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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2014年5月31日 (土)

ビスマルク操車場

ルール工業地帯の真っただ中、鉱山の街ゲルゼンキルヘン北郊に、ビスマルク操車場がある。鉄血宰相ビスマルクと同じ「Bismarck」という綴り。はたしてこれは本当に鉄血宰相に由来する名前なのだろうか。

操車場の北側運河をはさんだ対岸に、廃坑がある。その廃坑が「GrafBismarck」という名前だった。「ビスマルク伯爵」という名前だ。ビスマルクは最終的に伯爵の上の侯爵まで昇進したから、鉱山の命名は彼が伯爵だった1865年から1871年までの間だ。その6年間に命名されたハズだ。

さらにそれら廃坑群の西側の廃坑には「GrafMoltocke」という名前が付けられている。間違いないプロイセン興隆の英雄を鉱山の名前にしたのだ。同地ゲルゼンキルヘンは当時プロイセン領だから、そこの大宰相と参謀本部長の名をいただいたということだ。一帯のルール工業地帯は、躍進プロイセンの屋台骨だったことは周知の事実だ。

廃坑となったあとその一部が操車場に転用されたという流れ。

2014年5月30日 (金)

省略っぷり

先ごろ買い求めた「Eisenbahnatlas」にどっぷりとはまっている。何といってもその徹底振りが凄い。鉄道以外の事象をバッサリと切り捨てるその省略っぷりは、すでに禁欲的と申してよいレベルだ。

まず槍玉に上がるのが、道路。道路の省略っぷりが鮮やかだ。「文句がある奴は道路地図でも見てくれ」とでも言いた気だ。アウトバーンだけが、薄墨でほんのり書き記されている。

山と川は、さすがに省略されない。土地の高低は品よくほんのりと色分けされている。市街地と森もそうした色分けの対象である。この手のバランス感覚が絶妙だ。気前のいい省略がもう一つ。鉄道に関係のないランドマークも容赦なく切り捨てられる。世界遺産だろうが自然遺産だろうが、名高い観光資源だろうが全く容赦しない。ケルン駅前にそびえる世界遺産ケルン大聖堂も載っていないし、ノイシュヴァンシュタイン城も敢え無くカット。ロマンティック街道も一顧だにされない。一般観光ガイドとしては失格。

それでいて鉄道に関するモニュメントだけは赤文字で特記される。「EisenbahnMuseum」(鉄道博物館)や「Museumbahn」(保存鉄道)は、必ずきっちりと収載されている。かつての路線だって見捨てはしない。アウトバーンよりは濃く表示される。

いやはやドイツ人らしい。

2014年5月29日 (木)

記事3333本

昨日の記事「編集方針」が実はブログ開設以来3333本目の記事だった。

いつものように素直に喜ぶ。時は鉄道特集の真っ只中だ。1月から始まった鉄道特集は、とうの昔に100本を越えている。次女が高校オケ現役を引退しているから、そちらの話が過剰に盛り上がることも無く、順調に推移している。本日は束の間の休息。

そして明日5月30日に当ブログは開設以来満9年となる。ここまでに積み上げた記事が3334本だ。ちょっとした分量になってきた。何らかの検索でたどり着いても、すべてを読むには骨が折れるはずだ。

2014年5月28日 (水)

編集方針

先ごろ入手した「Eisenbahnatlas」は「SCHWEER+WALL」という出版社から刊行されている。ケルンに本社があるらしい。私は「ドイツ版」と「オーストリア版」を持っているが、実は「スイス版」と「イタリア版」も出ている。

  1. ドイツ
  2. オーストリア
  3. スイス
  4. イタリア

上記4種が刊行されている。この4か国が選択された基準はいったい何だろう。ブラームスの足跡を調べるにはピッタリだというのが気になる。ふるさとドイツに実生活の本拠地オーストリア。9度の旅行を企てたイタリア。3度夏を過ごしたトゥーンはスイスだ。ブラームスが立ち寄った先はほぼカバーできる。現ポーランド領のプロイセンの旧領あるいは、当時ハプスブルク領だったハンガリーやチェコがあれば完璧だ。演奏旅行先のデンマーク、オランダ、ベルギーなどをねだってはバチが当たる。

2014年5月27日 (火)

産業革命の痕跡

このほど入手した「ドイツ鉄道地図」を従来愛用していた道路地図と比較する。道路地図は、道路を網羅し、鉄道地図は廃線区間を含めた鉄道の網羅を主眼としている。主目的以外の情報は適宜省略されている。鉄道地図はアウトバーン以外の道路が記されていない。そのアウトバーンとて薄いグレーで控えめに描かれているに過ぎない。道路地図は鉄道線路を省略こそしていないが、細々と記すにとどまる。

当たり前の話だ。

鉄道地図は、地上建造物の言及にも消極的。ケルン中央駅の隣にそびえる世界遺産・ケルン大聖堂さえも省略されている。道路地図においては主たる観光地は必ず特記されていることと対照的だ。道路地図だとサッカーのスタジアムだって主なものはちゃんと書かれている。

