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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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2014年9月30日 (火)

ミュンクステナー橋

ドイツの最高の鉄道橋。「Mungstener Brucke」と綴る。刃物の街ゾーリンゲンとレントゲンの生地レムシャイトの間でヴッパー川を跨ぐ橋だ。現代では幹線から外れてしまっている。

水面からの高さが107mもある。最高とはこれのことだ。日本の鉄道マニアにはおなじみの余部鉄橋が高さ47mだと申せばそのスケールが判るだろう。しかも竣工は1897年だ。ブラームスの没年に完成して今もなお現役だ。当時はカイザーウィルヘルムブリュッケと呼ばれていた。時の皇帝ウィルヘルム2世にあやかったものだ。カイザーウィルヘルムトンネルは今もそう呼ばれているのだが、孫の名にちなんだこちらは、何故か改名されてしまった。第一次大戦の敗戦と亡命が原因だと思われる。

2014年9月29日 (月)

地雷鉄橋

欧州の地図を広げ、ベルリンとパリに定規をあてて直線を引く。その線がライン川を越えるところにレマゲン鉄橋があった。第二次大戦末期、ベルリンを目指して進撃する連合軍とドイツ軍の攻防の焦点となった戦略の要衝だ。

しからばとばかりに目を転じる。今度はウィーンとパリに定規を当てて直線を引く。それがライン川を越える場所に注目願いたい。フランス側にストラスブールがある。ドイツ名シュトラスブルクは、パリとウイーンを結ぶ交通の要衝だった。ここからドイツ側のケールに橋がかけられたのは1861年のこと。1883年にはこの橋をオリエント急行が渡ることになる。

架橋当時は物議を呼んだ。当時ケールはプロイセン領ではく、バーデン公国領だった。通行に益するということは、つまり戦時には敵軍の進軍ルートになるということだ。ドイツ側はこの架橋の承認にあたって、橋周辺への地雷の敷設という条件を持ち出した。いざというとき即座に爆破できるということだ。誤爆を思うと恐ろしい橋だ。

2014年9月28日 (日)

鴎外とオリエント急行

森鴎外の「独逸日記」1887年9月28日には、オリエント急行への言及がある。鴎外自身がドイツ・カールスルーエからオーストリア・ウィーンまで乗車したのだ。カールスルーエを早朝に出発して、ウィーンにはその日の夕方に着いたとある。

オリエント急行は1883年10月4日の開業以降、しばらく週一回の運転だったが、1885年には毎日運行になっていた。それにつれて当初夜中にウィーンに着くダイヤだったのが、夕刻着に切り替わったと思われる。

鴎外は、10月8日までウィーンに滞在した。この年ブラームスが夏の避暑地トゥーンから戻ったのは9月12日だから、鴎外とニアミスの可能性もある。

2014年9月27日 (土)

世界初の鉄道

蒸気機関車牽引による世界初の鉄道が開通したのが1825年9月27日だ。今日はその記念日。ストックトン-ダーリントン間に開通した。石炭の産地と積出港を結ぶ営利目的の鉄道ではあったが、さまざまな理由から世界初の鉄道と看做さない人もいる。

蒸気機関車が牽引して、人と貨物を載せて走ったという意味では、文句のつけ様が無い。

2014年9月26日 (金)

高橋考

キール運河をループ線で跨ぐ橋の話をした。レンズブルクという街の話題だ。愛用の道路地図で確認すると、その橋の横に「Hochbrucke」(uはウムラウト)と書かれている。「Hoch」は「高い」の意味で、「Brucke」は「橋」だから合わせて「高橋」としゃれてみた。ブログ「ブラームスの辞書」的には、これが大変悩ましい。この「Hochsbrucke」は、はたして地名かという疑問。

そのつもりで、キール運河を地図でたどると、全部で3つも見つかる。

  1. Levensau
  2. Rendsburg
  3. Grunental

不思議なことに、これら全て、鉄道とキール運河の交点に存在し、橋のそばに記載されている。キール運河と鉄道との交点はつまり橋は、全部で4つ存在するのだが、そのうち「高橋」とい記載が無いのがHochdonn付近に1箇所ある。

外航船が行き来する運河で、戦艦ビスマルクも通ったことがあるくらいだから、水面から十分な高さが確保されていたに決まっている。もしそうなら4箇所の鉄道橋全てにおいて「高橋」の記載があってもよさそうだが、実際には3箇所にとどまっている。そうなるとこれが「地名」である可能性も捨てきれない。

2014年9月25日 (木)

ゲルチュタールブリュッケ

「Goltzschtalbrucke」と綴る。ウムラウトには着色しておいた。ツヴィッカウの南西およそ25kmの位置に現存する世界最大のレンガ鉄道橋。長さ574m高さ78m。4段のアーチ橋で、古代ローマの水道橋のような作り。4600万個のレンガを使い1846年から5年かけて完成。

