在住が長いブラームスでさえ、ウィーナーを飲まずにピルスナーを飲むことが日常化していたというこの証言は、つくづく貴重である。1888年2月の時点で既にウィーンにもピルスナーが浸透していた証拠になる。

2013年11月27日 (水)

晩酌の中身

1876年の夏を北ドイツのリゾート地リューゲン島で過ごすブラームスの様子が、ジョージ・ヘンシェルによって証言されている。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻だ。その中103ページに貴重な証言がある。

ブラームスは夕食のとき決まってビール3杯を飲んだと書いてある。最後にはお気に入りのコーヒーも欠かせなかったとされている。ビール3杯がどれほどの量か断言できないが、常識的に考えてコップでということはないだろう。おそらくジョッキだ。

ビールもコーヒーもその銘柄が判らないのが残念ではあるが、貴重な証言。ビールは普通に考えれば地元産に決まっている。

2013年11月26日 (火)

ウィーンのビール

1862年以降ブラームスはウィーンに居を構えた。独身の彼の夕食は大抵外食だった。食卓にはいつもビールがあったと思っていい。しかしながらブラームスに言及した書物がビールの銘柄を書き落としている。

ブラームスがいた19世紀後半は3大ラガーのウィーンが、ピルゼンの一人勝ちの狭間で衰退して行く過程と時期的に重なっていたはずだ。ウィーン特有の「ウィーン麦芽」を用いた褐色のラガービールを飲んだに決まっているが、おそらくピルゼンの淡色も口にしたことだろう。

2013年11月25日 (月)

故郷のビール

ブラームスの故郷ハンブルク。彼の故郷はどんなビールを育んだのだろう。ワインの醸造になるとハンブルクはお手上げだがビールならば伝統がある。英国風の上面発酵ビールが古くから作られていた。

何と言ってもアルトナ発祥のホルステン社が名高い。 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公が1879年にビール醸造権を与えたが、「Holstein」を「ホルシュタイン」と発音せず「ホルステン」と発音することから「Holsten」となった。馬に乗ったホルスタイン公が目印。

ブラームスの幼い頃には無かったが、名誉市民に選ばれた頃時にはこのビールで乾杯できたハズだ。現在の主力品種はピルゼンだが、当時もピルゼンだったかどうかは不明。

2013年11月24日 (日)

ビスマルクお気に入り

日本の言い伝えに頻繁に登場する人物がいる。たとえば弘法大師。各地に弘法大師が登場する言い伝えがある。史実として弘法大師が各地を回ったかどうかはともかく庶民の側には貴人来着の伝説を欲する事情がある。水戸黄門、ヤマトタケル、源義経、安徳天皇などもこれに近い。

ドイツでは、まずカール大帝か。アッティラも怪しい。次いでルーターあたり。生涯の模様があまりにもはっきり判っている人は難しい。

ビールを調べていると頻繁に「ビスマルクお気に入り」という表現に遭遇する。「ドルトムンダー」や「ラーデベルガー」あるいは「ギネススタウト」など。ドイツ帝国創設の鉄血宰相は、帝国内あちこちに出かけた際、食事の場面でビールが供されることも多かったはずだ。その行く先々で地元のビールが提供され、ビスマルクがそれを旨そうに呑んだ場合、それが「ビスマルクお気に入り」と伝えられているなどということはあるまいな。

彼は宰相として通常ベルリンに居住し、休暇は自宅のフリードリヒスルーで過ごす。もしベルリンや、フリードリヒスルーで日常ドルトムンダーをせっせと取り寄せて呑んでいたら、たしかに「ドルトムンダーを好んだ」ということになるのだが、そのあたりに明確に言及した資料に出会えていない。

「行く先々でご当地のビールを旨そうに呑んだ」という話の方がぐっと自然に映る。ブラームスだって演奏旅行で各地を飛び回って地元ビール豪快に飲んでいたに決まっているが、「ブラームス愛飲の銘柄」だなどと伝えられてはいない。要はビスマルクとブラームスの格の違いでしかない。ドイツ人一般の心情に照らして「ビスマルクお気に入り」の方がありがたみが深いのだ。

2013年11月23日 (土)

