ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014年3月31日 (月)

列車の序列

鉄道が旅客を乗せて走り出した頃、列車は全ての途中駅に停車していた。今で申す「各駅停車」だ。鉄道の発達は人々の活発な移動を促して、都市への人口集中をもたらした。駅の利用度が均等でなくなって行く。乗客の多い基幹駅以外を通過する列車が登場するのにさしたる時間はかからなかった。優等列車の登場だ。停車駅を減らして所要時間を圧縮して、客から余分に料金を徴収する仕組みだ。やがて交通の発達と共にその体系は複雑化してゆく。イメージとして遅い順に列挙を試みる。

  1. 普通列車 基本中の基本。「各駅停車」「鈍行」「緩行」などとも言われる。
  2. 快速 旧国鉄やJRでは「特別料金不要の優等列車」の位置づけ。
  3. 新快速 「快速」からの派生。関西ではおなじみ。
  4. 特別快速 「快速」からの派生。「特快」と略される。
  5. 通勤快速 「快速」からの派生。朝夕の運転だが、学生が乗ってもいい。
  6. 準急 「急行に準ず」の略に違いない。当然「急行からの派生だ。
  7. 通勤準急 「通準」見た記憶がある。
  8. 急行 おそらく最初の優等列車だと思われる。
  9. 区間急行
  10. 通勤急行 あったけっけ?
  11. 快速急行 
  12. 準特急 特急からの発生。
  13. 特急 これも急行からの派生形「特別急行」だ。
  14. 通勤特急 
  15. 快速特急 「特急」からの派生形。「快特」と略される。
  16. 超特急 新幹線とともにある。

まだあるかもしれない。発生の順序としては「1→8→13→2→16」の感触だが不確実。世界最初の急行列車はおそらく英国と目される。ブラームスの時代にも既に「鈍行」と「急行」があった。注意が要るのが「普通列車」だ。鉄道発足当時、全ての列車が全ての駅に停車していた時代には「普通列車」「各駅停車」「鈍行」などという用語は無かった。旅客ニーズに合わせて「急行」が登場した際に、その「急行」との区別のためにはじめて「鈍行」の概念が登場したに過ぎない。

運行会社により地域により違っている。利用者から特別料金徴収の有無も絡んでくる。都市からかなり離れた地域にベットタウンが発生すると、そこからの大量輸送のニーズに答えるために「通勤~」が平日朝晩に運行されるようになる。事実上「通勤超特急」だって存在している。既に国鉄在来線に特急が活躍してた中に、登場した新幹線は、在来の特急と区別する意味で「超特急」となった。昔は「夢の」が付いていた。

多彩で複雑なブラームスの音楽用語に似ている。ダイナミクスやテンポだ。ダイナミクスは根源的には「p」と「f」しかなかったと思われるが、音楽が複雑になるにつれて膨大な派生形が生じて今に至っている。テンポだって「遅い」「速い」くらいだったに決まっているが、今ではご承知の通りの多彩さだ。

列車序列用語の複雑さが、「ブラームスの辞書」執筆の動機を鮮やかに説明してくれている。

2014年3月30日 (日)

急行テンポ

ドイツ語で急行列車は「D-zug」という。これは急行列車に用いられた車両の構造から来ている。「Druchgangszug」の略だ。通路つき車両のことだ。ちなみに特急は「Expresszug」となる。

面白い表現がある。「in D-zug tempo」で「大急ぎで」「大至急」となる。鉄道の開通発達により、人々の生活テンポが変化した。「大至急」の意味を伝えるのに「急行列車」が引用されるということは、当時急行列車がもたらしたスピードのインパクトを雄弁に物語っている。

2014年3月29日 (土)

Dampferbahn-Leverkusen

記事「Eisenbahnatlas」で言及したドイツ鉄道地図は、お楽しみに底が無い感じで、最早ドロ沼。2012年春に次女たち高校オケをおいかけたツアーでの最初の宿泊地レヴァークーゼンでのお話。二年前の3月29日朝の散歩で駅に立ち寄り、そこで周辺地図を見て、サッカー、ドイツブンデスリーガ所属のレーヴァークーゼンのホームグランドが近いの知って足を伸ばした。

ホテルからゆっくり歩いて15分の距離だった。きれいな小川の畔を歩いていると、やがて市立公園の木立の中に、鉄道線の跡を見つけた。遊園地の遊覧鉄道であるのは明らか。軌道幅は30センチくらいだった。転車台の跡まで残っていたからここを蒸気機関車が走っていたと推定したものだ。

先般、買い求めた「ドイツ鉄道地図」の146ページ、ケルン近郊の拡大図に目を凝らすと、レヴァークーゼンミッテ駅の東側に「Dampferbahn-Leverkusen」と書かれて傍らに名所の印が打ってある。あんな遊覧鉄道の廃線跡がキチンと載っていたということだ。