1850年の地図を見るとツヴィッカウとプラウエンの間が繋がっていないのだが、そのときこの橋が建設中だったということだ。ライプチヒからニュルンベルクに向かう最短距離なのだが、ゲルチュ川を越えるここがかなりの難所だったために、大きく迂回するイェーナ-バンベルク周りが先に完成して、今もそちらが幹線扱い。

橋の着想がもう20年遅かったら鉄橋になっていただろうといわれている。あるいはもう5km西側のルートを通ればこれほどの規模の橋は必要にならなかったのだが、そうすると隣国テューリンゲン領にはみ出してしまう。他国に頭を下げるよりは、自国内を無理やり通した結果、このようなレンガ橋になった。ザクセン王国の威信をかけた橋ということになる。1846年当時鉄橋の技術や、粗鋼の生産が追いつかなかったから、既存技術のレンガ橋が採用された。驚くことに今も現役だ。

ライプチヒとニュルンベルクを結ぶ第二ルートだったからブラームスが通った可能性なしとしない。

2014年9月24日 (水)

Ehrenrunde

「エーレンルンデ」と読むと思われる。「Ehren」は「名誉ある」という意味。「Runde」は英語でいう「round」のことだから、「名誉ある円形」とでも解される。これが地名だから嬉しい。北ドイツの港町キールの西南西およそ35kmに「Rendsburg」という街がある。その一角が「名誉ある円形」と言い習わされている。ハンブルクからデンマークに向かう鉄道とキール運河の交点にある街。

鉄道は橋で運河を越えるのだが、船のために確保したい高さで運河を越えたあと、直下の駅に舞い降りるために、ループ線が用いられている。そのループ線が描く円弧の一帯が「Ehrenrunde」と呼ばれている。ループ線そのものが「名誉ある円」だと言う判りやすいオチ。

1911年完成のこの橋は、ドイツ屈指の産業遺産であり鉄道遺産であるばかりか、完成から100年を経た今も現役の鉄道橋だ。当時のドイツの建設技術を投入して完成したのだろう。いつしか「名誉ある円」と呼ばれるようになったということだが、ブラームス没後の完成なのが残念。

運河の通行は、これほどまでして確保されるべきものだということに他ならない。

2014年9月23日 (火)

金星のクレーター

クレーターの名前の話で思いの他盛り上がってしまい、鉄道ネタ中断が続いている。水星のクレーターに作曲家の名前がついているのだが、ロベルト・シューマンが抜けているのが気になって、いろいろ調べたから、もう1日だけ延長する。

ロベルトの名前が採用されていないのに、その妻クララが採用されていたらかなりショックなので調べてみたら、クララはなかった。やれやれと安心していたのもつかの間、お隣金星のクレーターの中にクララという名前があった。

金星はヴィーナスだから、そこのクレーターには女性の名前が与えられる決まりになっているらしい。本件クララはクララなのだが、ロベルトの妻として採用されているわけではなくて、単に女性名としての採用だった。

宇宙規模の壮大な脱線も今日まで。

2014年9月22日 (月)

クレーターの名前

記事「水星のブラームス」で、水星のクレーターの命名に言及した。他に作曲家の名前を持つクレーターのリストを直径の大きい順に勢いで公開する。直径と命名年を付与した。

  1. ベートーヴェン 630.38km 1976年
  2. ラフマニノフ 305.62km 2010年
  3. メンデルスゾーン 291.06km 2012年
  4. ハイドン 251.04km 1976年
  5. モーツアルト 241.01km 1976年
  6. バッハ 204.29km 1976年
  7. ヴィヴァルディ 209.58 1976年
  8. コープランド 208.71km 2010年
  9. スメタナ 191.37km 1985年
  10. シューベルト 190.71km 1976年
  11. チャイコフスキー 171.02km 1976年
  12. ホルスト 169.95km 2010年
  13. ヴェルディ 144.55km 1979年
  14. ヘンデル 138.04km 1976年
  15. ワーグナー 134.11km 1976年
  16. モンテヴェルディ 133.57km 1979年
  17. スカルラッティ 131.99km 1979年
  18. ショパン 131.34km 1976年
  19. ストラヴィンスキ 129.07km 1979年
  20. バルトーク 116.65km 1979年
  21. ムソルグスキー 115.71km 1979年
  22. プロコフィエフ 112.00km 2012年
  23. マーラー 103.71km 1976年
  24. グルック 100.61km 1979年
  25. ブラームス 100.29km 1979年
  26. レノン 95.16km 2013年 ジョンレノンです。
  27. シベリウス 93.58km 1985年
  28. グリンカ 89.04km 2008年
  29. パーセル 87.67km 1979年
  30. ドビュッシー 80.16km 2010年
  31. リスト 78.64km 1985年
  32. ラヴェル 77.62km 1985年
  33. プッチーニ 76.27km 1976年
  34. ドヴォルザーク 76.38km 1976年
  35. グリーク 58.84km 1985年
  36. ヤナーチェク 47.73km 1985年
  37. ベルリオーズ 31.44km 2013年
  38. シェーンベルク 27.61km 1976年
  39. アイヴス 18.42km 1979年