ブラックベルベット

カクテルの名前だ。詳しいレシピは判らぬが、シャンパンとギネススタウトで作るらしい。ドイツ帝国宰相ビスマルクのお気に入りだったと聞く。1861年にアルバート公の死を悼んで考案されたという。

ギネス社は1759年にアイルランドのアーサー・ギネスがダブリンで起こした会社だ。スタウトと呼ばれるエール・上面発酵ビールだけを作って1886年の時点で世界最大のビール会社になった。世界記録を集めた「ギネスブック」の主催者でもある。

19世紀初頭に同社が発売したスタウトは黒ビールの代表格。白い泡とのコントラストが高貴な感じである。生涯アイルランドはおろか英国にわたることさえ拒んだブラームスだが、1886年時点での世界最大のメーカーだったギネスのフラッグシッププロダクトを賞味していた可能性は低くない。

ビスマルク愛飲のカクテルだって飲んでいたかもしれない。

2013年11月22日 (金)

ラーデベルガー

「Radeberger」と綴る。ドレスデンの北東に位置する街ラーデベルグにある醸造所。2011年の生産量でドイツ第9位を占める。創業は1872年で、ザクセン王室にビールを献上していた。「おお」ってなもんだ。

1884年留学中に同地に滞在し、1度だけ王室主催の晩餐会に出席した森鴎外は、ラーデベルガーを賞味していた可能性がある。

鴎外の「独逸日記」にはビールに関する記述が頻繁に見られるが、銘柄については書かれていない。ラーデベルガーは有力候補だ。

2013年11月21日 (木)

リンデ製氷機株式会社

カール・フォン・リンデ(1842-1934)が1879年にウィースバーデンに設立した会社。リンデはボルジヒの機関車工場で働いた後、ミュンヘン工科学校の講師となり、1870年代初頭から商業用冷凍機の製作に注力した。その1号機により1873年に特許を取得し、当時ビールやワインの殺菌対策に追われていた醸造業界の注目するところなった。これによる急速な事業化に対応するために設立されたのが同社である。

冷凍機の普及により、ビール製造方法のうち低温発酵酵母(下面発酵酵母)によるラガービールの優位が理論的にも技術的にも確立した。明治中期の日本で相次いで創業した国産ブルワリーが、当時まだ高価だった冷凍機を続々と導入したことにより、わが国ビール業界はラガー優位の方向に大きく踏み出した。

1890年までに数百台を販売し、醸造にとどまらず、精肉や水産の業界にも浸透し、やがて到来する冷凍食品時代を準備した功績は大きい。

2013年11月20日 (水)

第3のビール

日本の不況は深刻だなどと嘆いてばかりもいられないのがメーカーだ。知恵を絞って何とか売り上げ拡大を考える。ビールの消費拡大についても同様で、欧州に比べて割高の酒税をなんとかしようと考えた人々がいる。

税率の低い発泡酒はそれでブレークした。麦芽使用を税法の規定以下に抑えることで税額を低くとどめてそれを価格に反映させた。味はそこそこでお求め易いということだ。ただし「ビール」と謳うことは出来ないから、商品名にさまざな工夫をしたこと周知のとおりである。

さらにエスカレートして出たのが第3のビールだ。あっと驚く「麦芽使用ゼロ」だ。麦芽を他の原料に置き換えるという発想とこれを実現する技術の勝利と言いたいところだが、これには昨今の嗜好の変化もある。アメリカに端を発したライト化の波だ。麦芽風味が抑えられたアメリカンラガー系の味に消費者が慣れていたことも見逃してはなるまい。

「麦芽ゼロ」は衝撃だ。ビール純粋令的には完全にアウト。もはやそれをビールとは呼べまいという代物なのだが、現実はかなり柔軟。「発泡酒」「第三のビール」は生産量においてビールと肩を並べるところまで来ている。

2013年11月19日 (火)

ビール酒税

ドイツのビールは安くて旨かった。けれどもそれを直ちに日本のビールはけしからんと短絡してはいけない。日本のビールには350ml一缶あたり77円もの税金が乗せられている。

ドイツにおけるビールへの課税は、発酵前の麦汁濃度で決められる。ドイツビールの大半を占める「Vollbier」は11~14%。このクラスには1リットルあたり7円~13円となっている。「7円~13円」という具合に幅を持っているのは、同じ初期麦汁濃度であっても、醸造所の規模によって課税額が違うからだ。小規模醸造所ほど低く課税される。マイクロブルワリが税制上優遇されているということだ。

