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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2014年2月28日 (金)

駅の機能

先般のドイツ旅行では、ドイツ滞在中必ず早朝散歩を挙行した。5時にホテルを出て6時半の朝食まで街をうろつく。

何と言ってもドイツにはコンビニが無い。件数の面では遠く及ばないが、ドイツでコンビニの代わりになっているのが駅だ。「中央駅」のような大きな駅には、一通りの店が揃っている。9時から5時という制約もゆるめで大抵はあいている。日曜だからといってしまっていることも無い。

初めての街では早朝散歩の目的地はいつも駅だった。鉄道関連の情報収集という目的もさることながら、数種類のファストフード、売店、薬局、書店、カフェ、銀行、雑貨、食品、などコンビニと同等の品揃えが期待できる。駅前には大抵周辺の地図が掲示されている。散歩のコースを考えるにはうってつけだ。

レヴァークーゼンやローテンブルクなど、ハウプトバーンホフを名乗らない小さな駅にも、売店を兼ねたカフェがあった。大抵は気のいいお母さん的な女性が店番をしている。

2014年2月27日 (木)

トンネルの長短

相変らず「ドイツ鉄道地図」に熱狂している。巻末に「トンネル索引」が掲載されている。ドイツの全ての鉄道トンネルが網羅されている。位置と長さが一目で判る。「オーストリア鉄道地図」の巻末にも載っている。

<最長トンネル>

・ドイツ ラントリュッケントンネル(Landrucken)10779m。フルダの南およそ16.5kmの位置。ICE専用線上のトンネルだ。高速鉄道が山並みを迂回せずにトンネルで突っ切るのは、日本でも同じ。ブラームスの時代なら確実に遠回りのルートが選択されていたはずだ。

・オーストリア インタールトンネル(Inntal)12756m。ウィーンからリンツ、ザルツブルクを通ってインスブルックに至る、オーストリアの大動脈路線は、ブレンナー峠経由でイタリアに向かうのだが、このトンネルはインスブルックをパスするバイパス線になっている。ドイツのミュンヘンや、ザルツブルクからイアリアに抜ける客向けのトンネルだ。

<最短トンネル>

・ドイツ フェルストアトンネル(Felstor)10m。プルーフェニング-エテルツブルク間というような解説はあまりに杓子定規。娘についていったドイツ旅行の半日の自由時間利用して、我々父子はICEに乗車する目的でレーゲンスブルクに向かった。列車がまさにレーゲンスブルクに到着する直前にこのフェルストアトンネルがあった。つまり我々はこのトンネルを通ったことがある。往路、帰路とも通過している。

・オーストリア トイフェルスマウアートンネル(Teufelsmauer)12m。ウィーンからドナウ北岸をリンツに向かう路線、シュイッツ-シュヴァーレンバッハ間にある。ドナウ北岸線は完全ローカルで、線路は繋がっているもの貨物線の色合いが濃い。

2014年2月26日 (水)

ビクトル・ユーゴー

ヴィクトル・ユーゴーは1802年2月26日生まれのフランスの作家。代表作はもちろん「レミゼラブル」だ。主人公ジャンバルジャンの半生を描いた大河小説。1862年に発表されたが、舞台は1815年から1833年までのフランス。主人公ジャンバルジャンが作中64歳で没するのが1833年である。これはブラームスの生年にあたる。64年の生涯というのもブラームスと一致する。

引退公演となった昨年5月12日のスペシャルコンサートで、次女たち36代は映画「レミゼラブル」のメドレーを演奏した。メインだったボロディン第二交響曲や、リスト「レプレリュード」ばかりが話題になるのだが、この「レミゼラブルメドレー」も気に入っている。OGのソプラノ歌手によって歌われた「夢やぶれて」は絶唱で、今でもメロディーが耳に焼き付いている。

ところが、私のナンバーワンは、「On my own」だ。薄幸の少女エポニーヌのモノローグが本当に心にしみる。娘たちのメドレーにも入っていた。本当に心のこもった演奏で、G線のアウフタクト4度跳躍からたち上がるのを聴くといまでも鳥肌が立つ。包容力あふれる幅広長調のメロディーが、少女の一途な思いに重なる。まったくもってブラームス的なメロディーだと思う。名高い「夢やぶれて」より私はむしろこっちだ。これに比肩するのはウエストサイドストーリーの「Somewhere」くらいだ。

2014年2月25日 (火)

皇帝の名の下に

ドイツで唯一皇帝の名を戴くのが「KaiserWilhelmTunnel」だ。場所はライン沿岸のコブレンツからモーゼル川を遡ってトーリアに抜ける途中にある。Cochem駅とEdige-Eller駅の間だ。ここでいうウィルヘルムはドイツ帝国初代皇帝のウィルヘルム1世のことである。

トンネルの着工が1874年で完成が1877年。1871年の普仏戦争勝利により成立したドイツ帝国の威信をかけたトンネルだ。フランスに譲渡させたアルザス・ロレーヌ地方をはじめ、ドイツの西部国境は軍事上の要衝だったから、巨大な輸送ニーズが発生した。コブレンツとトーリアを結ぶ鉄道はいわばその大動脈だ。皇帝の名を冠するトンネルの完成によりモーゼル川沿いを律儀に走るより一気に5kmに短縮されることとなる。