一方、オイルタンクや発電所、主要工場は大変細かく書かれている。これは貨物線の目的地になっているケースが多いからだと想定される。そうした事業所には一般の企業名も臆せず記入されている。ベンツやBMWあるいはクルップ、ジーメンスの工場だと一目でわかる。とりわけ圧巻はルール工業地帯だ。道路が密集しすぎていて道路地図ではかえって判りにくくなっているのだが、道路が省略されている鉄道地図だとクリアにわかる。加えて工場が克明に記されているから。どこにどんな工場があるのか一目瞭然だ。ルール工業地帯の成り立ちはキチンと腹に入る。

道路と鉄道、目的の違う2種類の地図を併用して認識のずれを修正しながら理解を深めて行くことができるようになった。

2014年5月26日 (月)

軌道幅リストその2

ドイツでやってみた軌道幅リストをオーストリアで試してみた。

  1. 127mm グラーツの公園鉄道
  2. 184mm シュトラースホフ保存鉄道
  3. 381mm ウィーンのドナウ公園とリリプットバーン
  4. 500mm ゲリアトリトラム野外鉄道
  5. 580mm ヴォルフゼックトラウン谷鉱山鉄道
  6. 600mm 今は無き鉄道が3つほど。
  7. 750mm 
  8. 760mm 今はなき鉄道が10本ほど。
  9. 800mm 今はない。
  10. 880mm
  11. 900mm リンツ市電
  12. 946mm カプラン氷河鉄道
  13. 1000mm 割と見かける。
  14. 1106mm リンツ馬車鉄道
  15. 1435mm オーストリア国鉄。標準軌。
  16. 2340mm メルパンプ鉱山。今はない。

16種類だ。日本でなじみ深い1067mmや1372mmは無かった。標準軌のほかブラームスが遭遇してそうなのは600mm、760mm、900mm、1000mmくらいか。

2014年5月25日 (日)

軌道幅リスト

ドイツの鉄道に何種の軌道幅があるか鉄道地図上で数えた。狭い順に列挙するが今はないものも多いし、おそらく見落としもある。

  1. 89mm ゾンメルホーフェン小鉄道
  2. 127mm 庭園鉄道プロヒンゲン
  3. 144mm 庭園鉄道ラーデボイル
  4. 184mm 庭園鉄道プロヒンゲン
  5. 320mm 公園鉄道シュタットローン
  6. 381mm シュトゥットガルト、ドレスデン、ライプチヒの各公園鉄道
  7. 410mm フランクフルト公園子供鉄道
  8. 500mm ファッテンローデ公園鉄道
  9. 550mm マイエン坑内鉄道
  10. 560mm ザルツベルク坑内鉄道
  11. 575mm バートエムスとラムスベルクの坑内鉄道
  12. 600mm かなりたくさんあったが廃線多い。
  13. 630mm ツィーゲライ公園鉄道
  14. 655mm シェレブッシュハルクオーター炭鉱鉄道
  15. 660mm ザールラントとラインラントプファルツの坑内鉄道
  16. 750mm ザクセンやプロイセンで一般的な狭軌の軌道幅。
  17. 775mm ボンベルク鉄道
  18. 785mm ブレルタールバーン。戦前の上部シレジア鉄道。
  19. 800mm ライプチヒ保存鉄道など。
  20. 820mm ウィルヘルム皇太子鉄道。
  21. 880mm バイエルントルフ鉄道
  22. 889mm シェレブッシュハルクオーター炭鉱鉄道
  23. 900mm 割と見かけるが廃線も多い。
  24. 915mm ケムニッツ市電 1914年まで
  25. 925mm ケムニッツ市電 1958年から1988年まで
  26. 1000mm 狭軌の中では一番見かける。
  27. 1067mm 残念ながら日本主流だがドイツではゼロ。
  28. 1100mm ブラウンシュヴァイク、リューベック、キールの市電だが今はない。
  29. 1372mm 日本の馬車鉄軌道だがドイツには無い。スコットランド軌道とも。
  30. 1432mm 標準軌より3mm狭い。1990年代までニュルンベルク市電。
  31. 1435mm 標準軌。ドイツの95%。日本の新幹線。私鉄にも。
  32. 1440mm ロストク市電だが1978年に廃止。
  33. 1450mm ドレスデン市電
  34. 1458mm ライプチヒ市電
  35. 1520mm リューゲン島のムクラン。
  36. 1524mm ロシアの軌道だがドイツには無い。
  37. 1600mm 1855年までバーデン公国鉄道。今は標準軌。通称アイリッシュ軌道。
  38. 1800mm 上部ヴァイスバッハ鉱山鉄道。今はない。

全部で38種類ではない。1067mm、1372mm、1524mmを除くから35種類となるる。1435mmの標準軌を超えるいわゆる広軌は、とても数が少ない。むしろ28種類も存在する狭軌のほうが多彩である。総延長で5%程度しかない狭軌が驚くほど変化に富んでいる。ブラームスはこのうちの何種類に関与したか不明である。

2014年5月24日 (土)