この手の必殺の網羅性が、なんだかドイツ人っぽい。自分たちの旅の経験が地図で裏打ちされるのは嬉しい。あの夢のような朝からもう2年。

573

2014年3月28日 (金)

定時運行

日本の鉄道のお家芸。ドイツの鉄道も欧州にあっては優秀だが、日本にはかなわない。最早社会が欲しているとかいうレベルではなく、DNAの問題とも思われる。

だからというわけではないが、当ブログ「ブラームスの辞書」も毎朝の記事の公開時間を同じ時刻に揃えることにした。鉄道特集に入ってしばらくしてから、原則として朝5時7分に当日の記事を公開している。もちろんブラームスの誕生日5月7日に因んだ設定だ。スマートホンでブログを見たとき記事一覧には公開時刻も表示されるから、これが毎日同じ時刻になると気持ちがいい。

ささやかなこだわりの話。

2014年3月27日 (木)

西洋事情

1866年に刊行された福沢諭吉の著書のタイトルだ。彼は1860年と66年に米国、1862年に欧州を訪ねていて、その様子を記した書物である。

1862年秋に欧州を訪ねた記事の中に興味深い鉄道ネタがある。

ロシアのサンクトペテルブルクからパリまで鉄道で移動したとある。750マイルおよそ1200kmを21時間かかったと明記している。休憩時間は除くとわざわぜ注釈しているからかなり信用できる数値。平均時速57kmだ。諭吉はさらにこれは、大して早くなくて英国にはもっと早い時速50マイルの列車があるとつけ加えている。鉄道の描写が詳しくて面白い。

もっと重要なこと。諭吉がドイツ国内を走ったことは確実だ。ベルリンとケーニヒスベルクを結ぶプロイセン東部鉄道を利用したことは疑えない。秋というのがいつなのか具体的に判らない。1862年といえば9月にブラームスは故郷からウィーンに進出しているから、わずかながらすれ違った可能性が残るには残る。

2014年3月26日 (水)

鴎外のドナウ

1886年8月9日、独逸日記によれば鴎外は、ミュンヘンからベルリンに赴く。もちろん列車。午前7時30分にミュンヘンを発つ。レーゲンスブルクを過ぎたあたりで以下の記述が見える。

「細流の石間にせんせんたるを見る」

「せんせん」は難しい漢字で打てない。鴎外の記述を豊かに彩る漢語表現なのだが、パソコンで簡単に打てない漢字が多くて興ざめだ。注には「浅い水がよどみなく流れる様」とある。「細流」はもしかするとドナウ。2012年3月のドイツ旅行のとき、自由時間を利用してニュルンベルクからレーゲンスブルクに向かった長男と私は、進行方向左側に目を凝らした。レーゲンスブルクに到着する直前にドナウ川が見えるからだ。実際に見えたドナウの印象から、先の鴎外の表現がドナウであると直感したのだが実際にはおそらくナープ川である可能性が高い。このとき鴎外の座席はおそらく進行方向の右側。

2014年3月25日 (火)

鴎外のチェコ

森鴎外がドイツ留学に際して立ち寄った国は、目的地ドイツの他に3つ。フランスとオーストリアだ。帰路の経由地だった英国がこれに加わる。通過しただけでよいならさらにチェコも仲間入り。1887年10月ウィーンで開かれた衛生学会の帰路、プラハ、ドレスデンを経由してベルリンに戻ったはずだ。当時は外国チェコという意識は無かったもとの思われる。

ウィーンを発ったのが1887年10月8日夜9時、途中ドレスデンでマクデブルクに向かう友人と分かれた。このことで、プラハ経由だったことが推察できる。ベルリン着は明くる9日の午後だったらしい。

プラハといえばドヴォルザーク。ピアノ五重奏の作曲が終わったのが1887年10月3日だった。オペラ「ジャコバン党員」の着手が同年11月10日だ。日時が明らかでないのだが、この1ヶ月少々の間に交響曲第5番の出版交渉のためにベルリンのジムロックを訪ねている。鴎外と同じ列車に乗った可能性がゼロではない。

少しの間、ドヴォルザークと鴎外がベルリンにいたことだけは確実だ。

2014年3月24日 (月)

欧州公演

次女たちの代の卒業を、心を込めて祝ってくれた後輩たちが、間もなく欧州公演に出発する。演奏会は2回。スイス・ザンクトガレンとドイツ・ニュルンベルクだ。私ができることは、エールを送ることだけ。

昨日、出発前の最終リハーサルが行われた。1ヶ月前と比べると別人の出来に仕上がっていて驚いた。現地に赴くことの出来ない関係者に向けた挨拶でもあり壮行会でもある。

ブラームスとドヴォルザークのご加護を総動員で。

2014年3月23日 (日)

