説得の材料
1853年8月、ブラームスはライン地方を徒歩で旅行する。その途上ボンで、音楽家ワジレフスキーと知り合う。彼は後にシューマンの伝記を書くほどの人物で、ブラームスには、シューマン家訪問を熱心に勧めた。それ以前にヨアヒムからもシューマン邸訪問を勧められていたのに、気乗りのしないブラームスだった。送付した作品を送り返された経験がトラウマになっていたと推測されている。
それでもワジレフスキーは、「ハンブルクに戻るならデュッセルドルフは通り道だから」と説得を続けた。
おおお。これが思いっきり鉄道ネタだった。現代のように網の目のように鉄道が普及すると、ボン-ハンブルク間には幾通りもの行き方が存在するが、当時は一通りで、選択の余地は無かった。ボン→ケルン→デュッセルドルフ→ハーゲン→パデルボルン→ハノーファー→ハールブルク(ハンブルク)というルートしかない。ワジレフスキーの説得は、このルートを念頭に置いたものに決まっている。言われた側のブラームスにもそうした認識があったはずだ。仮に健脚のブラームスがボン-デュッセルドルフ間を徒歩で踏破しようとも、あるいはラインの船旅を選ぼうとも、デュッセルドルフから先は鉄道に決まっている。だから「どうせデュッセルドルフは通るんでしょ」というニュアンスが説得材料になるのだ。大阪から東京に帰る人に対して「どうせ名古屋は通るでしょ」というのと同じだ。
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