狭軌電化区間

旧国鉄、現在のJR各社は新幹線以外の路線で狭軌1067mmを採用していたから、一般の日本人にとって電化された狭軌区間などありふれたものだ。ところが96%が標準軌1435mmのドイツでは、そもそも狭軌自体が少ないうえに、幹線ではない狭軌区間を電化するというのは相当例外になる。同じ狭軌でも非電化路線ならば、田舎に行くと頻繁に存在するし、蒸気機関車を運行するような観光路線ではそれが呼び物にもなっている。以下にその訳アリ感満載の狭軌電化区間を地図から拾い上げる。

  1. ミュンヘベルク⇔ブッコウ ベルリンの東60kmくらい。蒸気機関車も運行している。
  2. キーファースフェルデン⇔ヴァヒテル バイエルン南端クーフシュタイン近郊。
  3. ガルミッシュパルテンキルヘン⇔ツークシュピッツェ ドイツ最高峰への登山。

実際これっぽっちしかない。

ところが山岳国スイスでは軌道幅に関係なく電化が非常に進んでいるから面白い。

2014年5月23日 (金)

三軌間併存

インスブルックの東北東およそ35kmの位置に、イェンバッハという駅がある。ザルツブルクとインスブルックを結ぶオーストリア国鉄の幹線が東西に走っている。イェンバッハから、北と南に分かれる鉄道の分岐点にもなっている。

  1. オーストリア国鉄 標準軌1435mm
  2. アッヘェンゼー鉄道 1000mm
  3. ツィラータール鉄道 760mm

上記の通り、3種類の異なる軌道幅の鉄道が、同一の地表面で平行して敷設されている。これはかなり珍しい現象。鉄道マニアにはたまらない光景だろう。残念なのは開業時期だ、アッヘンゼー鉄道が1899年、ツィラータール鉄道が1902年なので、ブラームス存命中は、オーストリア国鉄しか通っていなかった。スイスへの旅行の際には通過した可能性がわずかにあるだけに残念だ。

2014年5月22日 (木)

軌道幅戦略

欧州の鉄道で採用されている軌道幅を調べると標準軌1435mmが大勢を占めている。日本の新幹線と同じ幅だ。ドイツは鉄道総延長のおよそ96%を標準軌が占める。

標準軌以外を採用して欧州で目立つのが、ロシアとスペイン。ロシアは1529mmつまり5フィートジャスト。鉄道の導入にあたり指導を仰いだアメリカ人技術者の影響。現在でこそ世界最大の標準軌大国アメリカだが、当時は南部を中心に5フィート軌道が幅を利かせていたからと説明されるが、実はもっと深い。ナポレオンのロシア遠征がトラウマになっていたロシアは、フランスと同じ軌道幅を避けたのだ。フランスばかりかドイツも標準軌だから、国境を突破されたが最後、鉄道を使えば自国内を補給部隊が縦横無尽に活動できるという事態を恐れた。国土防衛上の観点から標準軌を避けたということだ。

ピレネー山脈を隔ててフランスと接するスペインも事情が似ている。こちらはロシアとも違う1686mm。ポルトガルをも含むイベリア軌道である。戦時下でこそ防衛上のメリットがあるのだが、平和な世の中になると軌道幅違いは交通の妨げでしかない。スペインは国際特急AVEの乗り入れを前提とした新線の建設に際し、自国在来線の軌道幅より狭い標準軌1435mmを採用した。

さてさてフランスとの関係でいうなら宿敵ドイツは、フランスと同じ標準軌だ。ドイツ最初の鉄道が標準軌だったという偶然の仕業とも言い切れない。ドイツ帝国成立後、ビスマルクが推進する鉄道国有化に頑強に抵抗した諸領邦は、独自に鉄道を敷設したが、軌道幅は軒並み標準軌だ。バーデン公国で1600mmが採用されたが、1870年代までに標準軌に改修されている。ナポレオンに蹂躙された記憶がありながら、標準軌を避けていないのが面白い。それどころか、その鉄道を戦略的に使って普仏戦争を勝利に導いた。

2014年5月21日 (水)

四六軌道

「しぶろくきどう」と読む。和音の第二展開形を「四六の和音」といい、ブラームスがしばしば話題にしたが、さすがに和音とは関係がなくて軌道幅1372mmが4フィート6インチだからだ。別名「馬車軌道」ともいう。東京の馬車鉄道がこの軌道だったことから来る言い回しである。山の手線内側に路線を伸ばした路面電車はこの軌道だったため、都心への乗り入れを画策する鉄道各社が競ってこの軌道幅を採用し首都東京の主役だった。都心乗り入れの受け皿が地下鉄になるに従って、相次いで改軌が進み今では京王帝都電鉄と都営新宿線のみになった。国際的にも珍しい数値で、100km以上の営業キロ数の鉄道では世界でここだけで、あとは函館市電があるだけ。

ここで「おや」っと思う人もいることと思う。現在標準軌とされているのは1435mmで、この軌道幅は鉄道の母国イギリスの鉱山で採用されていた馬車鉄道の軌道幅が起源とされている。同じ馬車鉄道でありながら欧州と日本では幅が違うということだ。