鉄道通勤

森鴎外の「独逸日記」1888年4月1日の記事。ベルリンで2度目の引越しをしてグローセプレジデンテン通り10番地の4階に移ったとある。鉄道馬車の停留所が目の前で、そこからプロイセン国近衛歩兵第二連隊の営舎に通った。馬車鉄道で10分の通勤だった。当時鴎外は大学に通うのではなく、軍医として連隊に出仕していた。

7時30分に鉄道馬車に乗れば、8時にはフリードリヒシュトラーセの連隊に着くと喜んでいる。

2014年3月22日 (土)

卒部式

高校の卒業式を既に終えた次女だが、それとは別にオーケストラ部の卒部式があった。後輩たちがお茶とお菓子で祝ってくれるという伝統のイベントだ。先日の卒業式は平日開催のため参列できなかったので、こちらに賭ける思いは深かった。

欧州公演を間近に控えた後輩たちが、あの手この手で送ってくれた。懐かしい文化ホールに保護者も招いての楽しい2時間。送辞と答辞。顧問の先生特製のDVDの上映。そして何より演奏。欧州公演を前に油の乗り切った後輩は、先輩たちに場所を譲る。卒業生がトップ奏者の位置に座る。受験レースによる8ヶ月のブランクなど誰も気にしない。この制服、このメンバー、この場所で弾くのはおそらくこれが最後だと、みんながわかっている。

  1. メモリー 1,2年生からプレゼント演奏。
  2. ふるさと 涙腺クラッシャー。
  3. 夢破れて 36代を象徴する1曲。
  4. ラデツキー行進曲 3年前の初舞台で弾いた曲。8ヶ月前のスペコンで今の1、2年生と一緒に弾いた曲。

今こうして冷静にキーを叩いているのが不思議なくらいの感慨だ。

2014年3月21日 (金)

魯境の鉄路

おそらくシベリア鉄道のこと。森鴎外の「独逸日記」1887年12月28日の記事に出現する。鴎外が上司の石黒某の演説を要約した中の言葉。だから鴎外の語彙というよりも上司の語彙なのだと思う。ちくま文庫の注も沈黙しているので仕方なく類推する。

これが開通したら東洋と西洋の交流がますます盛んになると言っているから、シベリア鉄道で間違いない。

シベリア鉄道は20世紀にはいった1904年に全通するが、19世紀後半には既にプランがあちこちで取りざたされていた。鴎外の留学時代にはまだ完成していなかったから「シベリア鉄道」という名称はまだ一般化されていなかったが、概念だけは確立していたものと考えられる。

2014年3月20日 (木)

鴎外の迂回

明治時代、日本からドイツへの渡航者はマルセイユ経由だ。だからベルリンへの降り立ちはアンハルター駅に決まってくる。森鴎外もてっきりそうだと思っていたが、どうやら彼の足取りは少し違う。マルイセユに着いた8人の留学生のうち7人は、翌日にシュトラスブルク→カールスルーエ→ヴュルツブルク→ベルリンアンハルターというルートで、一目散にベルリンを目指した。

ただ一人鴎外は別行程をたどった。マルセイユからパリに行き、そこで一泊して、翌日夜パリを離れて、ケルンを経由してベルリンに向かった。もしそうなるとベルリンの第一歩はアンハルターではない可能性もある。

なぜ一人で別行動だったかは不明。パリでは演劇を鑑賞している。ケルンに入ると聞慣れ親しんだドイツ語が聞こえてきたと喜んでいる。

2014年3月19日 (水)

アンハルターバーンホフ

正確には「Berlin Anhalter Bahnhof」という。ブラームスの生きていた時代、ベルリンの表玄関という位置づけだった。首都ベルリンからは放射状に鉄道が延びており、駅は方面別に分かれていた。「アンハルター」というのはベルリン市内の地名ではなくて、「アンハルト方面に向かうためのターミナル」という意味になる。方面別にターミナルを設置し、そこに行き先に因む名前を付けるのが当時のしきたりだったらしい。

アンハルト方面駅は数あるターミナルの中でも最高の格式を誇り、いわば表玄関という位置づけだったが、第二次大戦の爆撃で破壊され、ベルリンが東西に分断されたせいもあって再建されていない。

森鴎外の「独逸日記」には以下の通り出現する。

  1. 1884年10月18日
  2. 1884年10月20日
  3. 1885年05月30日
  4. 1886年02月23日
  5. 1887年09月16日

このほか単に「停車場」と書かれている中で、実際にはアンハルターバーンホフだったケースも少なくないはずだ。当時プロイセンと並ぶ雄邦と言えば、1にバイエルン、2にザクセンだった。この両者の首都ミュンヘンと、ドレスデンに行くための路線こそが大動脈だった。その大動脈の起点がまさにここアンハルターバーンホフである。経済的には重要だったハンブルクは、軍事的政治的にはこれらに劣る。