その総延長4205mは、完成当時ドイツ最長のトンネルとなったばかりか、驚くことに1988年までその位置づけを維持した。つまり1877年以降ブラームスの生きている間、ドイツ最長トンネルであり続けた。

2014年2月24日 (月)

シュロースベルク

ドイツではよくある地名「Schlossberg」だ。「Schloss」は「館」「屋敷」を意味する。ワインの世界ではフランス語の「シャトー」に相当する。「Berg」はおなじみの「山」だから、合わせて「御殿山」くらいの意味になる。

ドイツの鉄道では「Schlossberg Tunnel」が各地に散見される。区別するために後ろに地名を付与している。それら地名をキーにアルファベット順で列挙する。

  1. Arnsberg 275m ルール川が作る渓谷の中、アルンスベルク駅至近。ノルトラインウエストファーレン州は、このリストの中では北端。
  2. BadTeinach 280m シュトゥットガルトの西南西36km。
  3. Frankenstein 208m カイザースラウテルンの東15km。
  4. Greiz 264m ツヴィッカウの西南西21km。名高い醸造所がある街。
  5. Heidelberg 766m まさにあの名高いハイデルベルク市内。このリスト中最長のトンネルなのだが、現在使われていない廃線上にある。
  6. Hirschhorn 341m ハイデルベルクの東北東17km。
  7. Neuenburg 135m カールスルーエの南東23km。
  8. Schaibing 34m パッサウの東北東10km。廃線上にある。
  9. Scheer 95m ウルムの南西60km。
  10. Schwarzenberg 95m ツヴィッカウの南東27km。 
  11. Tubingen 288m テュービンゲンの西1km。
  12. Vormwald 270m ジーゲンの北東14km。
  13. Wertheim 626m ヴュルツブルクの西南西36km。

2014年2月23日 (日)

アウディトンネル

面白い名前のトンネルを発見した。長さ1258mで、つづりは「Audi」だから名高い自動車メーカーと一致する。さすがドイツ。トンネルにネーミングライツかと心が躍った。ついでに「ダイムラートンネル」「フォルクスヴァーゲントンネル」「メルセデストンネル」がありゃせんかと捜したが、見つからない。「ジーメンス」「クルップ」「ルフトハンザ」などの大企業名を冠したトンネルは他にない。それもそうで、通過のたびにいちいちトンネルの名前が車内でアナウンスされたりしないから、広告効果は高くはあるまい。

トンネルの名前は一般に、そのトンネルが貫く山や峠、あるいは山塊の名前が用いられる。それらを語幹に据えて、後は「新」「旧」「大」「小」「東」「西」「南」「北」「第一」「第二」の言葉で微調整が施される。だから「アウディトンネル」は「アウディ山」を貫いているのが自然だが、アウディ山は見当たらない。

ニュルンベルクからインゴルシュタットにかけてICE専用軌道が建設され、ドイツでは数少ない時速300km運転が実行されている。その新線がインゴルシュタット市街で在来線から分岐する部分に「アウディトンネル」が掘られている。インゴルシュタット市内だから山岳トンネルではない。よくよく見るとインゴルシュッタットノルド貨物駅の東側一帯がアウディ社の工場になっている。アウディトンネルは、工場の広大な一角の下をくぐっているということだ。

2014年2月22日 (土)

ドイツ最古のトンネル

1839年完成のOberaunerトンネルがドイツ最古のトンネルと目される。ザクセン王国の首都ドレスデンとライプチヒを結ぶドレスデン-ライピチヒ鉄道唯一のトンネルだ。ドレスデンの北西およそ18kmの位置にあり長さ513mである。ドレスデン-ライプチヒは幹線中の幹線だからもちろんブラームスもここを通っている。

めでたしめでたしと思っていたらどうやら怪しくなってきた。鉄道トンネルとしてドイツ最古は、別に存在する。

ライプチヒの西南西26kmの位置にBadDurrenbergという駅がある。かつてここからTollwitzという駅まで貨物専用線が敷かれていた。褐炭積み出し用の貨物線で軌道幅585mm、総延長4.5kmに過ぎないのだが、BadDurrenberg市内に178mのトンネルが掘られていた。これがドイツ最古のトンネルだ。1965年に廃止されてしまっている。貨物線だからブラームスが通ってはいないけれど最古は最古。

2014年2月21日 (金)

最長老トンネル

ウィーンの南にバーデンという街がある。ウィーンから「Sudbahn」(南鉄道)に乗ってこの街に向かう途中、「Gumpoldskirchen」駅と「Phaffstetten」駅の間に全長156mの「グンポルツキルヒナートンネル」がある。先に買い求めた「オーストリア鉄道地図」を良く見ると、このトンネルの横に注が振られている。