英国の馬車鉄道の軌道幅は、人によってはローマ起源説を主張する。古代ローマの道路跡に検出される轍の幅に一致するらしい。

などという学説を調べていたらあっと驚く話にたどりいた。

遺跡から読み取れる馬車の形状を分類してゆくと、ユーラシア大陸の馬車は、2系統に分類が出来るという。

  1. 2頭の馬で、馬の間に1本の棒でひく。
  2. 1頭の馬で、両サイドに各1本で計2本の棒でひく。

この2つのパターンは、バルト海からカスピ海を経てアルタイ山脈、中国雲南に抜ける線を境にキレイに棲み分けられているという。この線の西側が上記の1の地区で、東側が2の領域となる。欧州は1で東アジアは2ということだ。

2頭立てと1頭立ての違いが軌道幅の違いの遠因になってはいまいか。2頭立て地域の欧州のほうが、1頭立て地区より軌道幅が広くて当たり前だ。

1435mmと1372mm約6cmの違いの原因がこれとも思えないが念のため。

2014年5月20日 (火)

Drachenfelsbahn

ボンの南東10kmの位置にケーニヒスヴィンターという街がある。ここを起点に「Drachenfelsbahn」という登山鉄道が出ている。無理やり日本語にすると「竜の岩鉄道」だ。ドイツ伝説上の英雄ジークフリートが竜を退治し、その返り血を浴びて不死身になったという有名な話の舞台である。このあたり一帯はジーベンゲビルゲといわれる景勝地で、7つの円錐状の山が連なっている。ジークフリートのエピソードにちなんで「Drachenblut」(竜の血)というワインが名物になっている。

ブラームスは、クララの埋葬のあとボン近郊にしばらくとどまった。ジーベンゲビルゲという景勝地で、友人に囲まれながら過ごした。ブラームスが滞在したのは、「Bad Honnef」という街だが、そこから北西にわずか5kmの位置にケーニヒスヴィンターがある。

この登山鉄道の開業は1883年だからブラームスがジーベンゲビルゲで静養した時に、乗車することもできたハズだが、気力体力があったかどうか心配だ。

2014年5月19日 (月)

ミニチュアワールド

今やハンブルク随一の観光スポット。エルベ河畔の倉庫街の一角にある鉄道模型のテーマパークだ。HOゲージの鉄道模型の大ジオラマ。2002年のオープンだがまだ建設中で完成のあかつきには10000平米の規模になる。既に現時点で世界最大のジオラマの位置づけにある。

模型をとりまく精巧なミニチュアが売り物らしい。行ってみたい。

2014年5月18日 (日)

市電への道

記事「路面電車」で言及した各地の市電のうちウィーンについて少々詳しく述べる。

何気なく「市電」と言いまわしているが、実は最初は馬に挽かせていたし、その次の段階では蒸気に頼っていた。文字通りの「市電」になるには段階を踏む必要があった。

  1. 馬車鉄道 1840年7月2日から1842年6月29日まで、市内とドナウ運河を結ぶ路線があった。現代のウィーン市電の前身とはならずに廃止された。
  2. 馬車鉄道 1865年10月4日リンク通り北端のショッテントーアから北郊外ドルンバッハまで馬車鉄道が開業した。現代の43号線の一部である。ブラームスが故郷ハンブルクからウィーンに進出して丸3年を経過した頃だ。当時のブラームスの下宿からは距離があるけれど存在自体は聞き及んでいたに違いない。1872年までに総延長42.4kmに達する。
  3. 蒸気鉄道 1883年ヒーツィンクからベルヒトールズドルフまで蒸気機関での運行が始まった。ブラームスがしばしばハイキングの目的地に選んだあたり。
  4. 電気鉄道 1897年1月28日現在の5号線で初めて電車が運行された。しかし切ない。このときブラームスの命は残り2ヶ月少々だった。体調が悪くて市電どころではなかったはずだ。

2014年5月17日 (土)

路面電車

ドイツ語では「Strassenbahn」か「Stadtbahn」と綴る。スペリングから判断する限り電化されていることが条件ではないようだ。ブラームスの故郷ハンブルクには市電は無いが、ドイツはあちこちの街に市電が発達している。ブラームスが乗ったことありそうな市電ベスト10を選定する。

  1. ウィーン 1865年開業の馬車鉄道が起原。電化は1897年だからおそらくブラームスは間に合っていない。馬車鉄道になら乗っていた。
  2. フランクフルト 1872年開業。晩年のクララを訪ねて盛んに訪問しているから乗っていたかもしれない。
  3. ライプチヒ 1872年開業。ピアノ協奏曲第1番で煮え湯を飲んだが、ヴァイオリン協奏曲初演のころから雪解け。しばしば立ち寄ったからきっと乗っている。
  4. ベルリン 1865年開業。ブラームスのベルリン嫌いは知られているが、ジムロックやヨアヒムが住んでいたからやはり何かのついでに乗っていたかもしれない。
  5. デュッセルドルフ 1876年開業。シューマン家に住んでいたころにはまだ未開通だったことがネック。演奏会でしばしば訪れていたからそのついでに乗ったかも。
  6. プラハ 1875年開業。ドヴォルザークに会いに出かけたついでに乗っていたような気がする。
  7. ドレスデン 1872年開業。ザクセンの首都だからしばしば演奏会で立ち寄った。ふとしたはずみで乗っていたかもしれない。
  8. ケルン 1877年開業。二重協奏曲初演の頃には開通していた。
  9. ボン 1892年開業。開業が遅いのがネックだが、いきなり電車だった可能性もある。
  10. ミラノ 1881年開業。イタリア旅行の際乗っていたかも。