ウィーンにいたブラームスがベルリンを訪問する場合、ウィーンからプラハ、ドレスデンを経由してアンハルター駅に入るのが常識的なルートだ。

明治時代、日本からドイツを目指す旅行者は大抵、アンハルター駅に第一歩を刻むことになる。彼らの上陸地はフランスのマルセイユで、列車に乗り換えてシュトラスブルク、カースルーエ、ヴュルツブルクを経てベルリン・アンハルターに着く。

2014年3月18日 (火)

パリのドイツ人

ルドルフ・クリスチャン・カール・ディーゼルは1858年3月18日にパリで生まれたドイツ人だ。彼はリンデ製氷機株式会社に勤務していた1892年にディーゼルエンジンを発明して特許をとった。蒸気機関車の全盛時代に既に次世代機がひっそりと生まれていた。機関車への装備は1912年を待たねばならないからブラームスがディーゼル機関車を目撃していた可能性はゼロだ。

それにしてもと感心するのは、人のつながりだ。ボルジヒの機関車工場で働いていたリンデが製氷機を生み、その工場からディーゼルが輩出されたのだ。ドイツの徒弟制度の底力を見る思いだ。その同じ時代の空気をブラームスも吸っていたのだ。

2014年3月17日 (月)

演習場と鉄道

「独逸日記」によれば1885年8月から9月にかけて、森鴎外はザクセン陸軍の演習に同行している。記事「ムルデの東」では、そこに現れる地名に言及した。

先ごろ買い求めた「EISENBAHN」ATLAS」で、その一帯を調べてみた。演習地になった一帯に鉄道跡を示す線が克明に描かれていた。そこには今は無き路線とともに駅名も添えられている。

  1. Trebsen
  2. Nerchau
  3. Gornevitz
  4. Denkvitz
  5. Cannevitz
  6. Wagelvitz
  7. Mutzschen
  8. Grimma

この8つの駅名は、演習参加中の鴎外が日記に記した地名と一致する。先般「ムルデの東」を書いたときには道路地図だけを参照していたから、地名は探し当てていたが、昔そこに鉄道が敷かれていたとは気づかなかった。

問題は、鴎外が演習に参加した当時、鉄道が運営されていたかどうかだ。鴎外は演習に参加するために、ドレスデンからライプチヒ方面行きの列車に乗り、Machernという駅で降り、そこから軍差し回しの馬車でTrebsen(上記1)に入っている。翌日またまた馬車でNerchau(上記2)に移動している。当時もし地図記載通りに鉄道があれば、ここNerchauまで列車で来ることも出来たはずだ。当時は鉄道が敷かれていなかった可能性が高い。

また上記3のGornevitzから上記7のMutzschenまでは、別の鉄道が東西に敷かれている。陸軍の演習に加わってこのあたり一帯を縦横無尽に走り回っていたハズの鴎外が、この鉄道線に一言も言及しないのは不自然だ。線路が敷かれていなかったと考えるのが自然だと思う。

2014年3月16日 (日)

汽機街車

1886年3月8日森鴎外はミュンヘンに遷居する。およそ1ヶ月を経た4月3日友人を誘ってニヌフェンブルク城に遊びに行く。そのときに「汽機街車」に乗ったと書かれている。元のスペルが「Dampfertrambahn」となっている。「汽」の文字も正確には中に「米」が入る。

市電が蒸気で動いていると思っていい。鴎外は作りは馬車に似ているが、スピードが出ないと感想を述べている。まだ鉄道馬車が主力の時代に、珍しいものを観たというニュアンスだ。

案の定、鈍重なことが嫌われて路面電車における蒸気は淘汰されることになる。

2014年3月15日 (土)

機関車トーマス

英国で製作された子供向けテレビ番組。人の顔をもった機関車が活躍する物語。我が家の長男は幼い頃、どっぷりとはまり込んでいた。感情移入が嵩じてトーマスになりきっていた。ブラームスへのこじつけは出来ないのだが、鉄道ネタとして言及しておく。

もしこれが、ドイツ製作の番組だったら、登場するキャラクターの名前は変わっていたに違いない。トーマスは英独共通だが、ヘンリーはハインリッヒになり、ジェイムズはヤコブになっていたと思われる。海岸線の短いドイツでは架空の島の置き所に苦労したに違いない。

2014年3月14日 (金)

所要時間

ブラームスの時代に鉄道が急速に普及し、音楽家の活動範囲が目に見えて広がったことは、よく知られている。ドイツ国内はおろか欧州での移動時間が目覚しく短縮したのだが、実際にどれくらいの時間がかかったのかはよくわからない。当時の時刻表を入手出来ればいいのだが、そうもいかない。

森鴎外の「独逸日記」の記述はそういう点でも貴重だ。4年間の在独期間中に精力的に国を飛び回っているばかりか、その全てが鉄道でしかも几帳面に発着の時刻が記載されている。本日はその全てを一覧化してみる。