さすがドイツなどと言ってばかりもいられない。最近私のストレスはむしろ別の方向に向いている。ブラームス在世当時のドイツやオーストリアにおけるビールへの課税がなかなか突き止めきれずにいる。

2013年11月18日 (月)

ビールと産業革命

産業革命ではビールも多大な影響を受けた。1834年の関税同盟成立から始まるドイツの産業革命の中、ビール産業に決定的な影響をもたらす出来事が相次いだ。

  1. 1866年 低温殺菌法の考案。フランスのパスツールの功績。
  2. 1875年 アンモニア式冷凍機の発明。これはドイツのリンデ。
  3. 1888年 下面発酵酵母の単離精製に成功。デンマークのカルルスバーグ研究所。

この3つによりビール製造におけるラガーの優位が定着した。ビールが巨大な産業へと変貌して行くことになる。産業革命の進行により労働者が集中するルール工業地帯が、巨大なビールマーケットとなり、ドルトムントが最大の醸造都市に躍り出る。全部ブラームス存命中の出来事だが、音楽家の伝記の哀しさで、当然ながら言及されない。

とりわけ上記1と3により、発酵が科学的に解明されてゆく。発酵工程の管理により仕込みから製品が正確に予想できるようになる。ビールは酵母頼みの運任せではなくて、規格化された工業製品になって行く。装置産業ととらえて、巨大な最新プラントをフル回転させることで最大の利潤を生み出すこととなる。得てしてその最低生産量は地元の消費量を超えてしまい、製品の域外出荷が始まる。ここで大切なのは、これも産業革命の申し子である鉄道だ。馬車輸送では考えられぬような遠方へのビール供給が可能になる。地元産でないビールを売るための広告もまた重要な要素になる。発達を始めたマスコミを利用したブランドイメージ戦略の夜明けとなる。

以上、これこそが資本の論理に沿った自然な発展なのだが、ドイツだけはその論理に背を向ける。ドイツ以外の主要なビール生産国は皆同じ道筋をたどった。

2013年11月17日 (日)

今更ですが

今日は父の命日。昨年17回忌を済ませた。法事の案内は元号を使うから気付かなかったが、父の没年平成9年は1997年だった。

西暦にするとよくわかる。それはブラームスの没後100年に相当するのだ。父の誕生日は4月3日で、ブラームスの命日だ。それで没年がキッカリ100年違いとは縁がある。

おまけに11月17日はドヴォルザーク夫妻の結婚記念日だったりもする。

アルコール全般をたしなんだがあまり強いとは言えず、雰囲気を楽しみたい方だ。ビールも好きだったがもっぱら国内産で、季節はやはり夏だった。湯上りの最初の一杯をキューッとが最高の楽しみだった。

2013年11月16日 (土)

ビアフォンファス

ドイツ語で「Bier von Fass」と綴る。「Fass」は「樽」なので、樽詰めビールのことだ。ドイツでは瓶入りよりもこちらが評価されている。醸造所から樽が専用馬車で運ばれるのは、昔のドイツならではの光景だった。

樽からジョッキに注がれる際には熟練の職人芸が必要で。適度な泡を立てるには技が必須だったらしい。

まあ普通に考えてブラームスは「ビアフォンファス」をたしなんでいたと見て間違いあるまい。

2013年11月15日 (金)

酸敗

ビールの敵。発酵または熟成中のビールが微生物の影響を受けて酸っぱくなること。今ほど微生物管理が出来なかった時代には、ビール醸造はいつも酸敗の脅威との戦いだった。酸敗の原因が微生物の活動であることさえ判っていなかった。特に発酵の温度が高い上面発酵では深刻だった。アルコールの度数を上げたり、ホップの配合を増やしたりと手を打ってはいたが、それでも2割は酸敗のためにその年のビールが全量廃棄となったらしい。醸造家というのはとてもリスキーな商売だった。