Altester Eisenbahntunnel Osterreich」

最初の「A」はウムラウトする。辞書を引くと「最長老の」とある。「オーストリア最長老の鉄道トンネル」と読める。平たく申せばオーストリア最古の鉄道トンネルだということだ。ブラームスが第二交響曲の作曲をすすめたペルチャッハや、第四交響曲をひねり出したミュルツツーシュラークに向かう際、この最長老トンネルを抜けていたことは間違いが無い。

2014年2月20日 (木)

ループトンネル

山岳鉄道の見せ場。短距離で高度を稼ぐ手段の一つ。スイスやオーストリアには割りと見かけるのだが、ドイツではあまり見かけない。先に紹介した「EISENBAHNATLAS」で調べて見ると、ドイツ国内ではおそらく唯一のループトンネルが南部のスイス国境付近にある。

ほぼドイツ南西端のバーゼルからライン川沿いに東に進むと、ラフリンゲンという街がある。そこから北側に分岐するのがヴタハタール鉄道だ。普仏戦争でアルザス地方を領有したドイツは、領国経営のために鉄道路線を欲した。対仏供給基地のウルムから、中立国スイスを通らずにアルザスに抜けるために、難儀な山岳鉄道が建設された。スイスが武器弾薬を積んだ列車の通行を認めなかったためだ。

シュトゥーリンゲンとブルムベルクの間がハイライトだ。地図で見る限り両者にはおよそ200mの高低差があるけれど、直線距離では12km程度だ。この高低差をクリアするために、ループトンネルが掘られている。現代ではもちろん幹線から外れているが、絶景が人気を呼んでSLも走っている。

1890年から運行が始まったから、ブラームスだって乗ることは出来た。

2014年2月19日 (水)

オーストリアの国境

さあ面白くなってきた。ドイツの鉄道が、国境をトンネルでパスしているのがたった一箇所で、それも貨物専用線だったと昨日書いた。折角「オーストリア鉄道地図」も持っているのだから、同じことをオーストリアでも調べてみたくなった。記事「国境のトンネル」でも言及したドイツから、時計回りに列挙する。

  1. ドイツ 8箇所。廃止路線上に1箇所。
  2. チェコ 4箇所。廃止路線上に6箇所。
  3. スロヴァキア 2箇所。廃止路線上に1箇所。
  4. ハンガリー 6箇所。廃止路線上に5箇所。
  5. スロヴェニア 3箇所。廃止路線上に2箇所。
  6. イタリア 3箇所。廃止路線はなし。
  7. リヒテンシュタイン 1箇所。廃止路線なし。
  8. スイス 1箇所、廃止路線なし。
  9. 合計 28箇所。廃止路線上に15箇所。

このうちトンネルは上記5番のスロヴェニアに抜けるカラヴァンケントンネル(7976m)ただ一箇所だった。

スイスにはシンプロンとモンスニという2つの長大な国境トンネルがある。これがあまりにも有名だから勘違いしていた。国境をトンネルでクリアするなど、そうそうある話ではないということだ。

2014年2月18日 (火)

国境のトンネル

「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」と始まる名作がある。今この作品や作者について薀蓄をぶちまけるほどの知識は持ち合わせていないが、最近妙に鉄道漬けになった脳味噌で、別に考察を試みる。

ドイツの鉄道は果たして何箇所で国境を越えているのだろう。頼もしい「ドイツ鉄道地図」で調べてみた。ドイツの北に接するデンマークから時計回りに列挙する。

  1. デンマーク 2箇所。
  2. ポーランド 14箇所。他に廃止された路線に12箇所。全て川を越える。
  3. チェコ 16箇所。他に廃止された路線に8箇所。
  4. オーストリア 8箇所。廃止された路線では1箇所。
  5. スイス 10箇所。廃止路線はなし。
  6. フランス 8箇所。廃止路線上には5箇所。
  7. ルクセンブルク 1箇所。廃止路線はなし。
  8. ベルギー 2箇所。廃止路線上に5箇所。
  9. オランダ 8箇所。廃止路線上に11か箇所。
  10. 合計 69箇所。廃止路線上に42箇所。

現役の路線で69箇所、これに加えて42箇所が廃止路線だから合わせて111箇所ということになる。さてさて、この111箇所の国境越え路線のうち、トンネルはとなるとわずか一箇所、アーヘンの南西に接するゲメニッヒャートンネル(870m)だけだ。トンネルを抜けるとそこはベルギーというノリである。廃止路線を含めて111箇所の国境のうち、トンネルがあるのが1箇所だった。しかもだ。たった1箇所のそのトンネルは貨物専用線上にある。一般の旅客列車はここを通らない。

いやはや意外な結末。ドイツでは旅客が国境のトンネルを抜けることが出来ない。

2014年2月17日 (月)

トンネルは夢

アルプス越えの歴史に触れてきた。鉄道技術者はトンネルでアルプスを越えることに夢中になったのだが、実はやはりもっと大きな夢があった。

アイデア自体は既に1802年に英国で出現した英仏海峡トンネルだ。これはナポレオンをめぐる英仏対立の中で立ち消えているが、驚くべきは世界初の鉄道が英国で産声をあげる前である点だ。英仏トンネルは英国とフランスの蜜月振りが反映する鏡でもあった。クリミア戦争をともに戦った英仏だが、その戦争が終わった1856年には、再び英仏海峡トンネルのプランが浮上し、ヴィクトリア女王とナポレオン3世に奏上された。