  1. 1884年05月22日 ベルリン発14時30分→ライプチヒ着17時35分 3時間05分
  2. 1885年05月12日 ライプチヒ発08時30分→リーザ着10時15分 1時間45分
  3. 1885年05月12日 リーザ発10時25分→ドレスデン着12時00分 1時間35分
  4. 1885年05月14日 ドレスデン発20時00分→ライプチヒ着22時15分 2時間15分
  5. 1885年05月26日 ライプチヒ発11時00分→ベルリン着15時30分 4時間30分
  6. 1885年05月30日 ベルリン発14時30分→ライプチヒ着17時30分 3時間00分
  7. 1885年08月27日 ライプチヒ発11時25分→マッヘルン着12時00分 35分
  8. 1885年10月11日 ライプチヒ発18時15分→ドレスデン着20時30分 2時間15分
  9. 1885年12月30日 ライプチヒ発18時15分→ドレスデン着? 自宅まで2時間とある。
  10. 1886年02月19日 ドレスデン発14時15分→ベルリン着17時30分 3時間15分
  11. 1886年02月23日 ベルリン発17時30分→ドレスデン着20時30分 3時間00分
  12. 1886年03月07日 ドレスデン発21時→ミュンヘン着翌08日11時00分 10時間
  13. 1886年08月09日 ミュンヘン発07時30分→ベルリン着翌10日12時 28時間30分
  14. 1887年03月15日 ミュンヘン発18時15分→ベルリン着翌16日12時 17時間45分
  15. 1887年09月16日 ベルリン発08時00分→ヴュルツブルク着20時00分 12時間00分
  16. 1887年09月18日 ヴュルツブルク発10時→カールスルーエ着16時 6時間00分
  17. 1887年09月24日 カールスルーエ発10時→バーデンバーデン着12時 2時間00分
  18. 1887年09月28日 カールスルーエ発早朝→ウィーン着夕方 およそ12時間か
  19. 1887年10月08日 ウィーン発21時00分→ベルリン着翌09日12時 15時間

以上。以下に若干の考察を試みる。

  • ①ベルリン→ライプチヒとライプチヒ→ベルリンでは所要時間が違うのか?上記1と5の比較ではそう見える。
  • ②上記1と6の比較から出発日がわずか8日違いで同じ列車の所要時間が5分ずれている。(上記1と6)
  • ③上記8および9からライプチヒ→ドレスデンは2時間15分と読めるが、上記2と3の合計値よりも1時間早い。優等列車か。
  • ④上記10と11から、ベルリン-ドレスデンは下りのほうが所要時間が短いと読める。
  • ⑤13番のミュンヘン発ベルリン行きの所用時間28時間は異常値かもしれない。出発が朝7時30分と書かれているが夜7時30分の誤りかもしれない。同14番と比較するとよくわかる。
  • ⑥12~15、18、19は夜行だ。

ブラームスの壮年期真っ只中の本当に貴重な情報だ。

2014年3月13日 (木)

スパチウス

森鴎外の「独逸日記」1885年5月12日の記事、オシャッツという街の郊外の光景「潅木あり。箒の如し・・・・・蓋しスパチウス」という記述がある。

この植物実は正確に申せば「スパチウム」で、強心作用があるという。ローマでは「genista」と呼ばれていた。オランダ語では同じつづりで「ヘニスタ」と発音する。江戸時代に日本に伝わったが、「ヘニスタ」がなまって「エニシダ」となって日本語に定着した。英語名「Broom」という。エニシダのドイツ語形「Bram」こそがブラームスという姓の起原だといわれている。とうとう見つけたブラームスと鴎外の接点。

この鴎外の記述が、ドレスデン-ライプチヒ間の車窓から外を眺めていた場面の記述ということで、無理やり鉄道ネタ認定した。

2014年3月12日 (水)

金雀枝

これで「えにしだ」と読む。

マメ科の植物。春先に花をつける。黄色が多いという。形が箒に似ているから、英語圏では「broom」(ほうき)と呼ばれている。しからばドイツ語では何というかというと、これが「Bram」となる。

北部ドイツのバルト海寄りでは、苗字にもなっている。

我らがヨハネス・ブラームスの苗字「Brahms」はこの「Bram」の変形なのだ。語尾の「s」は、複数形ではなくて欧米によくある「誰それの息子」という意味。つまり「Brahms」とは語源的に申せば「金雀枝の息子」という意味になる。

2014年3月11日 (火)

心の駅

歌の文句に従えば「上野駅」ということになる。誰にも思い出の駅はきっとある。私にも以下の通り、すらすらと思い浮かぶ。

  1. 京浜急行 立会川
  2. 東急    武蔵新田
  3. JR東日本 稲毛
  4. JR東日本 西千葉
  5. JR東日本 大井町
  6. JR四国 下灘

ブログ「ブラームスの辞書」的には、やはりドイツに帰結する。2012年春のドイツ旅行で立ち寄った駅から心の駅を一つあげるとするなら、それはニュルンベルク中央駅になる。

