避暑地への持ち物
ブラームスの伝記を読んでいると、ときどき疑問が湧いてくる。本日もそうした疑問の一つだ。
1896年5月20日にクララ・シューマンが没したときブラームスは既にウィーンを離れ、なじみの避暑地イシュルにいた。だからクララの死を知らせる電報はウィーン経由で届けられた。そのためブラームスが受け取ったのは5月22日になってしまったという。5月のこの時期に早くも避暑地にいたのだ。
ブラームスの本拠地は申すまでもなくウィーンだ。ウィーンを離れて避暑地に赴く際、ブラームスの持ち物にはどんなものがあったのだろう。ブラームスが所有していた膨大な蔵書と楽譜は、普段ウィーンの自宅にあったと考えるのが自然だ。避暑地へそれらが丸ごと運ばれたとは考えにくい。
ブラームス最後の作品は「オルガンのためのコラール前奏曲」op122である。解説書を読むとクララの死後イシュルで作曲されたとされている。これらが古いコラールを下敷きに書かれたことは既に2008年8月25日の記事「蓄積の賜物」で言及した。説明を読む限り若い頃から集めたり書き留めたりした古いコラールを参考に作曲したことは確実である。
ブラームスはクララの葬儀の後、しばらくボン周辺をさまよってから、ウィーンを経由せずに直接イシュルに帰っている。つまりウィーンの自宅にある古いコラールの資料を取りに戻ってはいないのだ。
- クララの死に関係なく既に構想があって関連資料を持ち込んだ。
- クララの死後イシュルに入った後、ウィーンから資料を送らせた。
- 関連資料が無いまま作曲した。つまり該当のコラールが頭に入っていた。
直感としては3のような気がする。
ちゃきちゃきのプロテスタントであったブラームスは、主要なコラールは和声付きで暗譜していたと解したい。あるいは暗譜するほど気に入っていたコラールに曲をつけたと考えたい。
1896年6月24日友人のホイベルガーはブラームス本人のピアノでコラール前奏曲を聴いたことを証言している。
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