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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2014年10月31日 (金)

神様がくれた10月

大抵の地域で、10月には神様がいない。けれどもこの10月、私の隣にはずっと神様がついてくれていた。

まず、仕事。ちょっとしたプロジェクトで一定の成果が確定した。地味に嬉しい。それから家族のこと。近い親戚に体調を崩した者が2人いた。心配したがどちらも無事退院。

次女たち後輩のオケは、コンクール千葉県予選を突破し、全国大会で演奏を披露した。おかげさまで金賞と、福島県教育長賞を獲得した。彼女たち独特のトーンで張りつめたコンクールをコンサートに変えてくれた。

乙女らを追いかけて保護者の一部が観光バスを仕立てて福島県まで応援に出かけた。諦めかけたバス移動だったが、ささやかな奇跡が立て続けに起きて復活した。乗り越え甲斐のある課題を片付けて行く中からかけがえのないチームワークが生まれた。

とてもとても大切な再来年のドイツ公演も話の進展を見た。地味にすごい。

公私共に多忙を極めた。他にもここには書けないさまざまなハプニングが目白押しだったのだが、結果は全て吉。代償は、ブログの記事をほとんど思いつかなかったことくらい。

何かに導かれてとしか思えないとき、古来、人はそれを神様のせいにする。

だから「神様のくれた10月」。この記事はそれを一生記憶するために書いた。

2014年10月30日 (木)

最短の駅名

日本では「津」で決まりなのだが、ドイツではどうなっているかという話。「津」はローマ字標記では「Tsu」の3文字で「宇佐」「由宇」に並ばれてしまう等々、話題も多い。

ドイツでは「Au」が最短だが、面白いことに下記の4箇所ある。近在の街の名前を後ろに付けて区別されているので、その街のアルファベット順に列挙する。

  1. Hallertau ミュンヘンの北北東48km。惜しいことに廃駅だ。「ハラタウ地方のアウ」なのだが、このハラタウ地方は世界一のホップの産地で、ここアウには名高い醸造所がある。
  2. Illertissen ウルムの南南東18km。貨物専用駅。すぐ南のイレルティッセンはこれまた名高い醸造所がある。イレル川沿い。
  3. Murgtal バーデンバーデンの西16km。ムルク川の峡谷沿い。
  4. Sieg ボンの東北東43km。ジーク川の峡谷沿い。

全部峡谷にある。「Au」は「水辺」を表す地名語尾にもなっているから、これらの立地にあう。

ついでにオーストリアにも一箇所「Au駅」がある。ブラームスゆかりのグムンデンの北東12kmでこれもラウダッハ川沿い。オーストリアには2文字の駅がもう一つ。「In」駅だ。地図上では「In der Bruck」になているけれど、「der Bruck」は区別のための付与なので事実上「In」駅となる。

どれも幹線とは言いがたい。ブラームスがとても立ち寄っていそうにないところが課題だ。

2014年10月29日 (水)

ある旅行

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻92ページからしばらく、興味深い記述が続く。1876年2月25日から28日までのハードシュケジュールが明らかになる。記述したのは友人のヘンシェルだ。

  1. 2月24日夜 コブレンツ。公開ゲネプロ。そこでブラームスはシューマンのピアノ協奏曲のソロを弾いた。
  2. 2月25日午前 練習。
  3. 2月25日昼 地元名士の家で宴会同然の昼食会。
  4. 2月25日夜 同じくコブレンツで、演奏会。
  5. 2月25日夜 その後宴会。
  6. 2月26日 列車でヴィースバーデンに移動。
  7. 2月26日 ヴィースバーデンに到着。すぐリハーサル。今度はブラームス自身のニ短調ピアノ協奏曲だ。
  8. 2月26日夜 演奏会。
  9. 2月26日夜 地元名士の家で宴会。
  10. 2月27日午前 ヴィースバーデンの貴族の館で室内楽の演奏会。ピアノ四重奏曲第3番他。
  11. 2月27日午後 別の貴族の館を訪問。
  12. 2月27日夜 某作曲家を訪問。
  13. 2月27日夜 列車でフランフルトに移動。定宿に投宿。
  14. 2月28日早朝 ヘンシシェルはベルリンに向かうがブラームスはウィーンに向けて列車で出発。
  15. 2月28日夜 ヘンシェルは日付の変わる前にベルリンに戻って日記を書く。

以上だ。赤文字で示したところが列車による移動。コブレンツからフランクフルトまでゆっくりと演奏会をこなしながらライン川に沿って遡る。ルートは効率的だが、日程はぎっしりだ。

2月26日は移動当日にリハーサルと本番をこなしている。コブレンツとヴィースバーデンは半日の距離とは言え、万が一列車事故にでも遭遇すれば、ぶっつけ本番になるハズだ。さらにこの路線は現代のライン右岸線で、当時Rheinbahnと呼ばれており、ブラームスはこの会社の株主だったことがある。売ってなければ株主優待があったかもしれない。

2月28日早朝にベルリンおよびウィーンに向けて出発するために、便のいいフランクフルトに夜のうちに移動しているのがわかる。

一般の伝記を列車移動の観点から読み直すと、いろいろ発見があって面白い。

2014年10月28日 (火)

当日移動

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻209ページに興味深い記述がある。ブラームスの弟子イェンナーの証言だ。

1887年12月にイェンナーが初めてブラームスに会ったときの話である。イェンナーはその夜ベルリンでヨアヒム主催の「カルテットの夕べ」を聴いた。

注目すべきことに、その演奏会の後、ライプチヒに移動して、夜遅くにホテルに着いたとある。ホテルの宿泊人名簿に「ブラームス」の名前があり、翌朝早くに面会している。

ベルリンからライプチヒまでは、現代ならICEで1時間20分程度だ。「カルテットの夕べ」と銘打ってある以上、開演は夕方以降であることは確実だ。夜行列車ではないものの、夜の列車を利用して当日中にライプチヒに入っている。

