鴎外のチェコ
森鴎外がドイツ留学に際して立ち寄った国は、目的地ドイツの他に3つ。フランスとオーストリアだ。帰路の経由地だった英国がこれに加わる。通過しただけでよいならさらにチェコも仲間入り。1887年10月ウィーンで開かれた衛生学会の帰路、プラハ、ドレスデンを経由してベルリンに戻ったはずだ。当時は外国チェコという意識は無かったもとの思われる。
ウィーンを発ったのが1887年10月8日夜9時、途中ドレスデンでマクデブルクに向かう友人と分かれた。このことで、プラハ経由だったことが推察できる。ベルリン着は明くる9日の午後だったらしい。
プラハといえばドヴォルザーク。ピアノ五重奏の作曲が終わったのが1887年10月3日だった。オペラ「ジャコバン党員」の着手が同年11月10日だ。日時が明らかでないのだが、この1ヶ月少々の間に交響曲第5番の出版交渉のためにベルリンのジムロックを訪ねている。鴎外と同じ列車に乗った可能性がゼロではない。
少しの間、ドヴォルザークと鴎外がベルリンにいたことだけは確実だ。
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