何が基準かさっぱりわからない。気づいたことをいくつか。

  • ジョンレノンがあるのにポールマッカートニーが無いのは何故だろう。ひょっとして生きている人は対象外か。
  • 日本人の作家、詩人、画家は見かけるが、作曲家はいない。
  • 演奏家は対象になっていないようだ。
  • シューマンがいません。
  • ショスタコーヴィッチ、ファリャ、ボロディンなど次女たち高校オケが取り上げた作曲家が漏れている。わざとか。
  • 他に有名どころで漏れているのは、ウェーバー、ビゼー、シュトラウス(ヨハンもリヒャルトも)、パッヘルベル(無理か)、テレマン、ベルク、ウェーベルン、ロッシーニ、ブルックナー。

2014年9月21日 (日)

水星のブラームス

今年生誕140周年を迎えるホルストの誕生日にわざわざこのタイトルでは、悪ふざけと思われかねない。実はクレーターの話だ。誰が数えたか水星には369個のクレーターが確認されていて、それらには律儀に名前が付けらている。

直径100.29km、全体の185番目の大きさを持つクレーターが1979年に「Brahms」と命名されていた。国際会議で承認された世界共通の命名だ。

天体のクレーターの名前には命名の基準がある。水星のクレーターには芸術家の名前が付与されることになっているらしい。作家、詩人、画家、作曲家の中から選んで付けられる。

直径712kmもある水星最大のクレーターは「レンブラント」で、2位は630kmのベートーヴェン。以下ドストエフスキー、シェークスピア、トルストイ、ラフェエル、ホメロス、ゲーテ、ラフマニノフと続く。興味深いのがディズニーでフィルムアーティストとして採用されている。

2014年9月20日 (土)

彗星の接近

1882年9月17日にイタリアのヴェローナが洪水に見舞われた話を調べているうちに気になる情報にたどり着いた。

「1882年の大彗星」が地球に最も近づいたのがまさにその1882年9月17日だった。同彗星は1882年9月になって突如南半球で観測され始めた。あっという間に明るさと大きさを増して、再接近の前後には、白昼でも肉眼で観測できるほどだった。

観察は南半球に限られていたし、ブラームス一行は豪雨の中イタリアを移動中だったから、彗星の接近に気づいていたかどうか怪しい。

この記事、脱線の前触れだ。

2014年9月19日 (金)

共通点

日本代表MF香川真司が復帰したボルシア・ドルトムントは、今シーズンのチャンピオンズリーグ初戦を、香川抜きで快勝した。マンチェスターユナイテッド時代は、不出場があると「冷遇」と感じたが、ドルトムントだと「温存」と感じるから不思議だ。

2010年、香川を応援したくて見始めたドルトムントなのだが、そのサッカーの魅力に取りつかれて、いつしかチーム全体を応援するようになった。育てた選手が頻繁にビッグクラブに引き抜かれながら、魅力的なサッカーが維持されている。

娘を見るために追いかけ続けていたら、その高校オケの魅力にはまってしまったのと似ている。メンバーは2年で完全に入れ替わるのに、演奏の質は微動だにしないところまでそっくりだ。娘が引退した今も気になる存在だ。

さらに決定的な共通点は、どちらも優秀なコンダクターに率いられている。

本日、この記事を公開したことにより、2005年5月30日のブログ開設から、3400日連続記事更新を達成した。私も優秀な管理人だ。

2014年9月18日 (木)

4-5-1

サッカーの文脈の中で語られるなら、間違いなくポジションの話しだ。ゴールキーパーを除く10名のプレーヤーをどのように配置するかという話である。本日のタイトル「4-5-1」を例に取ると、「ディフェンダーが4人、ミッドフィルダーが5人、フォワードが1人」ということが示されている。専門家はこれだけで「4バックのワントップ」だとわかる。

最近では戦術が複雑化して、ミッドフィルダーの5人の配置をさらに細かく言い表すようになってきた。「4-2-3-1」や「4-1-4-1」あるいは「4-3-2-1」などバリエーションがある。ドルトムントに復帰した香川の得意な居場所は「4-2-3-1」の中の2列目に配置される3人のうちの中央ということになる。いわゆる「トップ下」だ。チーム事情によっては、そこの位置でプレーできないこともある中、ドルトムントは香川を取扱説明書通りに、トップ下に据えた。

さてさてこの「4-5-1」をローマ数字に代えると奇妙なことが起きる。

「Ⅳ-Ⅴ-Ⅰ」。

これはまさに和音進行の王道だ。ハ長調を例に取るなら「F→G→C」となる。下属和音→属和音→主和音。「サブドミナント→ドミナント→トニカ」は最も典型的にな進行である。

欧州チャンピオンズリーグが開幕した。ドルトムントは、香川真司を温存しながら、アーセナルを軽々と退けた。今年は楽しめそうだ。

2014年9月17日 (水)