1894年開業のグムンデンは軌道幅1000mmの珍しさが売りだが、少々遅い。上記3と7は愛好家にはお宝。ライプチヒの軌道幅1458mmとドレスデンの1450mmは、世界中でここだけの超レア軌道幅だ。その他はみな標準軌なのでつまらない。

2014年5月16日 (金)

世界初の市電

1881年5月16日ベルリン。世界初の市電が開業した。路面電車なのだが、世界初の電車。ベルリン市内のハウプトカッデンアンシュタートとグロースリヒターフェルデ間の2.4kmを所要時間10分で結んでいた。時速およそ20kmで一日12往復。座席数12だったという。

電車の製作はジーメンス社だった。

森鴎外のドイツ留学は1884年からだから、既に市電が走っていたと思われるが、独逸日記にも舞姫でも直接電車に言及してはいない。

ブラームスは1889年3月にヨアヒム演奏生活50周年の演奏会に出演しているが、市電に乗ったかどうか不明だ。

2014年5月15日 (木)

空飛ぶハンブルク人

戦前のドイツ国鉄の看板列車の愛称。ドイツ語では「Fliegender Hamburger」と綴る。列車を牽引した流線型ディーゼル車の愛称がいつしか列車の愛称に転化した。

1933年5月15日だからブラームスの生誕から100年と8日後に営業運転を開始した。ちょうど100年後だったら相当嬉しいのだが残念。ベルリン-ハンブルク間およそ300kmを2時間18分で結んだ。平均時速では当時世界最速の124kmであった。特筆すべきは、1830年に世界初の鉄道が英国に現れてから、営業運転の平均時速の世界記録はずっと英国とフランスが独占し続けていたのだが、これにより初めて世界記録保持者がドイツになった。さらにここでディーゼルが世界記録を書き換えて以降、今日まで蒸気機関車による世界記録が樹立されていない。

第2次大戦直前の1939年8月に運転が休止されるまでのたった6年間の運行に終わったのだが、現代のICEの所要時間が90分ということを考えると、相当な速度。鉄道の速度が国の威信に直結していた時代でもあった。

2014年5月14日 (水)

ジーメンス

ウェルナー・フォン・ジーメンス(1816-1892)はドイツの発明家、実業家である。電気技術の広大な領域で現在もなお有用な数々の発明をした。1847年にそれら発明の事業化のために会社を起こす。ジーメンス・ウント・ハルスケ社の創業だ。ベルリン-フランクフルト間の電信設備をプロイセンから受注するなど、あっという間に欧州屈指の巨大企業に成長した同社のハプスブルク支社長が、ブラームスとも交流があったリヒャルト・フェリンガーである。

特筆すべきは1879年の電気機関車の開発だ。蓄電池式ではなく集電式により走行する電気機関車による遊覧運転がベルリンで行われた。商用運転はやはりベルリンで1881年に実現した。しばしばベルリンを訪れたブラームスが電気機関車を目撃した可能性は否定できない。

2014年5月13日 (火)

嗚呼ハンブルク

今日はサッカーの話。ドイツのサッカーリーグ「ブンデスリーガ」が現在の形になったのは1963年だ。およそ50年前の創設から、一度も2部リーグに降格したことが無いクラブが2つあった。一つはバイエルン・ミュンヘンで、まずは説明不要だ。

いま一つがハンブルガーシュポルトフェライン略してHSVである。1887年ハンブルクで創設されたクラブだから、ブラームスだって噂くらいは聞いていたかもしれない。

ところが、今年HSVは大不振でクラブ史上初の降格の危機にある。最終節まで終えて16位。2部3位との入れ替え戦に回る。ここで破れればブンデスリーガ創設以来の2部降格となる。

入れ替え戦は5月15日と18日。ブラームスのご加護が要る。

2014年5月12日 (月)

子育てのエンディング

次女は我が家の末っ子。その次女は4月から大学に通っている。大学ともなれば、学費の工面は別として、子育てとしては一段落。子離れモードに切り替えて行かねばならない。

長男の出生から22年にも及んだ我が家の子育てが一区切りとなった。その最後を飾ったのが次女の高校オケ。音楽大好きの私だから願ったり叶ったりだったが、そこで得た人間関係は予想外のものだった。次女の深々とした音楽への関与は、予想できたが、次女たちオケをとりまく濃厚な人間関係は望外の収穫だった。よい歳をして高校の部活への関与がこれほど濃密で有意義になるとは思ってもみなかった。我が家の子育ての最後にそうしょっちゅうあるハズもない奇跡が待っていた。