全長30kmを下回らないトンネルの課題は換気。当時はまだ電気機関車は発明されていない。これもあっさり立ち消えた。

普仏戦争後のビスマルクによって欧州で孤立させられたフランスは、ドイツへの対抗上英国に接近する。その過程の中で1881年に英仏両側から試掘が始まった。トンネルを使ってフランスが進撃してくるという不安にかられた英国がビビッて2年後に計画凍結。周知の通り英仏海峡トンネルの開通はそれから100年以上経過した1994年だ。

一方1869年にはスペインとアフリカを結ぶジブラルタル海峡トンネルが構想された。モロッコやアルジェリアに植民地を持つフランスで提案された。距離は英仏より近い16kmなのだが、水深が深くて断念され、今日に至るも実現していない。

2014年2月16日 (日)

トランブリュ

アガサクリスティで思い出した。

1922年12月パリとニースを結ぶ夜行列車が開業した。第一次大戦の戦勝国フランスの華やぎを背負ったような華麗な列車。パリを20時に出発して翌朝には地中海岸のニースに着く。フランスはもちろん英国にも知られた保養地に一夜で運んでくれる列車は「トランブリュ」と名づけられ、1975年まで存続する。クリスティはこの列車を舞台に「青列車の秘密」というミステリーを書いた。トランブリュはフランス語で「青い列車」だ。リゾート地へいざなう夜行列車の名前としては秀逸だ。

1958年に登場した九州行き夜行列車も後にブルートレインと呼ばれた。フランス語トランブリュからの着想である。

2014年2月15日 (土)

シンプロントンネル

イタリアとスイスの国境シンプロン峠下を貫通するトンネル。ブラームス没の翌年着工し、1905年に単線で開通。1921年なって19823mの第二トンネルが貫通して世界最長のトンネルとなった。そこから延々61年日本の大清水トンネルに抜かれるまで世界最長トンネルの座にあった。

第一次大戦の終結ともに、シンプロントンネルを利用してオリエント急行の第二ルートが設定された。パリ→ローザンヌ→シンプロン→ミラノ→ベニス→ザグレブ→ベオグラード→ソフィア→イスタンブールだ。第一次大戦の敗戦国を迂回しているのが目立つ。

アガサクリスティの「オリエント急行殺人事件」の舞台は、ウィーンを経由する元祖オリエント急行ではなくて、こちらのシンプロン版だった。

2014年2月14日 (金)

モンスニトンネル

世界で初めてアルプスを越えた鉄道がゼメリンク鉄道で1854年の完成だったが峠の頂点付近をトンネルでクリアしていない。アルプスの横腹に穴を開けてはいないということだ。初めてアルプスの横腹に穴を開けたのが本日の主役「モンスニトンネル」だ。イタリアとフランスを繋ぐルート。トリノとリヨンの間にある全長およそ12kmで、およそ14年の歳月をかけて1871年に完成。よく見てほしい。14年の歳月ということは、着工が1857年ということだ。

クリミア戦争直後から、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争というプロイセンの台頭を象徴する3つの戦争の間も、粛々と工事をしていたことになる。負け戦だった普仏戦争もなんのその、完成当時はもちろん世界最長だった。

このトンネル実は、英国の世界戦略に組み込まれている。大英帝国のインド経営に資する目的だ。英京ロンドンから、イタリアの長靴のかかとにあたるブリンディシまで直通列車を走らせることだ。ロンドンを金曜日の15時過ぎに出て、パリ、リヨン、トリノを経てイタリア半島をひた走る。ブリンディシには日曜の16時に着く49時間の行程。ブリンディシからスエズ運河経由インド行きの船が出る。

航空機の無い時代、インドと英国を行き来する最短ルートということになる。

ビスマルクはこれをうらやんだ。だからドイツからイタリアに抜けるトンネルを画策したことは既に述べた。1882年に完成することになるゴットハルトトンネルだ。このトンネル掘削の計画は、1871年に成立している。

2014年2月13日 (木)

ゴットハルトトンネル

記事「命拾い」でビスマルクが鉄道に一方ならぬ関心を持っていた話をした。アルプスの南、イタリアに抜ける鉄路は、戦略上かなり重要だった。ナポレオンの対英経済制裁の大陸封鎖では、むしろドイツが深刻な影響をこうむった。生き馬の尻目を抜く時代、北海やバルト海の港湾を英国あたりに封鎖されたら、大変なことになる。

そのリスクを考えるとイタリアに抜ける鉄道には政治的に重要な意味がある。対仏政策を押ししすめればイタリアとはいずれ同盟関係になる。イタリアに抜ける鉄路の確保は最重要案件だ。