2014年10月27日 (月)

応援ツアー

高校野球の全国大会。甲子園に出場が決まれば、それを応援に出かけるという文化が根付いている。かなり遠くから大型バスを連ねてというケースは珍しくはない。勝ち進んで滞在が長引き、懐具合が心配されることも多いが、このケースでは基本お金は後からついてくるようだ。

次女の後輩たちが全国大会にコマを進めた。野球で言えば甲子園なので、大型バスの隊列でも組んで、現地に乗り込めばそれなりに気合が入るのだが、野球の9イニングと違って、彼女らの出番はたったの9分だ。保護者、OG、生徒が大挙してというわけには参らぬが、バスを仕立てての応援ツアーが企画された。

出演する1,2年生の親中心なのだが、私も1泊2日でツアーに参加した。2年前次女を応援するために訪れたのと同じ、福島県郡山市だ。

20名の保護者がバスでわいわいと応援に向かった。演奏後温泉宿に投宿して、遅い夕食後、ささやかな酒宴。子どもたちの演奏を肴に懇談が深夜にまで及んだ。今の2年生は1年生のときにドイツを経験しているから、こうした遠征の機会はまことに貴重だ。これで保護者のつながりもぐっと深まる。

ここから5月のスペシャルコンサートに向かって、長い長い坂道を登るための足がかりが出来た。

2014年10月26日 (日)

長距離列車

1867年2月26日ロンドン、クララからブラームスに宛てた手紙の中に、英国での公演ツアーの日程が厳しいことを伝えている部分がある。

3日連続で演奏会が組まれていたりするので、毎日5~6時間も列車で移動せねばならないと言っている。ヨアヒムのスケジュールはもっと厳しいとも伝えている。

当地では演奏会が金儲けの手段になっているばかりか、夜にはパーティーにあるので、余計に体力を消耗すると嘆いている。それでも演奏の質を落すのはプライドが許さないから、ギリギリのところで折り合っている。

鉄道で行動範囲が広がったのは事実ながら、かえって日程がハードになってしまったというのが実情らしい。

2014年10月25日 (土)

演奏旅行と鉄道

第4交響曲は1885年10月25日にマイニンゲンで初演された。同地の宮廷管弦楽団をブラームスが振った。その後11月25日のヴィースバーデンまでの一ヶ月が初演月間とも言うべき下記の通りの状況。

  1. 1885年10月25日 マイニンゲン
  2. 1885年11月01日 マイニンゲン
  3. 1885年11月03日 フランクフルト
  4. 1885年11月06日 エッセン
  5. 1885年11月08日 ブッパータール-エルバーフェルト
  6. 1885年11月11日 ユトレヒト
  7. 1885年11月13日 アムステルダム
  8. 1885年11月14日 デンハーグ
  9. 1885年11月21日 クレーフェルト
  10. 1885年11月23日 ケルン
  11. 1885年11月25日 ヴィースバーデン
  • これを鉄道路線との関わりから眺めてみる。
    1. マイニンゲン→フランクフルト およそ70km南のシュヴァインフルトからヴュルツブルクを経由してフランクフルトに入ったものと思われる。総延長160km程度。当時も今もマイニンゲンは中核都市とまでは言えない。乗り継ぎもいれると一日はかかる。だから11月2日は移動日に当てられていたはず。1日の演奏会の打ち上げで飲みすぎた場合でも、寝坊は許されなかったと見る。
    2. フランクフルト→エッセン およそ200km。エッセンはルール工業地帯の中心都市だから、このルートは当時から大動脈だったハズ。あるいは乗り換えなしでという幸運もありえた。うまくいけば4日午後からの移動で4日中にはエッセン入り出来たかも。
    3. エッセン→ヴッパータール これは近い。南西に25km。急行に乗る必要もなかっただろう。移動には半日を見れば十分。演奏会が中1日になっているのは合理的。
    4. ヴッパータール→ユトレヒト ユトレヒトはオランダ。ヴッパータールから西に30km程のデュッセルドルフに出る。そこからユトレヒトまでおそらく直行便があったハズ。現代の特急なら2時間程度の距離。総延長約150kmくらい。丸一日で十分。
    5. ユトレヒト→アムステルダム 距離40km。現代なら30分くらい。11月12日が移動日になっているので楽な日程だろう。
    6. アムステルダム→デンハーグ 距離63km。現代なら45分。しかし移動日なしの公演だから、油断は禁物。現代ならアムステルダムの演奏会場からデンハーグのホテルへバス移動かもしれない。
    7. デンハーグ→クレーフェルト ドイツに戻る。まずはアムステルダムに45分かけて戻る。アムステルダムからドイツのデュイスブルクまではおそらく直行便がある。現代ならおよそ2時間。150km少々。デュイスブルクから南西に25kmでクレーフェルトに着く。一日かければOKだ。ここは公演が一週間空くので楽だ。
    8. クレーフェルト→ケルン ノイスやドルマーゲンを経由するライン西岸のショートカットが当時あったかどうかは別として、デュッセルドルフ経由になったとしても40km程度なので11月22日を移動日に当てることで問題は無さそう。
    9. ケルン→ヴィースバーデン およそ120kmライン川沿いを走る景勝コース。11月24日を移動日とすることでOK。ライン川を船でという風流な手もある。

    注意しておきたいことは4つ。まずこれらの日程は、鉄道利用を前提としない限り、物理的に成立し得ない。

    2つ目。このツアーはブラームスがひとり移動して現地のオケを指揮したのではない。ビューローを含むマイニンゲンの宮廷楽団を帯同していたのだ。おそらく100人前後のメンバーが大挙移動したのである。アウトバーンが完備している現代なら大型バスも考えられるが、当時は間違いなく鉄道だ。数十kmの移動でも、大所帯となるとそれなりの苦労があると思わねばならない。