味噌醤油は塩分が高いことである程度微生物の増殖を抑えられるが、ビールに塩を混ぜるわけにも行かない。

バイエルン地方の醸造家は、水が凍結するような低温でもゆっくりと発酵を続ける酵母がいることに気付いた。発酵温度を14度未満に抑えながら、じっくりと発酵させることで、不要な微生物の増殖を抑えることを思いついた。この酵母は発酵タンクに沈殿するので「下面発酵酵母」と言われる。冬の間に川から切り出した氷を洞窟に貯蔵して、その中で発酵を進めるのだ。「ラガー」の起源である。

2013年11月14日 (木)

植民地獲得競争

17世紀インドへの迂回航路探しに端を発した大航海時代は、欧州列強による植民地獲得競争にエスカレートする。小邦分立の時代が長く続いたドイツ諸邦は、その流れに乗り損なう。時代を反映した興味深いジョークがある。

そのジョークは「植民地において最初にすることは?」という問いで始まる。

「オランダ人は要塞を作り、ポルトガル人は教会を作る」「そしてイギリス人はパブを作る」となって一旦落ちるが、私がさらに試みる。

「しからばドイツ人は?」と続くのだ。「イギリス人の作ったパブでビールを飲む」と結びたい。

植民地獲得競争にドイツが遅れを取っていた事実が巧妙に反映しているばかりか、当時はビールにおいてもイギリスが最先端だったことさえ匂わせる。

2013年11月13日 (水)

ベルジアンレース

直訳すれば「ベルギーのレース」だ。「レース」は「競争」ではなくて編み物の方。

ビールをグラスに注いだ際の泡には、さまざまな効能が謳われる。ドイツ人は一般にビールに泡がつき物と思っている。正しい泡の立て方、泡の厚み、一度にのどに流し込む正しい量とがビールの種類ごとに決められていると思っていい。

適切な厚みの泡が立ったビールを適切な量のどに流し込む。毎回同じ場所から飲んでいると、口をつけたのと反対側のグラスまたはジョッキの内側に、ビールの泡の痕が白く残る。これが「ベルジアンレース」だ。泡の痕がレース編みに似ていることからこういわれている。

鮮やかなベルジアンレースは、通な飲みっぷりの結果とされている。ブラームスが使用したジョッキには毎回ベルジアンレースが残ったと思いたいが、英語ではなくて「Belgisch Spitze」とドイツ語で呼んでいたかもしれない。

2013年11月12日 (火)

ビール史の断絶

ビールの起源を論ずる際にしばしば定説として語られるのが5000年前のメソポタミアだ。あるいは3000年前のバニロニアも現れる。エジプトに次いでローマが出現し、やっとゲルマン人が記録に登場するのが2000年前くらい。

ところが注意したいのはそのゲルマン人の「ビールのような飲み物」が、5000年前のメソポタミアでの醸造が伝播したものかどうかは判っていない。その上そのどちらも現代の我々が思い浮かべるビールとは似ても似つかない代物。

それらを年表上に一列に連ねて論じてしまうととんだ誤解を招く。現代のビールの直系の先祖は、ホップの添加が行き渡って以降だと思ったほうがいい。

愛するドイツビールの先祖がメソポタミアやエジプトかどうかは不明なのだ。心情としてはローマ人か記録したゲルマンの飲み物となら結び付けてもいい気がする程度だ。

2013年11月11日 (月)

ドイツビールの起源

詳しくは不明というのが良心的だ。はっきりとローマ人の関与が認められるワインと対照的に、どうもローマ人との接触以前から、ドイツではビールが愛好されていた節がある。クルムバッハで発見されたジョッキは、おそらくビールを注いだものと想像され、紀元前800年と推定されている。

ゲルマン民族に対するローマの歴史家の記述にも「穀粒を水に浸して作る酒」と表現され、博物学者プリニウスはこれを「Cervisia」と呼んだ。これが「ビール」に相当するラテン語で上面発酵酵母の学名「Sacharomyces cervisiae」の中に反映している。

2013年11月10日 (日)

商人の名前

西暦248年のことだ。現ドイツ領ルクセンブルク国境に近いトーリアでローマの商人が、ゲルマンの女性醸造家からビールを買ったという記録が残っている。ローマ側にビールの需要があった証拠である他、古代のビール製造は女性にゆだねられていた事実とも一致する。取引の場所トーリアは当時ローマのガリア支配の中心地だったことも説得力を補強する材料だ。中国人と並んでローマ人は記録魔だ。本当に細かなことがわかって興味深い。

