ハノーファー王国
普墺戦争でオーストリア側についたため、お取り潰しになった。英国と同君王国であるプライドもあってかそもそもプロイセンとは折り合いが悪かった。ウイーン会議後ルール地方に所領を増やしたプロイセンにとって、新所領は本国とは飛び地になった。逆に申せば東西をプロイセンに挟まれていたのがハノーファー王国だ。大工業地帯のルール地方と、本国を結ぶ直線はハノーファー王国を横切る。何よりも象徴的なのは関税同盟だ。1834年に成立してドイツの産業革命を牽引したこの関税同盟に、ハノーファー王国は当初加盟していなかった。
ハノーファー王国の鉄道政策にもこうした事情が反映する。国内の鉄道を首都ハノーファーから放射状に建設した。ハンブルクやベルリンとの物資の流れを意図的に遮る路線網を構築した。プロイセンへの嫌がらせである。エルベ川に架橋を許さなかった姿勢とも共通する。
ハンブルクやベルリンとルール工業地帯との輸送は、少々南のブラウンシュヴァイク公国側に迂回することになる。ブラウンシュヴァイク公国は輸送の拠点として栄えるが、間もなく頓挫する。普墺戦争の結果、ハノーファー王国がプロイセンに併呑されてしまい、ベルリンからハノーファーを経由してルール地方に至る路線が建設されたからだ。
ブラームスの生きた時代、ブラームスの故郷ハンブルクとヨアヒムの居住地ハノーファーが直結されることは無かった。ブラウンシュヴァイクかブレーメン経由しか存在しなかった。
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