同期のメンバーや教師との濃密な関係は、子どもたちにとっては生命線の一つなのだが、それをバックアップする保護者間の連帯が有り得ぬくらい温かかった。子どもたちが大人への階段を少しずつ上る一方で、保護者たちは学生時代さながらの交流を続けてきた。次女が卒業とともにオケを離れても、ずっと付き合っていたい友人を何人も作ることができた。娘らの部活は子どもを大人にする一方で、大人を子どもにもしてくれた。

昨日スペシャルコンサートだった。大人になった子どもたちと、子どもに帰った大人たちの交差点。

2014年5月11日 (日)

いよいよ今日

次女たちの後輩37代の引退公演、第21回スペシャルコンサート、いよいよ本日。

今日、どんな演奏になろうとも、私は乙女たちの演奏を断固支持する。

2014年5月10日 (土)

イタリアンエキスプレス

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻145ページに厄介な記述がある。ヨーゼフ・ヴィトマンがブラームスと同行したイタリア旅行について証言している。気になるのは以下の件り。

「ブラームスはフロイントと、アンコーナ経由でウィーンに向かう汽車に乗り込んだ」

詳しい状況を少し加える。1893年5月7日、60歳の誕生日をナポリで過ごしたブラームスが、ウィーンに引き返すルートを1文で記したものと考えていい。日付はおそらく8日~10日あたりと推定される。フロイントとは人名で、イタリアに同行したハンガリーの音楽家だ。

何が厄介かというと、何よりも今ナポリ-ウィーン間に直通列車はない。当時はあったのだろうか。伊墺間の国際特急は、全てローマ止まりで、ナポリへは乗り換え必須になっている。しかも乗換えが発生するとしたら、ローマが自然だ。

ところがこの文を素直に解釈すると「ウィーンとナポリに直通列車があった」「それもアンコーナ経由」というように読める。ナポリは「イタリア長靴」のすねのあたり。アンコーナは反対側、ふくらはぎのあたり。ナポリからイアリア半島を横切ってアンコーナに辿りつかねばならない。現代の鉄道地図で見る限り、その路線にはいくつか候補があるけれど、どれも幹線とは言えない。「ローマ経由じゃなさそう」に見せかけて実はローマに到達したのち、アンコーナ周りになっていた可能性もあるにはある。

  • 疑問① 当時はナポリ-ウイーンに直通列車があったのか?
  • 疑問② その直通はローマ非経由のアンコーナ回りとすると、イタリア半島横断のルートはどこか?
  • 疑問③ ナポリ→ローマ→アンコーナという経路の直通列車があったのか?

アンコーナまでたどり着けば、そこから先はウィーンまで当時も今も大幹線となる。ボローニャを経由してやがてヴェニスに至る。ナポリからベルンに戻った友人ヴィトマンは、ヴェニスで投函されたブラームスからのハガキを受け取っているから、ヴェニス経由は明らかだ。ヴィラッハでオーストリアに入り、やがて名高いゼメリンクを通ってウィーンにたどり着く。このルートがとても自然であるだけに、ナポリ-アンコーナ間の記述が不自然に浮かび上がる。

直通ではなくて、アンコーナやボローニャで乗り換えたなら、ぐっと現実味がある。

37代引退公演・第21回スペシャルコンサートは明日。

4週間前から続けてきたスペシャルコンサートへの秒読みだが、今日で最後となる。現実とはいえ、切ない秒読みだった。

2014年5月 9日 (金)

郊外電車

ウィーンの地下鉄にブラームスが間に合っていない話は既にしておいた。ブラームス存命中には市内には馬車鉄道が走っており、ブラームスがそれに乗った証言がある一方で、馬車鉄道より本格的な鉄道が市内に建設されていた。

ウィーンを取り囲む市壁は、それが撤去された跡がリンクになっていることで有名だが、実はもう一回り外側にリーニエと呼ばれる壁が建設された。1704年のことだ。現在の3区から9区を取り囲む形になっていたが今では撤去されている。実はその跡地が鉄道に転用された。1883年に馬車鉄道より高規格のシュタットバーンとして建設が始まったから、ブラームスも話くらいは聞いていたに違いない。

その開通式は1898年5月9日だったというのがおしゃれである。前年に亡くなったブラームスの誕生日と2日違いという偶然。開通式には皇帝の臨席もあったという。そしてそしてその時に開通した路線が、現在の地下鉄6号線になっている。

37代引退公演・第21回スペシャルコンサートまであと2日。

2014年5月 8日 (木)

謎の迂回

ドイツ鉄道の父・フリードリヒ・リストが提唱したドイツ鉄道未来図は興味深い。リスト本人の死後、本当にそのように鉄道網が伸びていった。少々の疑問もある。リストの路線予想図は、ベルリンを中心に放射状に路線が伸びている。とりわけベルリン-ハンブルク間は、定規を当てたように最短距離で描かれている。するとどうだろう。ハンブルクから見て南東に伸びるルートになるのだが、エルベ川の流路とほぼ重なる。ヴィッテンベルゲ(Wittenberge)でエルベ川が真南に折れるまでの間、ほぼ併走と見ていい。これがリストの見立てだ。