歴史的水害

イタリアのヴェローナは、「ロミオとジュリエット」の舞台として名高い。町全体が世界遺産になっている。同地のシンボル的存在が、円形劇場だ。紀元30年の完成と言われている。ローマ、ナポリに次ぐ大きさの巨大建造物の柱の一つに、洪水を記憶するためのプレートが埋め込まれている。水が達した高さを示す役割があるのだが、同時にその洪水が起きた日が刻印されている。

「1882年9月17日」とある。

記事「橋崩落」で紹介した、シューマンの4女オイゲーニエの手記にある豪雨は、実はこの水害の証言でもある。

一行はクララの誕生日9月13日をコモ湖畔のベラッジオで迎えた。15日に人と会う予定があるために、ミラノ、ヴェローナを経てヴェネツィアに行かねばならないのだが、13日から降り出した豪雨のために、ブラームス他1人は出発を見合わせる。結局クララ母子だけで雨をおして出発した。一旦雨は上がったものの翌14日にミラノを発つ際には再び豪雨となった。ヴェローナに程近いアイジュ川をクララ一行を乗せた列車が渡り終えた後、その鉄道橋が濁流に流された。これが恐らく14日だ。ヴェローナ市街への浸水は、プレートにある通り17日だったら辻褄が合う。

オイゲーニエによればブラームスのヴェネツィア着は遅れに遅れて18日と目される。鉄道の復旧には数週間かかったとオイゲーニエが証言するが、17日に街が洪水にあったとすれば、復旧に時間がかかったとして不思議は無い。

円形劇場の柱に埋め込まれたプレートが、実はブラームスにも遠くでつながっているというおそらくここでしか読めない話。この夏日本はあちこちでひどい豪雨に襲われた。いたましい被害も伝えられている。本日の記事をもってお見舞いに代えたい。

2014年9月16日 (火)

手前

記事「橋崩落」でクララたちの乗った列車が、豪雨による橋の崩落に危うく巻き込まれそうになったと書いた。シューマンの4女オイゲーニエの証言だ。ところがその証言に厄介な記述がある。問題の橋の位置だ。

オイゲーニエはその橋を「ヴェローナ手前」と形容している。ミラノからヴェローナを経由してヴェネツィアに向かうルートだということを前提とするなら、その橋は列車がヴェローナに入る前でなければならない。地図を見る限り、アディジェ川はヴェローナの中央駅に相当する「Verona Porta Nuova駅」よりヴェネツィア側にある。手前という形容は不自然だ。「Verona Porta Nuova駅」の開業は1851年だから駅の遷移は考えられない。

「ヴェローナの手前」というのは駅ではなく「市街地の手前」という苦し紛れの解釈も出来ぬわけではないが、いかにも不自然だ。

2014年9月15日 (月)

世界初の定義

1830年9月15日、英国でマンチェスター-リヴァプール鉄道が開業した。今日は記念日。世界初の鉄道と位置づけられている。これ以前にストックトン-ダーリントン間で、既に蒸気機関車が牽引する鉄道が開業していたが、運賃やダイヤが設定されていなかったこともあって残念ながら世界初と認めない学者もいる。

ベートーヴェンの死没からまだ3年しかたっていない上にブラームスはまだ生まれていない。

2014年9月14日 (日)

王の本領

2シーズンぶりにドルトムントに復帰した香川が復帰初戦で、1ゴールしてチームを勝利に導いた。2年前ドイツに行ったとき、街中のドイツ人はみな香川を知っていた。王者ドルトムントの不動のトップ下として君臨していた。

英国での雌伏の2シーズンを経て、未明のホーム/ジグナルイドゥナパルクで挨拶代わりのゴール。ブラームスとも鉄道とも関係がないが、勢いで記事にする。

2014年9月13日 (土)

橋崩落

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻の39ページに興味深い記述がある。クララの4女オイゲーニエの証言だ。

1882年9月のこと。13日クララの誕生日を祝うためイタリア・コモ湖畔ベラジオに仲間が集まった。クララとその娘たち、ブラームスと友人のビルロートだ。15日にはヴェニスで、リーズル夫妻に会う手はずになっていた。段取りの全貌は下記の通りと推定される。全員で15日までにヴェニスに入る予定。

  • 9月13日 全員でベラジオを船で出発。
  • およそ1時間でコモに到着。
  • コモから列車でミラノに移動して宿泊。
  • 9月14日 朝ミラノを列車で出発。
  • 同日中にヴェニスに到着。

現代の特急でミラノ-ヴェニス間は4時間まではかからない。当時としても朝出発なら、その日のうちにヴェニスに着くはずだ。

ところが、その年に限って9月13日から豪雨に見舞われた。あまりの豪雨にビルロートとブラームスは、翌日の合流を約束して出発を見合わせた。クララ母子は上記の予定通り出発し、無事ヴェニスに着いた。列車がヴェローナにさしかかる直前に、アディジェ川を橋で越える。ドイツ名エッチュ川というこの川が豪雨で増水していたものの何とか渡りきった。一行がヴェニスに入ると、たった今渡ってきた橋が、濁流に流されたというニュースが待っていた。

橋の崩落に巻き込まれた列車は無かったらしいが、クララたちを乗せた列車が巻き込まれる可能性だってあった。さらにブラームスたちが同じルートで後を追っていたら危なかった。