    3つ目は楽器。第4交響曲に登場する楽器のうち、チェロはともかくコントラバス、ティンパニの運搬はどうしていたのだろう。あるいは、移動先で調達したのだろうか。

    4つ目は、ゲネプロ。これらの諸公演でゲネプロはどうしていたのだろう。前日のゲネプロともなると上記スケジュールのうちいくつかは厳しい日程になる。気心知れたマイニンゲン宮廷楽団だから、最悪ステリハのみでOKという希望的観測。

    2014年10月24日 (金)

    Deutsch ossig

    「Deutsch ossig」はれっきとした地名。ドイツとポーランドの国境の街ゲーリッツ(Goritz)の南およそ10kmにある小さな町。20世紀末まで亜炭の採掘場があったが、今は閉鎖されており、街もさびれてしまい、行政上はゲーリッツに組み入れられたという。

    地名前段の「Deutsch」は文字通り「ドイツ」だ。「ossig」は辞書には無い。「ossi」なら出ている。「東の人々」だ。西側から見て旧東ドイツの人々を指す言い回しだ。若干の上から目線も感じられる。そこに形容詞語尾「~ig」が添えられた形に見える。当地の方言に別な意味があるかもしれないが電子辞書ではお手上げ。

    ゲーリッツから南に鉄道線が伸びる。2つめの駅が昔、「Deutsch ossig」だった。今は閉鎖されている。実はこの駅は先のゲーリッツ駅より東に位置する。つまり第二次大戦を経て、現代のドイツーポーランド国境が確定して以来、廃止されるまでドイツの最東端の駅だった。そのことが命名に反映してはいまいか。「ossig」に「ost」の最上級の意味があれば、駅名は「ドイツ最東端」となり、実情と一致する。

    現代でこそドイツとポーランドの国境なのだが、第二次大戦までは、川向うの現ポーランド領までドイツの領土だったから、必ずしも国境の街ではなかった。だから命名は戦後だ。

    2014年10月23日 (木)

    四隅の駅

    現在のドイツ鉄道における東西南北それぞれの限界の話。日本の駅の北限は稚内である。南限は沖縄にモノレールが出来たおかげで大きく南下したという。

    • 東 Gorlitz(oはウムラウト)駅。ドレスデンの東およそ50km。ポーランド国境のナイセ河畔の町。
    • 西 Birkden駅。アーヘンの北およそ50km。総延長10kmほどの観光鉄道の終着駅。オランダとの国境まで10km足らず。
    • 南 Fellhorn山頂駅。ミュンヘンの南西およそ100kmオーベルスドルフから南へ7kmFaistenoyから標高2028mのFellhorn山頂へのロープウエイの終着駅。もしもロープウエイの駅を除外するならオーベルスドルフ駅が最南端になる。
    • 北 Westerland駅。ユトランド半島西側の付け根に横たわるジルト島の中心。

    ブラームスは上記のどこにも降りたことは無いと思われる。

    2014年10月22日 (水)

    オーストリア初の電車

    1883年10月22日、ウィーンの南南西15kmにある街メートリンク(Modling)からクラウセン(Klausen)まで鉄道が開通した。やがてヒンターブリュール(Hinterbruhl)まで延長されることになるこの路線を、オーストリア初の電車が走った。世界初ドイツ初だったベルリンに遅れること2年だ。さらに、線路上に架線を張って、パンタグラフで集電する方式としては世界初の快挙だ。

    ブログ「ブラームスの辞書」としては、この鉄道にブラームスが乗車したかどうかが気になる。あるいは知っていたかどうか。

    起点になったメートリンクは、ブラームスが友人と連れ立ってしばしばハイキングに訪れた土地だ。そこに新しい鉄道が走っていたら、それに気づかぬはずはないと思う。終点のヒンターブリュールには、欧州最大の地底湖がある。石膏の採掘場に水がたまってできたもので、その発見は1912年だから、ブラームスは知る由も無い。

    有力な情報が別にあった。同路線の建設にあたり車両を含む電気設備一式を請け負ったのが、ジーメンス社だった。ベルリンに世界初の電車を走らせた会社で、現代まで続く大企業だ。当時の社名をジーメンスウントハルスケ社という。当然工事を請け負ったのは同社のウィーン支社ということになるのだが、当時支社長はリヒャルト・フェリンガーという人物。1879年に着任し、1881年からブラームスと親交があった。いくつかの室内楽がフェリンガーの屋敷で私的に初演されている。1883年10月22日のオーストリア初の電車の開業をフェリンガーが話題にしたと睨んでいる。

    さらにオタクな妄想を広げる。1883年10月4日深夜に、オリエント急行の一番列車がウィーンに着いた。同じ頃ドヴォルザークがウイーンを訪問し第3交響曲をピアノで聞かせたというのだが、このときにオーストリア初の電車についてドヴォルザークと話題になってはせぬかと勘繰っている。

    残念なことに同線は1932年に廃止され、線路も撤去されている。

    2014年10月21日 (火)

    モーツアルトの東西南北

    ブラームスとバッハの生涯における活動範囲を比較した。短い生涯を旅に明け暮れたモーツアルトを調べてみた。カッコ内はブラームス。

    • 東限 ウィーン (ティミショアラ)
    • 西限 ロンドン (デンハーグ)
    • 南限 ナポリ  (シラクサ)
    • 北限 ベルリン (コペンハーゲン)

    西限だけがブラームスより西にある。意外なことにその行動範囲はブラームスより狭いなどと言ってはいけない。彼らの生涯は百年を隔てている。まったく鉄道がなかったモーツアルトは当時としては広大な範囲だと申さねばならない。貴族のパトロン探しに躍起になっていたモーツアルトは職を求めて欧州の宮廷都市を転々としていたということだ。