イタリアとスイスの国境にあるサンゴタール峠を貫通するトンネルを堀って鉄道を通す計画が1871年にイタリアで承認された。これがドイツ名でゴットハルトトンネルだ。完成のあかつきには、当時として世界最長のトンネルになる。イタリアでの計画成立にビスマルクが暗躍したという。敷設に必要な費用の半分をイタリアが出し、残り半分をスイスとドイツが折半すると決められた。1882年に10年の工事をもって完成すると、ドイツからイタリアに物資がなだれ込んだ。石炭と鉄を中心に流通量の圧倒的多数をドイツが占めた。総工費の4分の1を負担して、流通の動脈を確保したことになる。

ゼメリンク視察の経験が脳味噌の片隅にあったに決まっている。この年以降の夏、イタリアに避暑に赴くブラームスがこのトンネルを通った可能性がある。とりわけイタリアから避暑地トゥーンに入った1888年はまず間違いなくここを通っている。

2014年2月12日 (水)

トンネルの噂

オーストリアではとんでもないトンネルの計画がある。世界遺産ゼメリンク峠をおよそ27000mのトンネルでクリアしようというものだ。現在オーストリア最長のトンネルを倍も更新する長さだ。その計画について論じてみる。

<現状>

  1. 標高 Gloggnitz(439m)-Semmering(896m)-Murzzuschlag(679m)
  2. 直線距離 Gloggnitz-Semmering 10.0km/Semmering-Murzzuschlag 12km
  3. 線路延長 Gloggnitz-Semmering 29.0km/Semmering-Murzzuschlag 12.7km
  4. 所要時間 Gloggnitz-Semmering 36分/Semmering-Murzzuschlag 14分
  5. 平均時速 Gloggnitz-Semmering 毎時48.3km/Semmering-Murzzuschlag 毎時54.4km
  • Gloggnitz-Semmering間の457mの標高差で、直線距離が10kmだから、平均勾配は45.7‰だ。19世紀の鉄道としてはかなりな急勾配だ。
  • だからおよそ3倍も距離をかけて高度差を克服する。勾配は15.7‰に薄められる。最大斜度でも20‰を切る。
  • 表定速度は現代の電気機関車でも48.3km/hに留まる。

<トンネル>

Gloggnitzを出てすぐトンネルに入り、Murzzuschlagの寸前でトンネルを抜ける。SemmeringはパスするからGloggnitz-Murzzuschlagの標高差240mを30000mかけて登ればいいので、平均斜度は8‰程度になる。時速60kmが確保出来れば所要時間は30分となり、現在の50分からみれば20分短縮になる計算だ。

トンネルは確かに技術者の夢だ。しかし景色が犠牲になる。あたりは絶景で知られるゼメリンク峠だ。莫大な工費をかけて20分程度の短縮では、割に合わないと感じる。ゼメリンクなんぞに用のないイタリアやグラーツに抜けたいビジネスマンにとってはトンネル歓迎かもしれないが、急ぐなら飛行機でどうぞと申し上げたい。もっとも万が一トンネルが完成しても、世界遺産に指定された今、ゼメリンクの鉄道は保存されるに決まっている。

 

2014年2月11日 (火)

命拾い

宰相就任後、ビスマルクは少なくとも2回暗殺未遂事件に巻き込まれている。1866年と1874年だ。2回ともビスマルクは命に別状なく、政治生命は保たれたばかりか、事件を巧みに利用して反対派に圧力をかけた。

実は命拾いがもう一度あった。プロイセン宰相就任の10年ほど前、ドイツ連邦議会プロイセン公使時代、ビスマルクはオーストリアに視察を挙行した。当時佳境にさしかかっていたゼメリンク鉄道の工事現場を訪れたのだ。世界で初めてアルプスを越える鉄道だから、トンネル、鉄橋などの当時最先端の鉄道技術の粋を集めた工事。

海の無い内陸の帝都ウィーンから、他国の土地を踏まずに港に出たいハプスブルク家は、現イタリア領のトリエステまでの鉄道を計画した。その鉄道の難所がゼメリンク峠だ。直線で21kmの距離にその倍のレールを敷いて越える難工事で、およそ20000人が作業にあたり約700人が犠牲になった。

その視察の折に事故が起きた。ビスマルクが歩む足場が崩れたのだ。近くの岩棚にしがみついで危うく難を逃れたらしい。このときビスマルクが落命したら世界史は少し変わっていたかもしれない。

2014年2月10日 (月)

ゼメリンク鉄道

はじめてアルプスを越えた鉄道として世界遺産に登録されている。1848年から1854年の工期を経て完成した。サンゴタール峠、サンベルナール峠、ブレンナー峠など有名なアルプス越えの峠に比べれば900mのセメリンク峠は低いほうだから、アルプス越え初の鉄道ルートに選ばれたのだと思う。19世紀半ばというこの時期、「巨大鉄橋が使えぬ」という技術的制約のため、石積みやレンガ造りを頼りに建設されたことが、今となっては希少性を高めている。「当時としては最先端」ではあっても峡谷を巨大鉄橋で一跨ぎし、山頂付近を長大なトンネルでクリアするような設計になっていない。