全6泊のうちニュルンベルクで3泊する日程の中、同行した長男と私は、「寝るなら日本で」を合言葉に、寝る時間を削って街を探索した。旅行代理店の計画では、夕食から翌日の朝食まではイベントが空白になる。我々親子はその時間を「自由時間」と解釈した。さすがに外国の街を暗い中歩くのは気が引けたので、もっぱら駅に出かけた。ホテルから徒歩5分のニュルンベルク中央駅に文字通り入り浸った。

ホームへの入場なら無料というのが、嬉しかった。ニュルンベルク中央駅は頭端でない通過式の駅としては欧州最大の25番線まである。夜と早朝にそれらを徘徊した。駅舎の中にはフードコートや書店、雑貨店もありにぎやか。夜でも明るくて人通りも多いので安心だ。

この先ドイツを訪問することがあってもニュルンベルク中央駅の位置づけは動くまい。

2014年3月10日 (月)

模型作り

いよいよ真打の登場だ。鉄道特集の開幕からおよそ2ヶ月、やっと鉄道オタク・ドヴォルザークの話題に触れる。彼の生涯についてのいくつか資料の中に、ドヴォルザークが作曲以外の時間をどのように使っていたかが書かれている。「駅への散歩」「鳩の飼育」「模型作り」だと書いてある。

まさにその「模型作り」について、資料によっては「鉄道模型作り」とされていたかと思うと「機関車の模型作り」となっていることもある。「出来上がった模型を買って来る」のではなさそうだ。あるいは「作った模型を走らせる」訳でもないと推測できる。多分その対象は「蒸気機関車」だったと思って間違いあるまい。

模型のメーカーに言及している資料は無いし、機関車の種類もわからない。はたしてメルクリンだったかどうか。

2014年3月 9日 (日)

おもちゃの都

ドイツ、ニュルンベルクには名高いおもちゃ博物館がある。これにはちゃんと理由がある。ニュルンベルクという街は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、玩具製造メーカーが多数集まっていた。それらをとりまとめて「ニュルンベルク派」と呼ばれるほどだ。この時期のニュルンベルクで創業した鉄道模型メーカーをざっと列挙する。

  1. Arnord社 1906年創業
  2. Bing社 1863年創業 20世紀初頭にはドイツ最大の玩具メーカーだった。
  3. Fleishcer 1887年創業 
  4. Johanhaffner社 1838年創業 後にTrixに。

こんな具合だ。名高いメルクリンこそニュルンベルクではないが、今ではこれらの一部を傘下に納めている。

ニュルンベルクを訪問する予定のある方は、ご留意を。

2014年3月 8日 (土)

卒業の春

昨日次女が高校を卒業した。体育館の耐震補強工事のため県文化会館で卒業式が挙行された。仕事の都合がつかず、祖母が一人で参列した。そこは次女たちオケのホームアリーナと言える思い出の場所。定期演奏会の会場でもあるし、コンクールの舞台でもある。いつもはそのステージで演奏を披露するオケは、あくまでも裏方で、昨日はオーケストラピットに収まった。祖母は女性校長の挨拶がパーフェクトだったと別の切り口で感心していた。

親としては昨年6月の引退公演以降、部活から離れても、在校生であることが心の支えだったがそれも昨日で一区切りだ。4月から大学生。持ち前の勝負強さを発揮して第一志望の大学に進むことが出来た。

試験が終わった次の土曜日のことだ。娘の部屋からヴァイオリンの音が流れてきた。パソコンを打つ手をとめて思わず聞き入った。昨年6月1日を最後にピッタリとヴァイオリンを封印してきたのだが、およそ8ヶ月振りに弾いている。お姉ちゃんの話では、試験の翌日からずっとだよとのこと。

聞いていて切なくなった。本当に飽きもせず2時間3時間黙々と引き続ける。それも現役時代にさんざん弾いてきた教則本。そりゃあ半年以上のブランクだから、たどたどしくなっているのだが、キビキビとした希望の音がする。「ああ、ヴァイオリンが好きだったんだな」「これを全部受験のために封印していたのか」とため息が出る。練習の再開とともに、日に日に音に艶が戻ってくるのがわかる。

本日のこの記事、ブログ開設から3252本目に相当する。ブラームス生誕200年の2033年5月7日のゴールまでに必要な記事が10252本だから、あとちょうど7000本ということになる。まだまだ長い道のり。記事の備蓄が1340本少々あるのが救いだ。

2014年3月 7日 (金)

トリックス

「Trix」と綴る。今となっては王者メルクリン傘下の模型ブランド名。メルクリンが伝統の「交流3線式」であるのに対し、トリックスは「直流2線式」だ。元はれっきとした独立の模型メーカーだった。ブランドの立ち上げは1930年だが、創業は1838年に遡るヨハンハフナー社。ニュルンベルクの隣町フュルトで創業した玩具メーカーで、中心商品は「兵隊の人形」だった。