    2014年10月20日 (月)

    バッハの東西南北

    記事「東西南北」でブラームスの行動範囲を考えた。同じことをバッハで試みる。

    • 東 ベルリン 晩年、フリードリヒ大王とサンスーシで。
    • 西 ゲッティンゲン
    • 南 オールドルフ 両親を無くして兄に引き取られた。
    • 北 ハンブルク リューネブルク修行時代に訪れたらしい。

    Cocolog_oekaki_2011_05_08_09_16

    バッハの時代、移動手段は馬車か徒歩だ。既に鉄道時代だった19世紀後半を生きたブラームスとは比較にならないなどと言っている場合ではなかった。ブラームスは19世紀時代人にしていは狭いほう。14歳年上のクララは、モスクワや英国、そしてフランスにも行っている。ドヴォルザークやマーラーはアメリカにも足を伸ばしている。

    さてさてバッハ。単に領域が狭いだけではない。その移動範囲はプロテスタントの地域にとどまっている。

    2014年10月19日 (日)

    東西南北

    生前のブラームスの行動範囲の話。グリークから誘われたノルウェー訪問が実現していないから、ブラームスの旅先の北限は、おそらくデンマークの首都コペンハーゲンだ。北緯55度40分。英京ロンドンは、緯度で申せばベルリンと同じくらいであまり北ではない。

    西は、微妙。何度か演奏会で訪れたオランダの王都デン・ハーグ。東経4度くらい。ベルギーのアントワープと微妙なところだ。フランスに出かけていないからこれも致し方ない。

    南になるとイタリアが俄然浮上する。おそらくシチリア島南端のシラクサ北緯37度が南限になる。

    東は難しい。1879年にヨアヒムと連れ立ってトランシルヴァニア地方に演奏旅行に出かけているが、訪問した都市がわからない。トランシルヴァニア地方の中心都市はルーマニア第4の都市ティミショアラだ。東経21度少々だ。トランシルヴァニア地方の西の端に位置するので、他の街を訪れていればそれだけ東に遷移する。現ロシアのカリーニングラードよりも東になるから、ひとまずトランシルヴァニアのどこかが東限と考える。

    シシリア以外は鉄道を使ったと見て間違いあるまい。

    2014年10月18日 (土)

    駅の序列

    現代のドイツの駅は、その機能によって7段階に分類されている。幹線同士の乗換駅等、重要なハブ駅が「カテゴリー1」とされ下記の通り20駅がこれに属する。

    1. ベルリン・ゲスンドブルンネン
    2. ベルリン中央
    3. ベルリン東
    4. ベルリン:スードクロイツ
    5. ドルトムント中央
    6. ドレスデン中央
    7. デュッセルドルフ中央
    8. エッセン中央
    9. フランクフルト中央
    10. ハンブルク・アルトナ
    11. ハンブルク中央
    12. ハノーファー中央
    13. カールスルーエ中央
    14. ケルン中央
    15. ケルン・メッセドイツ
    16. ライプチヒ中央
    17. ミュンヘン中央
    18. ミュンヘン東
    19. ニュルンベルク中央
    20. シュトゥットガルト中央

    2012年のドイツ旅行で息子と立ち寄った駅は赤文字にしておいた。もちろんツアーの正規のルートに駅なんぞ入っていないが、無理やり時間を工面して街々で駅に出かけたから、カテゴリー1の駅に3つも立ち入ることが出来た。初日に泊まったレヴァークーゼンで朝の散歩に出かけたレヴァークーゼンミッテ駅は、おそらくカテゴリー3か4だ。カテゴリー3はICEが停車する下限だ。ローテンブルク駅にも朝出かけたが、こちらはカテゴリー4か5だろう。

    ニュルンベルクでの半日の自由時間に、ICEに乗車したい一心で無理やり出かけたレーゲンスブルクはカテゴリー2だった。最終日早朝に無理やりでかけたフュルト駅もカテゴリー2だった。おかげでカテゴリー1と2の違いを体感できた。

    ブラームスの時代にこんな区分はなかったと思われるが、演奏旅行で下車した駅となると、おそらくカテゴリー3までで、4が若干混じる程度だろう。

    2014年10月17日 (金)

    証拠のリスト

    ドイツ語圏における「hauptbahnhof」(中央駅)のリスト化を試みる。トーマスクックの時刻表で「hbf」と記載されている駅全てを拾い上げたが、同時刻表には全ての駅が網羅されていないことも事実。しかし国外からの旅行者が立ち寄りそうな主要駅は、ほとんど載っているから、ここに載っていない中央駅はなさそう。ドイツが緑文字、オーストリアが青文字で、赤文字はウムラウト。

    • Aachen 
    • Amstadt 
    • Aschaffenberg
    • Augsburg 
    • Bayreuth ワグネリアンにはおなじみ。
    • Berlin ドイツの首都。
    • Bielefeld
    • Bingen
    • Bochum
    • Bonn 旧西ドイツの首都。
    • Brandenburg
    • Braunschweig
    • Bremen 直轄市。
    • Bremerhaven 直轄市扱い。
    • Chemnitz
    • Darmstadt
    • Deggendorf
    • Dessau
    • Dobeln
    • Dortmund
    • Dresden ザクセン州都。
    • Duisburg
    • Dusseldorf ノルトラインウェストファーレン州都。

    119

    • Eberswalde
    • Emden
    • Erfurt テューリンゲン州都。
    • Essen
    • Freiburg
    • Freudenstadt
    • Frnkfurt.a.m
    • Furth

    532

    • Gelsenkirchen
    • Graz 
    • Gutersloh
    • Hagen
    • Halle
    • Hamburg 直轄市。
    • Hanau
    • Hannover ニーダーザクセン州都。
    • Heidelberg
    • Heilbronn
    • Hof
    • Honbrug
    • Hildesheim
    • Ingolstadt
    • Innsbruck 
    • Karlsruhe
    • Kassel
    • Kaysereslautern
    • Kempten
    • Kiel シュレスヴィヒホルシュタイン州都。
    • Koblenz
    • Koln