ところが、現実は違っている。ハンブルクから出た路線はベルゲドルフで左にカーブを切り、強引にエルベ川から離れる。上記で申したヴィッテンベルゲでまたエルベ河畔に戻るが、その間円弧状に迂回する。直線的に走ったほうが効率がいいはずだ。理由はいくつか考えられる。

  1. 一番ありそうなのが、路線の節約だ。シュヴェリンを経てバルト海側のロストクに向かう路線と共用できるからだ。ハンブルク-ベルリン鉄道と途中まで線路を共有することで建設費の節約を図った。
  2. ラウエンブルクの北で、エルベリューベック運河を越える。ここでの運河水面からの高度を稼ぐため、エルベ河畔を避けた。
  3. エルベ川の洪水対策。エルベ川はドイツ屈指の暴れ川で、古来洪水に見舞われてきた。洪水にまで至らずとも増水が、列車の安全運行の妨げになることを考慮して、河畔の敷設を避けた。

地図だけ見ていて思いつくのはこの程度だ。

37代引退公演・第21回スペシャルコンサートまであと3日。

2014年5月 7日 (水)

開通式

ブラームスの生きた時代、とりわけ少年時代において鉄道の開通式は、国家的行事だった。閣僚や元首の参列はむしろ当然でさえあった。予め日取りを定めて万全の準備で当日を迎えるのが常だった。

ハンブルク初の鉄道ハンブルク-ベルゲドルフ間16.5kmの開通式は1842年5月7日と決められていた。まさに我がブログ的にはもってこいの日取り。ブラームス9歳の誕生日である。この日はハンブルク開港記念日でもあるので、まさに周到な日程調整の賜物であるに違いない。

ハンブルクからエルベ北岸を遡った位置にあるベルゲドルフ駅だが、これがベルリンに延伸される際には、駅の直前で左にカーブして急激にエルベ川から遠ざかるルートが採用された。そのカーブからおよそ10kmほどのところに、ビスマルクの屋敷があったフリードリヒスルー駅がある。

ハンブルク初の鉄道が9歳のブラームスへの誕生祝になればよかったのだが、肝心な開通式は予定通りに挙行されなかった。2日前の5月5日にハンブルク大火が発生したからだ。あらかた街を焼き尽くし死者20000人とも言われる大火が鎮火したのは5月8日だった。だから開通式どころではなかった。さっそく避難者を輸送したと伝えられるが、平常運行への復帰は17日となり、そのときには開通式は行われなかった。

本日はまさにそのブラームスの誕生日だ。

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2014年5月 6日 (火)

ベルリンハンブルク鉄道

プロイセンの首都とドイツ随一の港を結ぶ大動脈。ベルリンハンブルク鉄道会社によって建設が進められた。1842年に開業したハンブルク-ベルゲドルフ鉄道は、単なる部分開業と位置づけることが出来る。ベルリン-ハンブルク間の全通は1846年12月15日。

建設を進めたベルリンハンブルク鉄道会社の理事に、あのモルトケが名を連ねていた。参謀本部に所属していたモルトケが理事就任を要請されたという。1841年から4年間の在職だったので全通の時にはその職を辞していたが、それ以降のモルトケの経歴を考えるといわばエポックである。

このときの鉄道への濃厚な関与が、参謀総長としてのモルトケの発想の根幹を形成することになる。モルトケにとって軍隊の動員とはすなわち鉄道輸送の問題だというシンプルな公理に到達する。周囲に障壁がないというドイツの地理的弱点を克服するために、モルトケが用意した答えがまさに鉄道の高度利用であった。

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2014年5月 5日 (月)

初ベルリン

ベルリン-ハンブルク鉄道は、1846年に全線開通にこぎつけた。このとき13歳のブラームスは、ニュースくらいは聞いていたに違いない。

さて、ブラームスがこの路線に乗ったのはいつのことか調べていたら、あっさり解決した。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」ブラームスの58ページに「1858年3月ブラームスは初めてベルリンを訪問した」と書いてある。クララ一家が前年9月にベルリンに転居したからという理由も添えてある。9月から12月まではデトモルトの勤務があるので、クララ家訪問がずれ込んだと考えられる。

プロイセンの首都に向かう列車に初めて乗ったブラームスは25歳だった。

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2014年5月 4日 (日)

地下鉄は無理

世界最初の地下鉄は1863年開業のロンドンだ。1905年に電化されるまで、蒸気機関車が引っ張っていらしい。乗客は煙にまみれていたハズだ。ドヴォルザークは1884年以降、全部で9回渡英したのだが、伝記には地下鉄についての言及が見当たらない。