グロックニッツからミュルツツーシュラークまでおよそ42kmの区間だ。とりあえずこのあたりは絶景が続くという。岩倉使節団は1873年6月にイタリアからオーストリアに向かう途中でここを列車で通過した。トンネルや橋など当時の鉄道建設技術の粋を集めたということもあってか、「米欧回覧実記4巻」で詳しく描写されている。しかも挿絵も添えられて和訳の文庫本ベースで5ページもある。単なる景色をこれほど誉めるのは、使節の公式記録である同書の性格を考えると異例なことである。つまりはそれほどの絶景だということだ。

そう。本日は鉄道ネタにしては珍しくブラームスにこじつけが出来る。ゼメリンク峠区間の終点ミュルツツーシュラークは、ブラームスが第4交響曲を作曲するために2夏を過ごした街だ。そのときブラームスがこのゼメリンク鉄道に乗ったことはほぼ確実だ。それどころかミュルツツーシュラーク駅構内のレストラン鉄道亭をひいきにしていたという情報もある。

2014年2月 9日 (日)

歴史を語りたい

私は何かと歴史を語りたいほうだ。「鉄道特集」の序盤はドイツ鉄道の歴史的側面を意識的に記事にしてきた。過去の特集「ワイン」「ビール」「地名」でも、、歴史を重要な切り口にしてきた。私の興味の方向を無理やりジャンルで規定するなら以下の通りになる。

  1. 歴史
  2. 音楽
  3. サッカー
  4. 地名
  5. 鉄道

「ビール」「ワイン」のようなモノグラフィーは別として、大きな柱はほぼ上記の通りだ。何を語るにも歴史を避けて通れない性格だ。残念ながら次に音楽が来る。当ブログ「ブラームスの辞書」は大音楽家の名前をタイトルに戴いているのに、昨今の展開は音楽からの逸脱が常態化している。「音楽系ブログ」と名乗るには怪しいレベルだと自覚だけはしている。

何か語ろうとするとき、歴史から説き起こさないと落ち着かないのだ。先に歴史ネタを言及し、そこから話題を広げて行くことで、後からリンクを貼れるというブログ運営面での効果も期待している。

ブラームスが鉄道を頻繁に利用したことだけは、状況証拠から見て確実なのに、直接証拠が見当たらない状態は、私にとっては極楽だ。出来るだけ広くネタを収集することが、ブラームスと鉄道の関連を広く担保することになるからだ。それらは全て「ブラームスが知っていたかもしれない話」であると考えると、どんなに小さなことでもおろそかに出来ない。

2014年2月 8日 (土)

プロイセン国有鉄道

ドイツ帝国が成立したとき、ビスマルクはその余勢をかって帝国内各領邦の鉄道を帝国国有鉄道に吸収しようと画策した。吸収される側の各領邦は猛烈な抵抗を示したために、ビスマルクも譲歩しプロイセン内に限ってプロイセンの名で国有化する道を選んだ。着々と国有化が進んで20世紀初頭には総延長20000km弱のところ15000km強が国の管理下に置かれることになった。

プロイセン国有鉄道は孝行息子で、6億マルクの収益があったという。ざっと300億円だ。売り上げではなくて収益だ。第一次大戦前の時点でプロイセン国有鉄道が世界最大の企業だった可能性が高い。ドイツ最大ではなく世界最大だ。

そこからもたらされる莫大な資金でプロイセン王国ひいてはドイツ帝国が回っていたということである。鉄道の国有化はビスマルクにとっては、議会の制約を受けない財源の確保であると同時に、その従業員を与党の基盤に据えると言う側面もあった。

2014年2月 7日 (金)

鉄道郵便

軍事、産業面において鉄道の果たした役割がいかに大きなものだったか、繰り返し述べてきた。さらに付け加えるべき話がある。それが郵便だ。

鉄道の登場以前、郵便物輸送の担い手は郵便馬車だった。一定の距離ごとにリレーステーションを設け、そこで馬と御者を替えた。そのリレーステーションの利用権を独占することでタクシス家は他社を圧倒した。皇帝のお墨付きのもとに、後発者の参入を阻止し続けた。輸送手段が馬車である限りそれで磐石だった。

鉄道の輸送効率は、タクシス家が手塩にかけて構築した駅逓制度をはるかに上回っていた。鉄道国家プロイセンは、鉄道利用の優位性をとことん研究しており、1850年には驚くべき施策を講じる。郵便事業を鉄道事業に吸収させたのだ。郵便は鉄道事業の一部に組み入れられた。郵便物輸送の主役を鉄道と決め付けたということ。同時に各地の主要駅に郵便局が設置されることになる。これが軌道に乗れば、タクシス家自慢の駅逓制度は完全に宙に浮く。

1867年にプロイセンが事業譲渡を迫ったとき、タクシス家は補償金1000万ターラーを主張したのに対し、足元を見て300万に値切った。

2014年2月 6日 (木)

ドイツ鉄道経営者連盟

ドイツ関税同盟がドイツ産業革命の起点と定義されることが多い。小領邦の集合体だったドイツは、物資がそれら国境を越えるたびに課税され、経済発展の足かせになってきたと述べた。それら関税を撤廃したのが1834年のドイツ関税同盟だった。ブラームス誕生の翌年だから忘れない。その翌年にドイツ初の鉄道が開業した。そして瞬く間にドイツ中が鉄道網で覆われることになる。