    097

    • Kragenfurt 
    • Krefeld
    • Landau
    • Lanshut
    • Leipzig
    • Leoben 
    • Lindau
    • Linz 
    • Lubeck
    • Ludwigshaven
    • Magdeburg ザクセンアンハルト州都
    • Mainz ラインラントプファルツ州都。
    • Mannheim
    • Monchengladbach
    • Muhlheim
    • Munchen バイエルン州都。
    • Munster
    • Naumburg
    • Neuss
    • Neustadt
    • Neustrelitz
    • Nurnberg

    286

    • Obernhausen
    • Offenbach
    • Osnabruck
    • Paderborn
    • Passau
    • Pforzheim
    • Pirmasens
    • Potsdam ブランデンブルク州都。
    • Reckinghausen
    • Regensburg

    500

    • Reutlingen
    • Reydt
    • Rostock
    • Saarbrucken ザールラント州都。
    • Saarlouis
    • Salzburg 
    • Schweinfurt
    • Schwerin メクレンブルクフォルポムメルン州都。
    • Sinsheim
    • Solingen 刃物の街。
    • Sonneberg
    • Speyer
    • Stuttgart バーデンビュルテンベルク州都。
    • St Polten 
    • Thale
    • Trier
    • Tubingen
    • Ulm
    • Villach 
    • Wannne-Eickel
    • Wels
    • Wien
    • Wienner Neustadt 
    • Wiesbaden ヘッセン州都。
    • Witten
    • Wittlicn
    • Worgl 
    • Worms
    • Wuppertal
    • Wurzburg
    • Zwcikckau シューマンの故郷。
    • Zweibrucken

    途中で引っ込みがつかなくなって続けたがかなりの数。13ある連邦州の都は全部中央駅だ。3つの直轄市も同様。ブラームス関連の土地で、中央駅が無いのが、デトモルト、マイニンゲン、ゲッティンゲン、ペルチャッハあたり。

    2014年10月16日 (木)

    中央駅

    ドイツ語で「Hauptbahnhof」と言う。駅の表示や時刻表では「Hbf」と略記される。都市の中核としての駅というニュアンスが濃厚に含まれる。特に駅の端が行き止まりの場合には一段と貫禄が増す。

    日本には中央駅と名乗るケースは少ない。新幹線の開通で鹿児島中央が出来たのは記憶に新しいのだが、我がふるさと千葉にも千葉中央駅がある。JRの千葉駅とは別だ。中核的とはとても呼べないのだが、味わい深い。

    ドイツ語圏の少々大きな都市にはみな中央駅があると思っていい。もちろんハンブルクにもある。その街を訪れた旅行者が駅に降り立ったときの感慨に一役買っていることは間違いない。

    Dscn2990

    2014年10月15日 (水)

    中央停車場

    ドイツ語「Hauptbahnhof」の訳語である可能性が高い。

    「東京市区改正計画」によって立案浮上した新橋-上野間の新線中に「中央停車場」の建設が1896年の帝国議会で正式に承認された。記事「フランツ・バルツァー」で言及したバルツァーの計画図の中、現在の東京駅に位置には「Hauptbahnhof」と明記されている。中央停車場の文言は、この「Hauptbahnhof」を指していると見て間違いない。

    1914年に開業の際、単に「東京駅」とされてしまったのが残念だ。レンガ作りの駅舎の威容、皇居に正対するという位置取りからして、東京の表玄関という思い入れは明らかだ。

    2014年10月14日 (火)

    陣中見舞い

    次女の後輩たちのコンクール挑戦の話。一昨日コンクール千葉県大会があった。そこに登りつめて行く、乙女たちの格闘は凄絶だ。たとえばリスト「前奏曲」の冒頭の厳粛なピチカートの前提となる沈黙を、時間をかけて磨き上げて行く。100m先で針が落ちても判るかのような、極度の緊張を何度も何度も体験する。あのピチカートの意味から逆算された沈黙。全員がその意味を腹に入れている。音楽なのに音を出さないという練習だ。

    親は見守るだけ。親の集まりである後援会には、コンクール当日、飲み物と軽食を差し入れる習慣がある。決戦の場に臨む娘たちへのせめてものサポートだ。毎年恒例のお店に頼んでいたのだが、今年に限って演奏開始時刻が繰り上がったために、納品が間に合わないことになった。

    そりゃ困る。断じて困るとばかりに、母たちが知恵を絞って到達した結論がこれ。

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    乙女たちが利用する通学路に、メロンパン専門店がある。大抵の子が立ち寄ったことがあるなじみの店。決戦の日曜日は定休日だが、事情を説明してお願いした結果、当日お店を開けてくれるばかりか、子どもたちのためにおよそ100個のメロンパンを朝焼いてくれることになった。約束の9時半に伺うと1個1個を丁寧にオリジナルの紙袋につめてくれていた。車の中によい香りが充満する。親の我々の心を見透かすかのような思いやりにただ感謝した。

    本番演奏の前に、子どもたちはそのメロンパンを口にする。ということは、演奏中彼女らの胃袋の中にとどまっていることになる。親の気合いとともにコンクール本番に挑むことに他ならない。

    結果は吉と出た。金賞受賞とともに、2週間後の全国大会への出場権を獲得した。野球で言えば甲子園。メロンパン屋さん本当にありがとう。

    子どもたちを厚く取り囲む先生、講師、親、OG、OGの親、それぞれのコンクールにかける数え切れない思いが錯綜した一日だった。夜は当然のように打ち上げ。帰宅後に記事が書けず、一日遅れの報告となる。だから今日鉄道記念日に公開予定だった記事を昨日に前倒しした。それほどまでしても断固残しておきたい話。何としても。