ブラームス一行は4日遅れてヴェニスに着く。橋の崩落による通行止めは何週間も続いたからだ。残念なことに迂回ルートは不明だ。

2014年9月12日 (金)

我が家の初乗車

ブラームスシューマンドヴォルザークについて、それぞれの鉄道初乗車を推定した。ついでに我が家の家族について試みる。伝記が書かれているはずもないので、記憶に頼るのだが、子どもたちについては私の書いた日記が手がかりになる。

  1. 父 生前に聞いておけばよかった。お手上げ。
  2. 妻 同上。
  3. 母 小学校に上がる前だから戦前。現在のJR京浜東北線を大井町から田町まで乗車。
  4. 私 1960年1月30日頃。生まれた病院から父の実家に戻るとき。都電7系統を古川橋から品川駅まで。路面電車を除くなら、同じ日に京浜東北線で品川駅から大井町駅まで、父に抱かれて乗車したはず。
  5. 長男 1992年9月13日。生後半年。JR総武線新検見川駅から船橋駅まで、お買い物のため乗車。
  6. 長女 1994年8月20日。生後8ヶ月。都営新宿線の菊川から馬喰横山まで。その後JR総武快速線に乗り換え外房線経由で東金まで。
  7. 次女 1996年4月20日。生後7ヶ月半。妻逝去後、妻の実家にしばらく預けられていたが、やっと我が家に戻る日。都営新宿線の菊川駅から神保町まで。そこから乗り換えて都営三田線で高島平駅まで。

伝記が残るような大作曲家だと調べようがあるのに対し、ずっと現代に近い父や妻でもお手上げだった。母の記憶も曖昧。それに引き替え我が家の子どもたちは日記と記憶で正確に特定出来る。世の中マイカーが普及し、生まれた病院からの退院は、自家用車になったのを筆頭に、少々の買い物や移動はマイカーになるから、私に比べると初乗車の年齢が高くなる。鉄道を使うのはそれ相応の条件が揃った時に限られるから、日記を丹念に読み返せば特定は容易だ。

おバカ?

2014年9月11日 (木)

三等の客

1895年9月11日、オーストリア・トラウン湖の北岸グムンデンにあるミラー・ツー・アイヒホルツ邸で、ハンスリック70歳を祝うパーティーがあった。グムンデンはイシュルの北およそ32kmの位置にある。

出席者は、ハンスリックを中心にミラー家のメンバーのほか、ブラームス、ヨアヒム、マンディチェフスキー、ホイベルガー、ゴルトマルク夫妻、エプシュタイン夫妻。同日の午後から集まって21時半にはお開き。

ブラームスとマンディチェフスキーはイシュルに引き返す。ホイベルガー夫妻はイシュルからさらに南13kmほどのところにあるシュテークまで帰る。どちらも名高いザルツカンマーグート線で、乗り換え無しだ。

ここで面白いことが起きる。ホイベルガー夫妻はシュテークまで二等の切符を用意してあったのに対し、ブラームスは三等の切符を持っていた。32kmしかないので三等で十分と判断したのだろう。それはそれでよいのだが、ブラームスはホイベルガー夫妻も三等で帰るように言い張った。根負けしたホイベルガーはしぶしぶ三等で帰ったという。音楽界の重鎮ブラームスが自ら三等を手配していたとは驚きだが、それを子分のホイベルガーに強要したのはあり得る話だ。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻141ページにある話。

2014年9月10日 (水)

ドヴォルザークの初乗車

鉄道マニアだったドヴォルザークが、初めて列車に乗ったのはいつのことか、伝記の記述を元に検証したい。

  1. 1851年 プラハからドイツ・ザクセンに抜ける路線が開通した。ドヴォルザークの生地ネラホセヴェスは、この幹線上でプラハの北30kmにある。10歳のドヴォルザークが鉄道を目撃したことだけは間違いが無い。
  2. 1853年 伯父のいるズロニツェに下宿。西に4時間。馬車で行くしかなかった。
  3. 1856年 北方ザクセンとの国境に近いチェスカカメニツェで肉屋の修行。デェチンの東数十キロの位置だが、当時は鉄道が通じていない。デェチンまで鉄道で行き馬車に乗り換えたかもしれない。
  4. 1859年 プラハのオルガン学校に入学。このときプラハまで鉄道を使った可能性がある。
  5. 1863年 ハンブルクに行く。いくらなんでもさすがにこれは鉄道だ。

ドヴォルザークの実家は貧しかったと伝えられている。当時の鉄道運賃が庶民には少々お高かったとも言われているから、万全を期するならば上記5が本命だが、少々のお金が工面できたなら、上記3も捨てがたい。あるいは、心情的には上記1の後、何らかの機会に乗車できた可能性も夢見ている。

2014年9月 9日 (火)

威容

次女の母校で、文化祭があった。学内の小さなホールでおよそ50分のコンサート。雨の中午前中のコンサートだというのに入場無料とはいえ、超満員の聴衆が集まった。補助椅子まではちきれんばかりの人々。