このときゲルマンの女性からビールを買ったローマ商人の名前も記録されている。「Cervesarius」という。おそらく男性だと思われるが、ビールを意味するラテン語「Cervisia」との近似が気になる。「花屋の花子」みたいな感じだ。「Cervesarius」はいわば「ビール屋」に相当する普通名詞だった可能性を考えたい。

2013年11月 9日 (土)

フリードリヒバルバロッサ

フリードリヒ大王とも呼ばれ、日本語では「赤ひげ王」と標記されることもある。ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ帝国皇帝だ。皇帝への即位は1152年。戴冠は1155年。その4年後に最古のビール法を制定する。

「粗悪なビールを提供する業者は罰せられる」というものだ。これが最古の都市法とも目されている。逆に申せばそういう悪徳業者がいて、被害が発生していたことの裏返しでもある。

名高いビール純粋令より、およそ400年遡る。

2013年11月 8日 (金)

ヴァイキング

北ゲルマン諸族の総称。スカンジナビアを根城に広範囲に活躍した海洋民族。その活動範囲は遠く地中海にまで及んだ。海賊行為・略奪・破壊など他民族から恐れられた。コロンブスを遡ること500年前に既に彼らは北米大陸を発見していたという伝承も根強い。

江戸時代の日本が「米経済」だと言われているのと同様な現象がヴァイキングにも起きていた。まさか米ではない。米に代わって経済の根幹に鎮座していたのがビールだ。彼らの言葉で「アウル」という。これが英語「エール」(Ale)の語源だともいう。蜂蜜や数種類のハーブが用いられていたが、ホップの使用は確認されていない。

ヴァイキングの社会では、エールに酔った上での発言にはより重みと責任があるとされていた。酔った上でのことだからと大目に見られるのとは逆である。土地や建物の賃料をエールで払う習慣があった他、税金もエールで納入するのが決まりだった。エールやビールに税金がかけられるのは珍しくないが、エールでの納税もあったとすると相当紛らわしくなりそうだ。

英国を含む北ヨーロッパのビール文化はヴァイキング由来のものが多い。

2013年11月 7日 (木)

再びカール大帝

アラビアンナイト計画の冒頭を飾った「ワイン特集」でカール大帝に言及した。インゲルハイムの王宮の北側、ライン川をはさんだ対岸にある丘にブドウを植えさせた故事だ。これが現在まで続くヨハニスベルクの発祥だとされている。

ドイツ・フランス両国のワイン生産にはカール大帝の痕跡が色濃く刻印されている。100%史実として鵜呑みに出来るかどうかはともかく、ワイン生産の淵源を貴人に結び付けたい庶民の心理は理解できる。

カール大帝は酒豪だったらしいのだが、どちらかというとワインよりもビールを欲したとされている。804年にザクセンを帰順させた後、さっそくキリスト教の布教に着手する。各地に修道院を建設して拠点とする。マインツが手始めに建設された。

各地に修道院を起こし布教の拠点にしワイン栽培を広めたのだが、一方でビールの生産も修道院の重要な生業だった。ブドウ栽培に向かない土地ではビールを生産したのだ。

2013年11月 6日 (水)

ビールの色合い

ドイツでは日本に比べて、普通にお目にかかれるビールの種類が多い。色だけを見てもとりあえず多彩だ。ビールの色を表現する単語を淡い順に並べてみた。

  1. hellgelb 淡黄色 ピルス、ケルシュ
  2. goldgelb 山吹色 ピルス、ケルシュ
  3. dunkelgelb 濃黄色 ケルシュ
  4. bernsteinfasrben 琥珀色 ケルシュ、ヴァイツェン、ヘレス
  5. goldbraun 黄金色 ケルシュ、メルツェン、エクスポート
  6. kupferfarben 銅色 アルトビア、メルツェン
  7. hellbraun 薄茶色 アルトビア、ドゥンクレス、ラオホ
  8. dunkelbraun こげ茶色 アルトビア、ドゥンクレス、ラオホ
  9. schwarz 黒

日本では1か2が多い。

2013年11月 5日 (火)