    おめでとう。

    2014年10月13日 (月)

    フランツ・バルツァー

    Franz Bartzer(1857-1927)は、ドレスデンに生まれたドイツの鉄道技術者、建築家。1898年日本に招かれたいわゆる「お雇い外国人」だ。彼の任務は東京の鉄道網の構築だ。

    当時東京の鉄道は以下の通りだった。

    1. 北の玄関 上野駅 現在の東北本線の起点
    2. 西の玄関 飯田町駅 現在の中央線の起点
    3. 南の玄関 新橋駅 現在の東海道本線の起点
    4. 東の玄関 本所駅 現在の総武線の起点

    このほか現在の山手線の西半分が市街の外周を走っていた。東京市の発展のための区割りを考える中から、ターミナル間の相互連絡の問題が浮上した。欧州のパリやロンドンでは、うまくいっていないとのレポートも出ていた一方で、ドイツのベルリンではターミナルの有機的な連絡に成功したとされていた。

    バルツアーはそのベルリン市街線の立案建設に関与した経歴を買われて来日したということだ。程なくバルツァーは、東京鉄道網の未来図を提示する。

    1. 上野と新橋を結び、既に完成済みの西半分と合わせて環状線とする。
    2. 上野-新橋間に東京駅を新設する。
    3. 本所と飯田町を結び、中央線と総武線を繋ぎ、秋葉原で山手線と直交させる。
    4. 中央線と総武線から東京駅への短絡線を設ける。

    現在の路線図を見る限り、バルツァーの提案が実現していることがわかる。1972年私が中学1年のときに夢中になった総武快速線の東京地下駅乗り入れは、バルツァー案の最後の仕上げだったということだ。

    現代でこそ、これに地下鉄や私鉄が加わり、ほとんど網の目となった都心だが、基本となるJR各線の骨格を決めたのはこのドイツ人だった。「まあるい緑の山手線、真ん中通るは中央線」というCMは、バルツァーなくしては生まれなかった。

    2014年10月12日 (日)

    広告付き切符

    音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻78ページ。友人のヴィトマンの証言。日用品の改良には敏感なブラームスというくだり。ヴィトマンはブラームスが広告付きの馬車鉄道切符に感心していたと証言している。

    この証言はいろいろな意味で貴重。1886年のこの段階で、馬車鉄道がまだまだ残っていたという証拠になる。馬車鉄道に乗るのに切符が必要だったことも判る。買い求めた切符に広告が印刷されておりブラームスがこれに感心したというニュアンス。それが以前には無かった新機軸だということが仄めかされている。同時に広告媒体としての切符の可能性を評価しているとも思われる。

    これがスイスの話なのか、ドイツの話なのか、はたまたオーストリアの話なのか不明なのが残念だ。

    2014年10月11日 (土)

    リニア実験線

    エムス川河口の街エムデンから、オランダ国境沿いを70kmほど南下したあたりに、両端がループ状になった南北に伸びる単線が地図にはっきりと示されている。「Versuchsstrecke,Magnet-Schwebebahn"Transrapid"」と添えられている。「Versuchsstrecke」は「実験線」という意味。「Magnetschwebe」は「磁気浮上」なので、日本語で申せば「リニア実験線」の意味となる。ドイツ語で「Transrapid」こそが「リニア」のことだ。

    日本での報道によれば時速500kmにも達する速度が売りなのだが、たかだか全長15kmの実験線では、高速運転の実験などできるはずが無い。単に磁気浮上して走りました程度の実験なのだろうか。

    その実験線の南端のすぐ西側に在来線の駅がある。「Lathen」という駅だが、そこから東に向かって25kmほど支線が伸びている。なんとこの支線では最近まで蒸気機関車が運行されている。リニア実験線はこの路線を立体交差で跨いているから、タイミングさえ合えば、リニア実験車両と蒸気機関車の走行を一枚の写真に収めることが出来たはずだ。

    リニア新幹線の開業は2027年と言われている。かなり先などと思ってはいけない。何故なら、ブログ「ブラームスの辞書」のゴールはさらにそこから6年も先の2033年だった。

    2014年10月10日 (金)

    寝台車

    ドイツ語で「Schlafwagen」という。ドイツ最初の寝台車はというと1873年10月1日にベルリンとベルギーの保養地オステンデ間で運転を開始したのが始まりである。ベッドの利用は1等の乗客に限られるという条件付ながら初めての寝台車であることは譲らない。

    ドイツ国内に限ると1874年6月1日にハンブルクとフランクフルトを結んだのが最初だ。1880年以降ベルリンを基点にワルシャワ、アーヘン、ハンブルク、ケルンと運転網を伸ばし、程なくハンブルク-ケルンも営業を始めた。

    飛行機や自動車の台頭を待つ間、夜行列車の独壇場だった。今日のオチは楽勝だ。ブラームスもきっと利用している。

    2014年10月 9日 (木)

    カール・オイゲン・ランゲン

    Carl Eugen Langen と綴るドイツの技術者。1833年10月9日生まれだからブラームスと同い年。1895年に没したのでほぼ生涯が重なる。彼の功績はモノレール。現役で運行中の世界最古のモノレールの考案者だ。ヴッパータール空中鉄道は彼の考案した「ランゲン方式」を採用している。

    ヴッパータールはブラームスもしばしば演奏会で訪れた街なのだが、空中鉄道には乗っていない。当時のドイツ皇帝ウイルヘルム2世を迎えた試運転が1900年10月24日だからブラームスはこの世にいない。考案者のランゲンでさえ間に合わなかった。総延長およそ14km、全部で24の駅を30分ほどで結ぶ。営業運転は翌1901年からだ。

    2014年10月 8日 (水)