そこはあくまでも文化祭の一環だ。合唱部の演奏の後、10分の間に中央のピアノを片付け、ひな壇を設営し、土間に弦楽器奏者たちのイスを並べる。「テキパキ」「手際」などという言葉が物足りないほど、あっという間に音もなく整然と設営が進む。コンサートがこの設営から始まっている感じ。あまりの盛況にヴァイオリンの後方にまで臨時のパイプ椅子が並べられ、そこもまた満席。

大設営だというのに、時間通りにこともなげに生徒たちが入場する。これもまた音もなくなのだが、もう客席からは拍手が。

着席。

キビキビ感にあふれる司会のトーク。指揮者の入場と同時に、一糸乱れず全員が起立する。このとき「威容」という言葉を思い出した。ホールを埋め尽くす聴衆、割れんばかりの拍手の中、晴れやかな笑み。誇りに満ちた所作。一人ひとりは可憐な女生徒なのだが、全体として醸し出す雰囲気には「威容」という言葉が相応しい。

みな、うすうす気づいていまいか。このオケは世界最高の高校オケであることを。娘がここから巣立って半年、既に娘はこの中にはいない。だからこそ「親バカ」の謗りを恐れることなく断言することが出来る。我々は、高校の文化祭で、世界最高の高校オケに身近に接することが出来る。まずそのことの幸せをかみ締めるステージだった。聴衆一人ひとりにそのことを説いて回りたい気分になった。

エンディングのリスト「前奏曲」で1ヵ月後のコンクールに挑む。弦楽器を初心者から始めた子どもたちの、上達振りを見て何の心配もいらぬと確信した。そんなことより、その前のカヴァレリアルスティカーナ「間奏曲」の、別格感が頼もしい。テクニックがなんだコンクールがなんだという、風格さえにじみ出ていた。コントラバスにピチカート2個の合図を送る指揮者、場の空気をキッチリとクリップするかのような、意思にあふれたコントラバスの真心、あたりを打ち鎮めるオーボエの威厳。一瞬で奥行きを作り出すハープ。出番なく休み続けるメンバーたちの凛とした姿勢。こちら側の背筋がピンと伸びるような乙女たちの威容だった。

このオケの歩みをあと8ヶ月間、見守ることが出来る。

2014年9月 8日 (月)

ネラホセヴェス

ベルリンからドレスデンを経てプラハ、やがてウィーンへと走る特急列車「ヨハネス・ブラームス」号がウスティ・ナド・ラベム駅を16時19分に出発する。そこからおよそ30分プラハ駅とのほぼ中間点にあるのが無人駅ネラホセヴェスだ。ヨハネス・ブラームス号はもちろん通過する。スメタナの交響詩で有名なモルダウ川とエルベ川の合流点も近いその無人駅の至近にアントニン・ドヴォルザークの生家がある。生まれてから13歳までを過ごした家だ。

後年ドヴォルザークは鉄道を愛した。生家が駅前にあるという環境が少なからぬ影響を与えたと感じる。

プラハとウィーンの間を往復するアントニン・ドヴォルザーク号はネラホセヴェスを通ることは無いのは残念だ。ドレスデン発にしてネラホセヴェスに停車させるくらいの粋な計らいを期待したところだ。

2014年9月 7日 (日)

プラハ発ウィーン行き

チェコの首都プラハとウィーンを結ぶ路線は、列車の愛称という観点から見て、お宝のヤマになっている。トーマスクック社刊行の「ヨーロッパ列車時刻表2011年春版」から拾い上げてみる。

  • 04時39分発 グスタフ・マーラー号
  • 06時39分発 スメタナ号
  • 08時39分発 フランツ・シューベルト号
  • 10時39分発 アントニン・ドヴォルザーク号
  • 14時39分発 グスタフ・クリムト号
  • 17時39分発 ヨハネス・ブラームス号

どれも所要時間5時間16分でウィーン・ノイシュタット駅に着く。何故かヨハネス・ブラームス号だけがベルリン始発で、ウィーン・プラーターシュテルン駅着になっている上に、所要時間も4時間26分になっている。是が非でもこれに乗りたいところだが、景色を眺めるならシューベルト号かドヴォルザーク号がいいような気がする。

並み居る大作曲家に混じって、14時39分発グスタフ・クリムト号が異彩を放つ。食堂車でビールを注文すると、グスタフ・クリムト号専用のオリジナルコースターがもれなく付いてくるくらいのサービスを期待してしまう。

2014年9月 6日 (土)

さすがの伝記

ドヴォルザークの鉄道好きは名高い。カレル・ブリアンという人が書いた「ドヴォルザークの生涯」という伝記には、鉄道関連の話が盛りだくさんだ。あんまり楽しくて信用出来ないレベルだ。

ドヴォルザークが1878年12月12日にウィーンに赴いてブラームスとの初対面が実現した話もその一例だ。19時45分という到着時刻が律儀に記述されている。以下に驚くばかりの内容を箇条書きにする。