関税同盟の成立で物資の流通に拍車がかかる下地がそろったところに、強力な輸送手段が現れたことになる。鉄道は金のなる木だったから、その権益は小邦にとって強力な財源だったので、各領邦が独自に自前の鉄道を敷いたが、そのとき軌道幅だけは標準軌が採用された。国境を越えた乗り入れが直ちに可能になった。

運営母体の違う鉄道が相互に乗り入れるのだから、そこにはルールが必要になる。それが1846年発足のドイツ鉄道経営者連盟だ。運賃や運営の体系が統一されて行く。関税同盟の影に隠れてはいるのだが、実はとても重要な出来事だ。

2014年2月 5日 (水)

鉄道論

1887年(明治20年)に日本陸軍参謀本部が明治天皇に日本の鉄道のあり方について上奏した。この内容が興味深い。以下骨子。

  1. 鉄道の路線決定は戦時輸送に配慮しなければならない。
  2. 単線の鉄道は不可。
  3. 軌道幅は広軌を採用すべし。
  4. 路線は海岸線から3キロ以上離して敷設せよ。

当時の参謀本部長は1879年に就任した山県有朋が健在だった。おまけに1885年にはドイツ陸軍参謀本部長のモルトケ将軍が推薦するメッケルが参謀少佐として参画していた。上記の上奏は、ドイツというよりプロシア陸軍の考え方をそのまま踏襲したものだ。

日本の鉄道は英国からの技術導入で産声を上げたのだが、この時点ではすでにプロシア流の考え方にシフトしていた。普墺戦争や普仏戦争の目覚しい戦果から、鉄道の軍事利用が不可欠の考え方に傾斜していた。英国は鉄道の母国ではあるけれど、それはあくまでの産業革命のツールであって、軍事利用は置き去りになっていた。島国英国の国防の中枢はあくまでも海軍であった。同じ島国の日本が国防面でも陸軍主導なのはひとえにプロシア留学経験者が主流になっていたせいだ。

陸軍参謀本部の上奏は無敵の説得力だった。しかし帝都と関西を結ぶ鉄道は内陸を通らずに太平洋側を走ることになった。理由は単純。財政難だ。内陸を通すのは技術的な難易度が高く、建設費が高くつく。開通済みの新橋横浜間の有効利用も出来る東海道ルートが採用された。

2014年2月 4日 (火)

鉄道連隊

千葉に長く住んでいるから半ば当たり前になってもいるが、千葉は旧日本軍の遺構が数多く残されている。歩兵学校、戦車学校、高射砲学校などの跡地が文教施設に転用されている。私の母校は小中高とも軍隊の跡地に立っていたし、長女の高校も次女の高校もそうだった。鉄道連隊跡もそうした遺構の一つだ。

第一連隊は今のJR東千葉付近。小学校のころ遠足に出かけた千葉公園は、鉄道連隊作業場の跡地だ。缶蹴り遊びで身を隠したのが橋脚の跡だったりする。そこから少しはなれたところに旧国鉄のレールセンターが戦後まで使われていた。私が通った高校の裏にあって、たまにディーゼル機関車が貨車を挽いて走っており、授業中に汽笛が聞こえた。

第二連隊は今のJR津田沼駅前。千葉工業大学の正門が当時の連隊の正門だったという。第一と第二の両連隊を演習線が結んでいた。JR総武線よりはかなり内陸寄りだ。道路として妙に直線が続くその廃線跡の舗装道路を自転車で走り回ったものだ。千葉県内の鉄道は、JR私鉄とも鉄道連隊の演習線が起源になっているケースが多い。

鉄道連隊の創設は1896年だ。日清戦争後の大陸進出をにらむ意図があったことは明らかだ。関東大震災後の復旧に活躍したとも言うが、本来の任務は戦場や征服地における鉄道の敷設や復旧にある。退却する軍隊は鉄道を破壊するのが鉄則だったからだ、こうしたコンセプトはドイツを見習ったものとされている。軌道幅、機関車などの機材はドイツの影響が大きいそうだ。

映画「戦場にかける橋」で有名な泰緬鉄道は、千葉や津田沼から転営した第5連隊と、第9連隊が敷設したものだ。タイとミャンマーを結ぶから泰緬だ。捕虜を使役したことは事実だが、主体はあくまでも日本側。映画のように爆破されることはなく、現在も使用されている。ビルマ側から着工したのが第9連隊で、タイ側から第5連隊が工事を進めた。クワイ川(現地ではクウェイに近い)に架橋したのは第5連隊だ。全長428kmをわずか10ヶ月で完成にこぎつけた。ドイツの影響というなら「第五、第九」と聞くとドキドキしてしまう。

2014年2月 3日 (月)

