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2014年1月31日 (金)

兵器としての鉄道網

ナポレオン戦争の戦後処理ウィーン会議において、ドイツの台頭を歓迎しない列強の思惑により、小邦分立が意図的に維持されたドイツは、小さいながらも主権を伴った国々の集合体となった。だから鉄道の敷設も小邦ごとに独自に進められた。

実はそのことが普仏戦争では有利に働いたとも言える。フランスやオーストリアは、古くから強大な中央集権国家が綿々と維持されてきた。だからパリやウィーンの国内における位置付けはまさに別格だった。それゆえ鉄道の路線は首都から放射状に発展した。一方のドイツの鉄道は小邦分立だったから、放射状にはならずに網の目状になった。ドイツ国内の任意の2点を結ぶ路線がいつもほぼ最短ルートで存在した。同時に複数の迂回ルートも設定できた。迂回ルートの存在は物資や兵員を目的地に下ろした後の空の貨車を、送り返すのに役立つ。必ずしも複線を必要としなくなるからだ。国境あるいは最前線に沿って大量輸送を短期間に実現するにはうってつけである。

フランスではこうは行かない。放射状に伸びているということは、どこに行くにもパリを経由せねばならないということだ。空の車両の回送でさえ律儀に首都を経由する必要がある。路線網の実態で既に大差が付いていた上に、プロイセンは雌雄を決する最終決戦の場を、早くからゼダンと定めて、綿密な戦時ダイヤを設定し効率輸送に特化した。普仏戦争開戦までの35年間に、ドイツ鉄道の総延長は19000kmにも達していた。

フランスとドイツの違いを少々大袈裟に述べた。

実際に決定的な差を生み出したのは、戦争の動員に鉄道を使ってやれという意思の有無だった。

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