さあ湖を渡ろう

ドイツ語で「Jetzt fahrn wir uber'n See」と歌いだされる北ボヘミア地方の民謡。丸木舟で湖を渡ろうというお誘いの歌詞だが、意味は良く通じない。語呂とノリが命なのだと思う。楽節の途中でナタでばっさり打ち切るようなゲネラウパウゼがある。大勢で歌っていてこの場所を飛び出した奴にペナルティを課すお遊び歌だとされている。

よくよく調べるとホップ収穫の労働歌だという。声を合わせてリズミカルに歌いながら作業することで能率が上がったり、つらい作業の気休めになるらしく、古来働きながら歌うというコンセプトの歌が広く伝えらてきた。

19世紀を席巻したピルゼンを持ち出すまでも無くボヘミアはビールの大産地。ホップについても当地特産があったのだ。ワイン用のブドウ収穫の作業と並んで過酷な作業であったと伝えられている。

2013年11月 4日 (月)

ハットトリック

そりゃもちろんサッカーの用語。一人のプレイヤーが1試合で3ゴールを記録すること。イタリア語では「トリプレッタ」という。オウンゴールは含まれてはいけないし、PK戦でのゴールはカウントされない。

由来はクリケットだとされている。一人の投手が3球で3人の打者をアウトにしたさい、栄誉を称えるために帽子が贈られたことに由来するというのが定説。

ドイツのハラタウ地方は世界最大のホップ生産地だ。毎年秋にはホップの収穫祭が開かれる。そのシーズンで、仲買人に最初にホップを売った農家に帽子が贈られるならわしがある。栄誉を称えるために帽子を贈るのはハットトリックと同じだが、何か関係があるのだろうか。

2013年11月 3日 (日)

ハラタウ地方

ミュンヘンの北およそ50kmのあたり一帯。ビール醸造家にとっての聖地。世界に誇るホップの産地。ドイツ全体の作付面積およそ2万3千ヘクタールに対し、ハラタウ地方だけで1万9千ヘクタールを擁する。アロマホップ、ビターホップともに高品質で知られる。バイエルンのラガーの命綱的位置づけ。比肩する産地があるとすれば、チェコのザーツ地方くらいか。

大きな町は無い。強いて申せばMainburgくらい。ブラームスの伝記を読んでいても言及されることはないのだが、ブラームスが飲んだビールに使われていたホップは、ここハラタウ産だったと断じてもいいくらいだ。

2013年11月 2日 (土)

ホップ

ビールの原料の一つ。ドイツは世界一の生産国で、およそ25%を占める。

16世紀に施行されたバイエルンの「ビール純粋令」においてビールの原料とされている。ビールに苦味と香りを付与する。黒海とカスピ海に挟まれた地域の原産とされているが、最古のワイン生産地と一致するのも面白い。

元々ビールには多彩なハーブや薬草が用いられていたが、文献上では12世紀になってホップを使うことが発明されたとされるが、もっと遡ると見る学者も多いと聞く。香りや苦味に加え抗菌性もあったことがポイントだといわれている。頑強な抵抗もあったが15世紀までには定着していた。だからビール純粋令にも登場するというわけだ。

さてワインとの因果で申せば、このホップをビールに添加することを発明したのは、ドイツの女子修道院だったらしい。ライン沿岸のビンゲン近郊である。12世紀と言えばビンゲンの対岸ラインガウの修道院が設立された頃だ。ビールの命とも思えるホップの使用が、ドイツワインの心臓部から目と鼻の先で始まったということだ。

2013年11月 1日 (金)

バンベルク

「Bamberg」と綴られる。ニュルンベルクの北100km、北フランケンの由緒ある街。当地で作られる非常に特徴あるビールで名高い。「Rauchbier」という。低温発酵・低温貯蔵というところまではバイエルンの下面発酵ビールと同じ設定だが、麦芽を焙燥するところに決定的な差がある。

適度に湿らせたブナの木の丸太を燃やして燻煙にさらしたものだ。数箇所の醸造所で作られているらしいが、独特の癖がある。先のドイツ旅行でバンベルクを訪れた際、昼食の席でラオホビールを飲んだ。「癖があるから」というガイドの割には、すんなりと喉を通ったどころかおいしさという点では最高だった。

ブラームスの伝記を調べてもバンベルクへの訪問や滞在という記事に出会わない。バンベルク以外では滅多に賞味できないビールだから、もしかするとブラームスは飲んでいないかもしれない。

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