    ホール練

    コンクール直前にはもはや恒例のホール練習だ。10月12日のコンクールに備えて、本番と同じホールを借り切っての練習のことだ。関係者以外に公開されないとはいえ、保護者は立派な関係者だから、入場が認められる。娘は既に引退しているというのに、私も駆けつけた。

    子どもたちの演奏の機会には必ず駆けつける親たちにとっても貴重な機会だ。何故ならそれは数少ない練習見学のチャンスだからだ。この時トレーナーの先生方がたくさん駆けつける。指揮者は指揮台を離れて客席中央から音響のバランスに微調整を加える。トレーナーの先生方は、その場でパートごとに細かい注意を与える。まさに「メークミュージック」の瞬間に立ち会うことができるのだ。

    今年の曲はリスト「レプレリュード」。申すまでもなく難曲だ。半年前に高校入学と同時にオケの門を叩いてから楽器を始めた生徒が数多く含まれるメンバー構成だということを考えると驚異的だ。しかも彼女らはそれを言い訳にしないどころか、それを悟らせる雰囲気もない。「私たちの音楽こうやって造ってゆくのよ」というプライドが音の奔流となってあふれ出る。

    エンディングの通し演奏は、練習最初の演奏に比べて別のオケだ。

    しかも、これからコンクール本番までまだ5日ある。この5日間でまだまだ伸びるのだ。後半ロスタイムに入ってからもう1,2点入る感じ。なんて幸せな子どもたち。

    2014年10月 7日 (火)

    作曲家名の駅

    有名作曲家の名前が駅名になっているかどうか調べるとがっかりする。ドイツとオーストリアをあたっても「Brahms」駅は無い。ベートーヴェンも、モーツアルトも、ハイドンも、シューマンもシューベルトもない。ブルックナーもマーラーもワーグナーもウェーバーもだ。いかにもありそうなバッハやブルッフもない。例外はシェーンベルクだ。「Schonberg」駅は5つもあるので、最寄の地名をキーに以下に列挙する。

    1. Gaildolf シュトゥットガルトの北東45km。山間の貨物専用線の終点。
    2. Kiel キールの北東21km。
    3. Lubeck リューベックの東15km。
    4. Mark ベルリンの北西60km。今や廃駅。
    5. Plauen プラウエンの西10km。

    いやはやどれも田舎で、幹線からもはずれている。ブラームスは多分降りたこともないだろうと諦めかけていたら、Berg駅も見つかった。カールスルーエの西15km、フランス国境まであともう少しの位置だ。

    2014年10月 6日 (月)

    鉄オタの考えそうなこと

    鉄オタ。「鉄道オタク」の短縮形だ。作曲家アントニン・ドヴォルザークはほぼ「鉄オタ」の域にあった。運行ダイヤの暗記は当然で、機関車を運転したいとまで思っていた。

    ドヴォルザークが1883年10月にウィーンを訪問して、初演間近だったブラームスの第3交響曲を、作曲者本人のピアノ演奏で聴いたことは、少し詳しい伝記にはよく載っている。→こちら

    この出来事が「10月上旬」あるいは「10月初旬」とされているばかりで、日付が不明になっていることが多い。調べを進めていて、愛すべき仮説にたどりついた。

    記事「オリエント急行」を見て欲しい。オリエント急行の開通は1883年10月4日だと書いた。補足するとこれは始発駅パリを出発した日付である。一番列車のウイーン着は10月6日の23時15分だった。ウイーン西駅着だ。ここから現在のウイーン南駅に回送されて1時間後の零時15分に発車した。

    深夜の出来事ではあるのだが、鉄道オタクのドヴォルザークがこれを見物したとは考えられまいか。ドヴォルザークの住まいがあったプラハは、オリエント急行のルートからはずれている。プラハからもっとも近い停車駅はウィーンだ。当時オリエント急行は時代の最先端の乗り物であり、マスコミもきそって取り上げたから、市民の関心は高かった。ましてや鉄道好きのドヴォルザークが無関心でいられるハズがない。少なくとも交響曲第3番の私演の合間に、オリエント急行がブラームスとの話題になった可能性は相当高いとにらんでいる。

    もちろん両者の伝記はこのことには沈黙しているが、このときのドヴォルザークのウィーン滞在が10月6日と7日を含む日程だったのではあるまいか。第三交響曲の私演は、むしろ付け足しで、メインはオリエント急行一番列車の見物だという読み。

    この仮説、おそらく世界初(当社調べ)

    2014年10月 5日 (日)

    ブルガリア王ボリス三世

    「鉄オタ・ドヴォルザーク」にはいくつも有名な逸話がある。彼はプラハ駅発着の時刻表と、機関車の形式を暗記していた。運転手たちとも顔見知りになっていた。自ら機関車を運転したかったとも伝えられているが、この夢は実現していない。

    シュミレーターならともかく趣味が昂じて実物を運転してしまうのは相当ハードルの高い夢だ。ところがこれを実現してしまった国王がいた。本日の主役ボリス三世だ。1934年のこと。ブルガリア王だったボリス三世は、オリエント急行が自国内を走行する時、機関車の運転台に乗り込み、みずから石炭をくべ機関車を走らせた。付き人や機関士の制止も無視してのご乱行だ。彼もまた鉄道オタクだったのだ。オリエント急行のダイヤなんぞとっくに暗記済みで、路線の配置も承知していた。あろうことか最高速度からのフルブレーキを試みるという暴挙に出て、食堂車の食器を壊滅させたと言われている。

    ドヴォルザーク顔負けの鉄オタに権力を持たせるとこうなるという見本。

    2014年10月 4日 (土)