いやはや奇遇。兵隊の人形はドイツにおける男の子の定番玩具だ。ブラームスだって例外ではない。ハンブルクにブラームスの自宅を訪ねたクララは、ブラームスが兵隊の人形を見せてくれたと証言している。

ずっとそのメーカーを捜していたが、ヨハンハフナー社はその候補の一つだ。鉄道模型への進出は1880年以降で、それまでは「兵隊人形」のトップメーカーだった。

2014年3月 6日 (木)

メルクリン

Marklin(aはウムラウト)と綴る。世界最大最古の鉄道模型メーカー。鉄道模型をホビーの王者とする人は多い。楽しみも大きいが要求される出費と暇とスペースも大きい。本気で論じ始めると底が無い。

1859年ドイツ・ヴュルテンベルク州ゲッピンゲンで玩具メーカーとして創業した。鉄道模型への参入は1891年。その後常に業界をリードし、鉄道模型の世界規格を生み出したのも同社だ。いわゆる「交流3線式」だ。ポイントを含む複雑なレイアウトを敷設する場合に有利とされている。

問題はブラームスがメルクリンを知っていたかどうかだ。もちろん当時の模型はまだ完成度において現代に比すべくもないハズだが、楽壇の重鎮が鉄道模型にうつつを抜かしていたら、関係者の目には必ず留まるハズで、だれかがそれを書き残すに決まっているのだが、誰も証言していない。

2014年3月 5日 (水)

シューマンの初乗車

昨日の記事でロベルト・シューマン生涯最後の鉄道利用に言及した。しからば最初の鉄道利用が知りたくなるのが人情だ。伝記を辿りながら、彼の鉄道初乗車はいつだったのか考察を試みる。

  1. 1838年 当時ライプチヒ在住のシューマンがウィーンに赴いた。9月27日にライプチヒを出て、ドレスデン、プラハを経由してウィーンに着いたのが10月2日だとされている。馬車ならではの所要時間だ。ライプチヒを基点に東に18kmのマッヘルンまで部分開通していたから、そこだけ列車に乗っていた可能性だけは排除できない。
  2. 1839年 3月30日前年10月からウィーンにいたシューマンに兄危篤の知らせが入った。ライプチヒに帰るために4月5日にシューマンはウィーンを発つ。プラハを経由してドレスデンに着くのがおそらく4月8日だ。何と言う偶然かドレスデン-ライプチヒ鉄道が全通したのが1839年4月7日だった。シューマンの兄は6日に死去してしまったけれど、先を急ぐシューマンが、このときドレスデン-ライプチヒ間で列車に乗った可能性がある。
  3. 1844年 クララを伴ってのロシア演奏旅行。1月25日にベルリンを発って2月3日にケーニヒスベルク(今のカリーニングラード)に到着しているので、この間は馬車だ。けれどもライプチヒからベルリンに向かう際、馬車で100km北上してデッサウに出れば、ベルリンまで鉄道が使えた。
  4. 1845年 12月ドレスデンに移住。このときは間違いなく列車だろう。
  5. 1850年 9月ドレスデンからデュッセルドルフに移住。1日にドレスデンを発ち2日にデュッセルドルフに着いたと明記されている。両都市の距離568kmを丸2日は、馬車では有り得ない所要時間。当時の路線網から見てライプチヒ-ハレ-マグデブルク-ハノーファー-ハーゲンを経てデュッセルドルフだ。1日早朝にドレスデンを発てば、その日のうちにデュッセルドルフに着く。

シューマン初の列車旅行は、上記3が本命で対抗は2。大穴で1の部分乗車かもしれない。

  • 2014年3月 4日 (火)

    馬車の行く先

    ロベルト・シューマンがライン川に投身したのが1854年2月27日だった。間一髪で救出されたもののエンデニヒに入院することになった。3月4日に入院のために自宅を出たとされている。このとき自宅まで馬車が迎えに来たという。

    本日の話題はこのときの馬車の行く先だ。候補地は以下の3つくらいが思い浮かぶ。

    1. エンデニヒの病院 およそ80kmある。現代ほど道路事情が良くない中、病人を乗せてて全速力というわけには行かぬから、丸2日かかる。
    2. デュッセルドルフ駅 ボン駅まで鉄道を使う。ボン駅に迎えの馬車を手配すれば1日で着く。
    3. 市内の船着場 ボンまで船。ボンの船着場からは馬車。

    3月4日のクララの日記に貴重な記述がある。「3月4日の夕刻従者が戻ってきてロベルトのエンデニヒ到着を報告してくれた」という内容だ。80km全行程を馬車ではなく、デュッセルドルフとボンの間で鉄道を利用した証拠だ。

    これがシューマン最後の鉄道利用だったと思われる。

    2014年3月 3日 (月)