  1. ウィーンまで客車を牽引した機関車の名前が「レンツ」だった。
  2. 「レンツ」の機関士はクロサーネク氏。
  3. ウィーン駅にブラームスが出迎えに来ていた。
  4. ブラームスに機関士のクロサーネク氏を紹介した。
  5. 機関車「レンツ」の性能と車番をブラームスに説明した。
  6. 帰路、ウィーンからブルノに向かう列車を引いたのが45トン4軸のボルジヒ製。
  7. それはシレジア産の最良の鉄を使った最新鋭機関車。
  8. ボルジヒ480号列車だとも記述がある。
  9. 帰路ブルノに出迎えたヤナーチェクにも機関車の薀蓄を語った。

1880年2月に今度はブラームスがプラハにドヴォルザークを尋ねる。このときにも以下のような記述がある。

  1. プラハ駅までドヴォルザークが迎えに出た。
  2. そこでまた機関車について薀蓄を披露する。
  3. ドヴォルザークは「もし新型機関車が手に入るなら、交響曲全部を投げ出してもいい」という。
  4. ブラームスは「世間の人がこの走るかまどをみな忘れてしまっても、君の交響曲は演奏され続ける」と返す。

ドヴォルザークの鉄道への興味を余すところ無く伝えてくれている。話がリアル過ぎて信じられないくらいだ。特にこの伝記作者のブラームスへの敬意は主人公のドヴォルザークを脇に押しやるレベルだ。2人のからむ場面の描写は本当に興味深い。

2014年9月 5日 (金)

クララの旅路

ロベルト・シューマン没後最初のシーズン1854年秋のクララの演奏会スケジュールを以下に示す。

  1. 10月16日 ハノーファー 宮廷演奏会
  2. 10月19日 ライプチヒ ゲヴァントハウス
  3. 10月23日 ライプチヒ ゲヴァントハウス
  4. 10月25日 ワイマール リストと共演
  5. 11月03日 フランクフルト・アム・マイン
  6. 11月04日 フランクフルト・アム・マイン
  7. 11月13日 ハンブルク フィルハーモニーとの共演
  8. 11月15日 ハンブルク・アルトナ
  9. 11月16日 ハンブルク
  10. 11月18日 リューベック
  11. 11月21日 ブレーメン
  12. 11月23日 ベルリン
  13. 11月29日 ブレスラウ
  14. 12月01日 ブレスラウ
  15. 12月04日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  16. 12月07日 フランクフルト・アム・オーデル
  17. 12月10日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  18. 12月16日 ベルリン ヨアヒムとジョイント 
  19. 12月20日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  20. 12月21日 ライプチヒ ヨアヒムとジョイント

手元に1850年のドイツ鉄道地図があるから、それを元に上記のツアーを検証する。

  • (1)ハノーファー→ライプチヒ リストの鉄道敷設計画案の中に、ハノーファー-ライプチヒ-ドレスデンの線が存在した。つまりそれほどの幹線。移動日1日で十分だから、中3日は余裕だ。ハノーファーの演奏会の翌日を移動にあてて、21日22日をリハーサルに出来る。
  • (2)ライプチヒ→ワイマール 1850年の段階でワイマールには鉄道が敷かれていない。ライプチヒからならエアフルトまで鉄道で、そこから馬車かもしれない。鉄道があれば半日で十分だ。ワイマールへの鉄道が1854年までに開通していればOKだ。万が一鉄道が無かったとなると23日にライプチヒで演奏会を開いて、中1日でワイマールというのは、リハーサルも考えると厳しい。逆にクララのこうした日程こそが、鉄道が開通済みだった証拠になるかもしれない。
  • (3)ワイマール→フランクフルト 上記(2)に示したとおり、ワイマールには鉄道が敷かれていない前提とすると、エアフルトまで馬車で戻って鉄道に乗って、ギーシェンまで行く。そこからまた馬車で行くしかない。2日かかるだろう。しかしながらここは中8日あるので余裕。
  • (4)フランクフルト→ハンブルク 1850年の鉄道網では意外と難しい。ケルンかボンまでライン川を船で下り、そこから鉄道だ。ハノーファーで乗り換えてハンブルクに、が現実的だと思う。乗り継ぎによっては2日でも厳しい。しかし演奏会も中8日空くので大丈夫。
  • (5)ハンブルク→アルトナ アルトナは現在ではハンブルク市。移動は余裕だ。宿泊場所をハンブルク市内に固定しておいて馬車移動で十分。
  • (6)ハンブルク→リューベック リューベックはハンブルクから近いが1850年当時鉄道は開通していない。馬車か運河を走る船ということになる。リハーサルを考えると中1日は厳しい。
  • (7)リューベック→ブレーメン 一旦ハンブルクまで戻るのは必須。そこから鉄道か馬車かは迷うところ。直線的に行くなら馬車だ。移動に丸々1日が必要。中3日はギリギリか。
  • (8)ブレーメン→ベルリン ハノーファーを経由してベルリンに一直線。距離はあるけれども特急なら1日で十分だが、演奏会が中1日だ。ブレーメンの演奏会の翌日を移動に当ててギリギリとなる。まさか当夜発の夜行ではあるまいな。
  • (9)ベルリン→ブレスラウ ブレスワウは現ポーランド領だけれど1850年の段階で鉄道が開通している。中5日空くので余裕だが、帰路は中2日なでの要注意。
  • (10)ベルリン→フランクフルト・アム・オーデル ここにも既に鉄道が開通していて往路複路とも中2日あるから大丈夫。
  • (11)ベルリン→ライプチヒ 当然既に鉄道は完成している。移動は半日あれば十分だが、ベルリンの翌日すぐにライプチヒ公演なので油断出来ない。