さて英国嫌いのブラームスが地下鉄に接した可能性は欧州大陸内で探さねばならない。ドイツ最初の地下鉄は1902年のベルリンだし、ハンブルクはさらに遅い。ウィーンに至っては1976年の開業だった。1896年5月2日開業のブダペストしか可能性がない。ブラームスはこの日まだウィーンにいた。15日にイシュルに出かけ、20日にはクララの訃報を受け取る。クララの葬儀にかけつけて28日にはイシュルに戻る。6月にウィーンで体調を崩し、チェコのカルルスバートで療養したもののまた、ウィーンに戻る。翌年4月にウィーンで亡くなるまでずっとウィーンを離れていないから、結局ブダペストの地下鉄には乗れなかった。

ロンドンの地下鉄の噂を聞いた可能性がわずかながら残っているだけである。

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2014年5月 3日 (土)

説得の材料

1853年8月、ブラームスはライン地方を徒歩で旅行する。その途上ボンで、音楽家ワジレフスキーと知り合う。彼は後にシューマンの伝記を書くほどの人物で、ブラームスには、シューマン家訪問を熱心に勧めた。それ以前にヨアヒムからもシューマン邸訪問を勧められていたのに、気乗りのしないブラームスだった。送付した作品を送り返された経験がトラウマになっていたと推測されている。

それでもワジレフスキーは、「ハンブルクに戻るならデュッセルドルフは通り道だから」と説得を続けた。

おおお。これが思いっきり鉄道ネタだった。現代のように網の目のように鉄道が普及すると、ボン-ハンブルク間には幾通りもの行き方が存在するが、当時は一通りで、選択の余地は無かった。ボン→ケルン→デュッセルドルフ→ハーゲン→パデルボルン→ハノーファー→ハールブルク(ハンブルク)というルートしかない。ワジレフスキーの説得は、このルートを念頭に置いたものに決まっている。言われた側のブラームスにもそうした認識があったはずだ。仮に健脚のブラームスがボン-デュッセルドルフ間を徒歩で踏破しようとも、あるいはラインの船旅を選ぼうとも、デュッセルドルフから先は鉄道に決まっている。だから「どうせデュッセルドルフは通るんでしょ」というニュアンスが説得材料になるのだ。大阪から東京に帰る人に対して「どうせ名古屋は通るでしょ」というのと同じだ。

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2014年5月 2日 (金)

怒涛の1853年

シューマン邸を訪問した10月1日があまりにも有名だが、この年はそれ以前にいろいろな出会いがあった。

  1. 4月 レーメニーと演奏旅行。ハンブルク→ハノーファー。当時はハンブルクの対岸ハールブルクが基点だったが、当時でも鉄道で辿ることが可能だ。間違いなく移動は鉄道だった。ちなみにハノーファーではヨアヒムと会った。
  2. 5月 リューネブルク→ツェレ。この時点でハンブルクから鉄道で行くことが出来た。レーメニとの演奏旅行は、鉄道で行ける街を選んでいると言える。
  3. 6月 ハンブルク→ワイマール。鉄道で辿れる。同地でレーメニと決別。ワイマール→ゲッティンゲン。ヨアヒムを頼ってゲッティンゲンに行くのだが、1853年当時ゲッティンゲンには鉄道が敷かれていなかった。同駅の開業は1854年7月31日を待たねばならない。だからワイマールからカッセルまで鉄道を使い、そこから馬車に乗り換えたと思われる。
  4. 8月 ラインへ一人旅。伝記にははっきりと徒歩旅行と書いてある。ただし、ゲッティンゲンからライン地方(ボン、ケルン、メーレム)まで歩いたのかどうか不明。ゲッティンゲンから北のヒルデスハイムまで馬車で出れば、そこからハノーファーを経由してケルンやボンまで鉄道で行ける。ライン地方内徒歩だったのかライン地方まで徒歩だったのか不明。
  5. 9月 デュッセルドルフ おそらくボンから歩いたと思われる。リュックサックを背負っていたと伝えられる。

ブラームスの母は、レーメニと別れた息子がゲッティンゲンに滞在していることを心配したと伝えられている。名高いヴァイオリニスト・レーメニとリストを訪ねたワイマールに比べれば鉄道も通じていない田舎街だと感じたとしても不思議ではない。

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2014年5月 1日 (木)

ヴィンゼン考

1847年5月、ブラームスの父の友人ギーゼマン一家のいるヴィンゼンにブラームスが滞在したと大抵の伝記に書かれている。リースヒェンとの友情もセットで語られることが多い。

ヴィンゼンという街はハンブルクとハノーファーを結ぶ路線の途中だ。後のハンブルク-ハノーファー線がハールブルク-ツェレ間で部分開業したのが1847年5月1日だった。ブラームスのヴィンゼン滞在が始まった時期と完全に一致する。当時はエルベ川に橋がかけられておらず、ハンブルクからハールブルクまで船でエルベ川を渡らねばならなかったが、この一致には必然を感じる。

開業したばかりの新線に乗ってブラームスがヴィンゼンに赴いたのではあるまいか。伝記を検証する限り、14歳の少年ブラームスにとって、ハンブルクを出る初めての機会だったことは確実だ。そしてそれが新線の開通に触発されたものだった可能性がきわめて高い。同時にこれがブラームス初の鉄道乗車だったと思われる。

このあたりの展開は、我ながら鉄道特集の醍醐味だ。

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