シュヴァルツヴァルト紀行
1854年夏、6月にフェリクスを出産したクララは、ベルギーのオステンデに静養に出かけた。シューマンの投身以来、ずっとデュッセルドルフで献身を続けていたブラームスは、その間にシュヴァルツヴァルト地方への旅行を企てる。
まずは友人のグリムと連れ立って、ケルンに出る。デュッセルドルフからは20kmほどなので歩いたかもしれない。ケルンからライン川を船で遡ってマインツに出る。そこでグリムと別れてさらにライン川沿いを南下。おそらくマンハイム経由でハイデルベルクに着いたのが8月12日土曜日だった。マインツからハイデルベルクまでの交通機関は不明。おそらく船か鉄道だろう。
当地のハイデルベルク大学は、ロベルト・シューマンも籍を置いていたことがある。シューマンが当時下宿した家を訪ねたが、日曜日で雨戸がしまっていたとクララに手紙で報告しているから、それはおそらく13日。13日の昼にはハイデルベルクを出発したという。次の目的地ハイルブロンまで、およそ70kmの道のりを歩いた。ネッカー川沿いの景勝コースだから、21歳のブラームスは楽々と1日半で歩いた模様。15日の夜にはエスリンゲンからクララに手紙を書いたからだ。ハイルブロンには14日中に着いたと思われる。15日には天気が崩れたらしい。おそらく悪天候のせいで、ブラームスは徒歩を諦めて列車に乗り、80km南のエスリンゲンに15日中に入った。途中にはシュトゥットガルトがあるけれど、先を急いだ感じがする。
ハイデルベルクとハイルブロンの間は、曲がりくねるネッカー渓谷沿いに古城が点々と存在する。ツバメの巣城やホルンベルク城の素晴らしさをクララに書き送っている。
さてエスリンゲンで宿泊したブラームスの目的は、そこから山中に入る鉄道だろう。現在でも人気の路線で、シュヴァルツヴァルトを突き抜けてドナウ沿岸のウルムに至る。ブラームスはそこからさらに南下を続けて、本物のアルプスに行く予定だったが、どうにもクララが気になって、ウルムから引き返す。
8月19日にはボン近郊のエンデニヒにシューマンを見舞っている。帰りがけに立ち寄ったのだ。そして21日にはデュッセルドルフからクララに手紙を書いている。
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