クララは与えられた鉄道網の機能の範囲内でギリギリのツアーをこなしている印象だ。それでも相当な苦行に違いあるまい。ただの旅行ではなく、行く先々で演奏せねばならぬのだ。

  • 2014年9月 4日 (木)

    株主ブラームス

    記事「投資家クララ」で、クララがブラームスに株や債券への投資を持ちかけたと書いた。銀行家のアドヴァイスを得ながら実際に買われたらしい。投資を持ちかけた手紙から1年と少々を経た1868年6月30日の手紙からその詳細がわかる。

    購入はクララの分と一括で、クララが代金を立て替えたと思われる。クララの手元で保管されていた債券や株券をブラームスに送るという文面になっている。

    その送った株券の銘柄が、「ライン鉄道」(Rheinbahn)だった。つまりブラームスは鉄道会社の株主になっていたのだ。ライン鉄道とはどこだろう。現代断り無く「ラインバーン」と申せばデュッセルドルフ市電の経営母体を指すのだが、当時は存在しなかった。ブラームスが株を取得したのは、「Nassauische Rheinbahn」で間違いあるまい。

    ライン川沿いにコブレンツとウイースバーデンを結ぶ路線で、現在のライン右岸線だ。2012年春に次女のドイツ公演に同行した折、保護者ツアーの一行は、ボンからローテンブルクにバス移動した。そのときアウトバーンでショートカットせずにライン川右岸を走った。その間つかず離れず併走していた路線こそが、ラインバーンだった。

    万が一フランスとの戦争に敗れれば、あたり一帯はフランスに割譲されかねない地域だから、クララが万が一を心配するのも無理からぬ話だ。

  • 2014年9月 3日 (水)

    投資家クララ

    ブラームスが音楽家として独り立ちし、そこそこの報酬を得るようになった頃から、資産の運用についてクララ・シューマンから助言を受けている。

    その周辺の事情を調べていて興味深い話にたどり着いた。

    1867年4月26日に、クララがデュッセルドルフからブラームス宛に出した手紙だ。その年の2月から続いたクララの英国公演の報酬が思いがけない金額になったので、銀行に相談したとある。一緒に株か債券を買いませんかとブラームスに持ちかけている。

    そうした文脈の中で、クララは鉄道株を買いたいと明記している。しかし「もしもフランスとの戦争になればリスクを伴う」とも付け加えている。

    手紙が書かれた1867年と言えば普墺戦争は終わっている。ドイツ統一の妨げとなるオーストリアは退けたものの、ビスマルクの野望の前にはフランスが立ちはだかっている情勢だ。ドイツには統一の達成のために、いずれはフランスとの戦争は避けられないという風潮があった。クララはこの風潮を踏まえて鉄道株のリスクを分析しているということだ。

    クララが購入を狙っている鉄道株は、フランスとの戦争になれば値下がりすると踏んでいることがわかる。つまり西部国境付近の鉄道会社の株に違いない。

    2014年9月 2日 (火)

    王の帰還

    ドイツブンデスリーガ夏の移籍期限ギリギリになって、日本代表MF香川真司のドルトムント復帰が決まった。2年前ブンデスリーガ2連覇を置き土産に、英国プレミアリーグのマンチェスターユナイテッドに移籍した。

    思えば2年前次女たちオケのドイツ公演を追いかけた際、駅やパブなど街中のドイツ人たちは、みな香川を知っていた。知っているだけではなくドイツ最高のMFだと認識していた。今でこそ全盛時代を謳歌するバイエルンミュンヘンだが、香川在籍当時はドルトムントに歯が立たなかった。

    この先どんな展開になろうとも彼はドイツの王。新たな背番号は「7」。

    2014年9月 1日 (月)

    ブラームスのゼメリンク

    記事「クララのゼメリンク」で、クララがゼメリンク峠の絶景を手紙でブラームスに紹介した時点で、ブラームスはまだその区間を通ったことがないと推定した。

    はたしてブラームスの初ゼメリンクはいつだろうと調べていたら、あっさりと候補が見つかった。

    ブラームスがこの手紙を受け取ったのが1866年4月だ。ブラームスは、その次のシーズン1867年2月にグラーツでの演奏会を開いている。クララが絶賛するゼメリンク峠の絶景をこのとき初めて堪能したものと思われる。

    てゆうか、タイミングが良すぎ。

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      はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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