鉄道条項

事実上ビスマルクが起草したドイツ帝国憲法には、鉄道への言及が随所に見られる。本日はこれらを俯瞰しておく。

第4条[帝国の立法事項]以下の各事項は帝国の監督下に置かれ、帝国の立法に付する。

この各事項の8番目が「鉄道」になっていて、「鉄道制度ならびに国防及び一般交通のための陸路及び水路の建設」と書かれている。

<第7章[鉄道制度]>

第41条[鉄道の敷設] ドイツの国防に必要な鉄道は、通過する領邦の反対を押し切って、領邦主権を侵害しない帝国または民間企業が敷設できる。既存の鉄道機関はこれとの接続を拒めない。既存の鉄道機関が有する「並行する新規鉄道への反対権」を廃止する。

第42条[統一的鉄道網敷設義務] 連邦を構成する各領邦は、ドイツ鉄道相互の交通のために統一性を維持する義務を負う。新しく建設する鉄道も統一的な基準にのっとる。

第43条[統一的経営組織] 42条の目的達成のために速やかに統一的経営組織を構築する。帝国は領国による路線の安全維持、必要な設備車両の投入を監督する。

第44条[直通運送] 各領邦は、直通運転や相互乗り入れに配慮し、相応の速度の列車を旅客向けにも貨物向けにも整備しなければならない。

第45条[運賃] 帝国は鉄道運賃を決定する権利を有する。同時にドイツ全土の統一的な運営規定の作成、主要物資の長距離輸送に対する割引運賃制度の導入に努力する。

第46条[緊急時運賃] 緊急事態発生時、とりわけ食料価格の高騰に際し、主要食料品の輸送に対し定額の特別運賃を採用する義務を負う。

第47条[国防] ドイツ防衛の目的での鉄道使用にあたり、鉄道機関は諸官庁の要請に無条件で従う。軍隊および軍事物資は同一の低額運賃が適用される。

以上だ。第42条から45条までの規定は、バイエルン王国は適用を除外されている。鉄道は国家なりを具現化した憲法。

2014年2月 2日 (日)

鉄道の弱点

ここでいう弱点とは、鉄道を軍事利用した際の弱点という意味。鉄道を戦争にうまく活用することをもってプロイセンは、大きな戦争に3連勝したことは事実だが、実は弱点もあった。

  1. 鉄道の軍事運用は自国に限られる。鉄道が物資兵員の輸送に威力を発揮するのは自国内に限られるという当たり前の話。自国国境沿いに兵員を配置する際には威力を発揮する鉄道も、自軍が国境外に出てしてしまうとそこは他国。鉄道を利用できない。折角要塞を包囲しそうになっても、こちらは徒歩であるのに、相手は鉄道で逃げてしまう。
  2. ネックの発生。鉄道による効率があまりにも良いため、駅から先の進軍が相対的に遅くなり、兵員や物資を下ろした駅付近を先頭に停滞が起こる。
  3. 敵国内を退却する敵軍はほぼもれなく鉄道設備を破壊しながら退却する。
  4. 当時鉄道の運用にコンピューターを使っていなかった。全国の鉄道ダイヤを戦時と平時で使い分けることは困難だった。信号やポイントの切り替えなど全てが手作業だったが、誰かが間違いを起こせば復旧までに大きな時間がかかる。
  5. 意外と厄介なのが空の車両の回送。単線区間は膨大な時間のロスを産む。
  6. 軌道幅の違う路線の混在もまたロスの元。

戦争なんかに使うからこういう愚痴も出るということだ。

2014年2月 1日 (土)

鉄道は国家なり

ビスマルク率いるプロイセンは事実上「鉄道は国家なり」の様相を呈していた。ドイツ統一に至るプロイセンの戦いにおける鉄道の役割については既に述べたから本日は、統一後のドイツ帝国について述べる。

ドイツ帝国は大小さまざまの領邦が、プロイセン主導で統括されたものだ。それまでの各領邦には、私鉄を中心に自前の鉄道があった。ビスマルクは統一後の帝国憲法草案に鉄道国有化の理念を盛り込んだ。4条と41~48条の各条に事細かに規定されていた。国内の鉄道のあり方を憲法で規定するというのは異例だ。ビスマルクはまさに「鉄道は国家なり」を実践しようとしたのだ。

ドイツ統一においてはプロイセンの主導に従った各領邦だったが、この帝国国有化には断固抵抗した。各領邦は、域内の私鉄を国有化して、帝国国有化に対抗したのだ。最終的にビスマルクが全鉄道の帝国国有化を断念し、プロイセン内の国有化に注力した。

それでもドイツの鉄道は領邦の枠を超えて事実上ドイツ国鉄として機能した。その鍵は軌道幅だ。シュヴァーベンの一部を除く全域が全て1435mmの標準軌だったことが、思いのほか円滑な貨物輸送を可能にした。当時の主役は申すまでもなく蒸気機関車。電化前だ。電化していないことが実はポイントだったりする。軌道幅さえ合えば縦横に通行が可能だ。電化ではなかなかそうはいかない。交流直流などの電化方式や電圧、サードレールかパンタグラフかという集電の問題もある。蒸気機関車なら信号方式と軌道幅の統一で事足りる。

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