    いざ鎌倉の訂正

    2009年3月4日の記事「いざ鎌倉」で、シューマンの投身の報を受けたブラームスが、デュッセルドルフに着いた日を3月3日か4日と書いた。おそらく投身の翌日2月28日にハノーファーで知らせを受けたブラームスが、取るものとりあえず駆けつけたのだ。

    ベッカーという人の日記によればブラームスの到着が3日とされているらしいが、近年の研究ではこれが2日だとも言われている。この点、クララの日記はあてにならないらしい。投身の時クララは眠っていたらしいのだ。フェリックスを身ごもっていたこともあって休養を取っていたという。身体に障るということで、事件の全貌は3月10日まで伏せられていたということだ。だから親しい第三者の日記が貴重な資料となっている。いずれにしろ4日というのは誤りである可能性が高い。

    もし2日とするなら、その年1854年はうるう年ではないから、2月28日に知らせを聞いたブラームスの到着としては、やたらに早いのだ。ハノーファーとデュッセルドルフは大雑把に言って295kmの距離だ。まさにヨハネス・ブラームスの「いざ鎌倉」だが、馬にのって駆けつけたのではない。もちろん正解は鉄道だ。当時の幹線を辿れば経由地はおそらく下記の通り。

    1. ハノーファー
    2. ミンデン
    3. ハム
    4. ドルトムント
    5. ハーゲン
    6. ヴッパータール
    7. デュッセルドルフ

    東京大阪間の半分強。新幹線なら90分だが、当時は半日がかりだろう。28日に知らせを聞き、1日に準備して2日にハノーファーを発ち、その日のうちにデュッセルドルフに着いたと考えられる。

    2014年3月 2日 (日)

    ハノーファーの位置

    ロベルト・シューマンがライン川に身を投じたという知らせを、ブラームスはハノーファーで聞いた。そのハノーファーと主要都市との距離を以下に掲げる。

    1. ベルリン 263km 2時間
    2. ハンブルク 185km 1時間10分 少し訳あり
    3. デュッセルドルフ 295km 2時間30分
    4. ライプチヒ 269km 3時間10分
    5. ウィーン 937km 8時間 当時はまだ鉄道で直結されていない。

    5番目のウィーンは参考のため載せておいた。所要時間は現代のICE利用による。

    つまりハノーファーは便利な場所だということ。シューマンに認められて、楽壇に紹介され、作品の出版話もトントン拍子に進む中、一旦デュッセルドルフのシューマン邸を辞したブラームスの落ち着き場所がハノーファーだった。ここにはヨアヒムがいた。何せ当地の宮廷楽団のコンサートマスターだった。

    ふるさとのハンブルク、シューマンがいるデュッセルドルフ、出版社があるライプチヒこれら諸都市に行くにも便利だ。当時はまだウィーンに進出を決める前だから、ウィーンとの距離は問題にならない。ウィーンを参考と言ったのはそのためだ。急を聞いてシューマン家に馳せ参ずるとき、当時としても半日あれば十分なところにいたということだ。

    2014年3月 1日 (土)

    ハノーファー王国

    普墺戦争でオーストリア側についたため、お取り潰しになった。英国と同君王国であるプライドもあってかそもそもプロイセンとは折り合いが悪かった。ウイーン会議後ルール地方に所領を増やしたプロイセンにとって、新所領は本国とは飛び地になった。逆に申せば東西をプロイセンに挟まれていたのがハノーファー王国だ。大工業地帯のルール地方と、本国を結ぶ直線はハノーファー王国を横切る。何よりも象徴的なのは関税同盟だ。1834年に成立してドイツの産業革命を牽引したこの関税同盟に、ハノーファー王国は当初加盟していなかった。

    ハノーファー王国の鉄道政策にもこうした事情が反映する。国内の鉄道を首都ハノーファーから放射状に建設した。ハンブルクやベルリンとの物資の流れを意図的に遮る路線網を構築した。プロイセンへの嫌がらせである。エルベ川に架橋を許さなかった姿勢とも共通する。

    ハンブルクやベルリンとルール工業地帯との輸送は、少々南のブラウンシュヴァイク公国側に迂回することになる。ブラウンシュヴァイク公国は輸送の拠点として栄えるが、間もなく頓挫する。普墺戦争の結果、ハノーファー王国がプロイセンに併呑されてしまい、ベルリンからハノーファーを経由してルール地方に至る路線が建設されたからだ。

    ブラームスの生きた時代、ブラームスの故郷ハンブルクとヨアヒムの居住地ハノーファーが直結されることは無かった。ブラウンシュヴァイクかブレーメン経由しか存在しなかった。

    « 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

    フォト

    ブラームスの辞書写真集

    • Img_0012
      はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
    2020年9月
        1 2 3 4 5
    6 7 8 9 10 11 12
    13 14 15 16 17 18 19
    20 21 22 23 24 25 26
    27 28 29 30      
    無料ブログはココログ