避暑地の系譜
ブラームスの夏は避暑地に赴いて作曲だった。欧州では今も秋から春にかけてが演奏会のシーズンだ。夏に作曲をしてシーズンに備えるのは必然の成り行きである。ましてやブラームスは優秀な演奏家でもあったから、1年を上手に使い分けていたと考えられる。
- 1857年 ロベルト・シューマンの没した翌年、クララ一家とブラームスの姉を誘ってライン川づたいにスイスへ旅行を企てた。全行程で1ヶ月ほど。
- 1858年 ゲッティンゲン。クララ一家の夏の避暑地に、「子供のための民謡集」WoO31を手土産に合流。そしてこの滞在の時にアガーテと知り合う。
- 1859年 不明おそらくハンブルク。アガーテと別れた直後の夏だから、ひきこもっていたかもしれない。
- 1860年 同じく不明。ということはつまり故郷ハンブルクにいた。
- 1861年 ハンブルク郊外のハムか。
- 1862年 おそらくハム。この年の9月にウィーン進出。
- 1863年 ハンブルクへ帰省。
- 1864年 ハンブルクへ帰省。
- 1865年 リヒテンタール、バーゼル、カールスルーエ、チューリヒ。
- 1866年 主にリヒテンタール。チュリッヒベルク。おそらくスイス。
- 1867年 主にリヒテンタール。父とともにスティリア、ザルツカンマーグート。
- 1868年 主にリヒテンタール。ボン。それから父とともにラインやスイス。
- 1869年 リヒテンタール。クララの三女ユーリエの思い出とともに。
- 1870年 ミュンヘン後にザルツブルク。普仏戦争のためリヒテンタール行きを断念。
- 1871年 リヒテンタール
- 1872年 リヒテンタール
- 1873年 トゥツィング 弦楽四重奏曲第1番、同2番。クララとのいさかいでこちらに。
- 1874年 リシュリコン
- 1875年 ツィーゲルハウゼン ピアノ四重奏曲第3番。
- 1876年 リューゲン島ザスニッツ 第1交響曲作曲。
- 1877年 ペルチャッハ。第2交響曲。後リヒテンタール。
- 1878年 ペルチャッハ
- 1879年 ペルチャッハ
- 1880年 初めてのイシュル。
- 1881年 イシュル
- 1882年 イシュル
- 1883年 ヴィースバーデン 交響曲第3番。
- 1884年 ミュルツツーシュラーク 交響曲第4番。
- 1885年 ミュルツツーシュラーク 交響曲第4番。
- 1886年 トゥーン
- 1887年 トゥーン
- 1888年 トゥーン
- 1889年 イシュル
- 1890年 イシュル
- 1891年 イシュル
- 1892年 イシュル
- 1893年 イシュル
- 1894年 イシュル
- 1895年 イシュル
- 1896年 イシュル
- イシュル 11回
- リヒテンタール 7回
- ペルチャッハ 3回
- トゥーン 3回
- ミュルツツーシュラーク 2回
ウィーン進出後ある程度お金がたまるまでは、夏には故郷ハンブルクに帰省しているのが微笑ましい。1869年には父親に「もう私が帰る部屋を空けておかなくてよい」と書き送っている。なるほどそれ以降、セレブの集まる超一流の避暑地が彼の夏の居場所になる。つまりドイツレクイエムの成功や、ハンガリア舞曲のブレークでお金がたまったということだ。
さて申すまでも無い結論。これらの避暑地への移動には鉄道が使われた。
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