    オリエント急行

    1883年10月4日ベルギーの青年実業家の構想が実現に至った。パリ-コンスタンチノープル間を結ぶオリエント急行の開通だ。パリからナント経てストラスブールでライン川を渡る。カールスルーエ、シュトゥットガルト、ミュンヘン、ジムバッハ、ウィーン、ブダペスト、ブカレスト、シュルジュ。ここで乗客は列車から降りてドナウ川を船で渡る。対岸のブルガリア領ルーセから、別列車に乗って黒海沿岸のヴァルナに向かう。ヴァルナからは船に乗り換えて18時間のクルーズでコンスタンティノープルに到着だ。80時間近くかかったらしい。

    現在のドイツ領内は、当時バーデン公国、ヴュルテンブルク王国、バイエルン王国に分かれていたし、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ帝国に割譲され、帝国直轄地になっていた。とりわけバーデン公国鉄道は軌道幅1600mmだったから、巨費を投じての標準軌への改装が無ければ直通列車は無理だった。その後ルーマニア領を通過しないベオグラード経由に改められて、コンスタンティノープルまで直通列車が走るのは1888年8月12日を待たねばならない。

    とにもかくにもオリエント急行のステイタスは高く、時代の最先端の乗り物だった。欧州に鉄道が敷かれておよそ半世紀で登場した究極の交通手段だった。そしてそれは何よりもブラームスの生きた時代とかぶる。ブラームス自身はオリエント急行に乗っていないことは確実だが、オリエント急行を知っていたこともまた確実だと思われる。

    2014年10月 3日 (金)

    ヴェーセル鉄道橋

    1871年普仏戦争勝利により成立したドイツ帝国。フランスやベルギーの国境は領国経営にとって最重要の拠点。だからいくつも鉄道を敷いてこれを流通面で支えようとした。ハンブルク-フェンロ鉄道もその一つ。ドイツ随一の港町ハンブルクとオランダのフェンロを結ぶ鉄道だ。その大動脈がライン川を越えるところに建設されたのがヴェーゼル鉄道橋である。

    2年の工期をかけて1874年に完成した。ヴェーゼルは地名だ。デュッセルドルフの北北西で、およそ48km下流になる。ドイツ領内でライン川を跨ぐ端としては最北端だ。河川敷の部分はレンガ造りで、流れを跨ぐ部分だけが鉄橋。

    第二次大戦末期、連合軍の反攻が始まった時点で、軍隊の渡河が可能な橋が2つ残されていた。映画で名高いレマゲン鉄橋と、もうひとつがこのヴェーゼル鉄道橋だった。1945年3月24日にドイツ軍自ら爆破してしまい、その後も再建されていない。レンガ造りの部分だけが今も残っている。全長1950mは、1913年にエーレンルンデのレンズブルク鉄橋に抜かれるまで、ドイツ最長の鉄道橋の座にあった。もし残っていたとしたら、現在でもドイツの鉄道橋としては5番目の長さに相当する。

    ドイツのライン地方からオランダに行くなら、ライン川の船が第一の選択肢だが、ウィーンやハンブルクからなら鉄道も捨てがたい。1876年1月ブラームスが初めてのオランダ演奏旅行に出かけた際には、ここを通っていたかもしれない。

    お気づきの方も多いと思う。このところ何気なく鉄道橋ネタが多かった。トンネルと鉄橋は鉄道のハイライトだ。

    2014年10月 2日 (木)

    暖房車

    ドイツの冬は寒い。乗客を寒さから守る工夫は、初期段階から始まっていたと目されるのだが、決定的な情報にたどり着いていない。ドイツの鉄道において列車暖房が始まったのはいつだろう。

    ブラームスの伝記の中に有力な情報があった。1896年クララの死から程なく体調不良を訴えたブラームスは、医者に進められて現チェコのカルルスバードに転地療養に出かけた。1896年9月3日のことだ。めぼしい効果もなく、ウィーンに戻るのが同年10月2日であった。このとき、ブラームスの体調を心配した友人たちが、ブラームスが乗る客車に暖房を入れることを鉄道会社に交渉したとされている。規定より2週間早く暖房を使用させようとしたのだ。

    この記述により、列車に暖房装置があったことが明らかとなる。暖房の使用開始時期について、鉄道会社が内規をもっていたことも判明する。暖房の方式は不明ながら貴重な情報だ。カルルスバートとウィーン間の話なので厳密にはドイツではなく、ハプスブルク帝国鉄道だ。

    2014年10月 1日 (水)

    カルロヴィヴァリ

    欧州中にその名をとどろかすチェコの温泉地。ドイツ語ではカルルスバートという。1896年5月クララが没した後、体調を崩したブラームスは鉱泉療法を受けるためにこの地を訪れた。思ったほどの効果は無く、程なくウィーンに戻る。本日はその帰還ルートを検証する。

    1. カルロヴィヴァリ→ウスティ・ナド・ラベム→プラハ→ブルノ→ウィーン
    2. カルロヴィヴァリ→ウスティ・ナド・ラベム→ブジェヨヴィツェ→グミュンド→ウィーン
    3. カルロヴィヴァリ→ケブ→ピルゼン→ブジェヨヴィツェ→グミュンド→ウィーン

    現代の旅行者なら1番を選ぶだろう。少々大回りだが時間的には最短だ。それでも8時間と少々かかる。特急列車の本数も多い。プラハ-ウィーン間はハプスブルク帝室鉄道のウィーン北部鉄道だ。

    2番目のルートはプラハ-ウイーン間をカイザーフランツヨーゼフ鉄道を使うコースだ。今でこそローカル線の扱いだが、当時は大幹線だった。1番目のルートよりも距離が短くなる。

    3番目はお宝だ。地図上でウィーンとカルロヴィヴァリに定規を当てて線を引くと、このルートがそれに一番近い。カルロヴィヴァリからケブまで一瞬西に向かって走るものの、ケブからウィーンはほぼ直線になる。途中にあるピルゼンとブジェヨヴィツェは世界に誇るビールの銘醸地だ。病身のブラームスがビールをたしなむとも思えないが私ならこれを勧めたい。

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